
東京郊外の街道に並ぶイチョウ並木ですが、街道の南側は高いビルの日陰で緑を残したまま・・・・。
昭和2年に植えられ、十年くらい前までは、街道筋の両側ともに見事な黄葉になったのですが、残念です。
さて、これから先は、堅苦しく重たい話になりますが勤労感謝の日にちなむ、自分的覚書なので、読んでも面白くないことをお断りしておきます。
今から60年余り前、我が国が戦後の復興から立ち直りつつあり隣国の動乱をきっかけに景気が好転したころのことです。
私の実家は、両親が二人で力を合わせて小さいながらも繊維関係の卸問屋を営んでいました。
母親は二人の兄の育児や家事などもあり三人目の自分が生まれた後、疲労で伏せることが多くなり、お手伝いさんを雇ったようです。
ようです、と言うのは自分が生まれたばかりの頃なので、詳細は定かでないからです。
当時、両親の実家の村の中学を卒業したばかりですが、住み込みで生まれたばかりの私の子守やら家事のお手伝いをしてくれたのです。
物心がついたころ、そのお手伝いさんが自分の姉だと思ってましたので、ここでは姉と表記しときます。
特に女の子がいなかったので、母親は実の娘のように接していましたから、幼心にも実の姉だと思っていたのも無理はありませんでした。
いたずらをしたら母よりも先ず、姉に真っ先に怒られました。風邪で咳が出ると葱の白い部分を焼いてガーゼに包み嫌がる私ののど元に巻き付けることもしばしば。
どんなに怒られても、姉が好きでした。
後で知ったのですが、姉は、葱が大嫌いだったのです(笑)
食べ物のことでは、母直伝の煮物や五目ずし、おはぎ、酒饅頭などなどとても素晴らしく美味しかったのが懐かしく思い出されます。
そんな姉も知らぬ間に両親が縁談をまとめ、お嫁に行ってしまうことに・・・・。
姉と暮らしたのは10年でしたが、自分の中では、いつまでも姉であり続けましたし、両親にとっても実の子と同じように行き来が続いていました。
嫁いだ先でも家族ともども働き続けて二人の子供を育て上げ、ご夫婦でのんびりとした暮らしを楽しんだらどうかとやきもきしていた時期に、突然の病魔が・・・・。
ちょうど15年前のことです。
入院中にお見舞いにも行きましたが、すぐに治療のために面会禁止になってしまい、ついに元気な姿を見ることが出来ませんでした。
病院から自宅に戻った姿は、とても安らかにいつもの優しい笑顔・・・・。
亡くなる数時間前に自分でお化粧をしていたとのことでした。
その夜は、枕元で数時間、泣き伏してしまいました。
働きづめの人生だった姉が勤労感謝の日に逝ってしまったのは、働くこと、働けることに感謝していたかのようです。
自分も姉と同じ年齢になった、今年の命日のお墓参りでした。

Posted at 2013/11/23 21:22:40 | |
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