日頃情報を集めているTwitterで面白い話を見かけたので共有したいと思います。
Twitterは九分九厘興味がない情報で時間の無駄なように感じられますが、たまにこういうダイヤの原石のようなものに遭遇する事があります。
まず自分の政治的立ち位置は「中道左派」くらいの立ち位置だと自認しています。
しかし危機の高まる東アジア情勢から(というか昔から)経済安全保障は保守であるべきだと思っており、これは「リバタリアン」という事になるんだろうと思います。
これまでも保守やリベラルについては何回か書いてきました。
今のリベラルは共産主義に取り込まれて非常に危うい物になっていると思いますが、これについては多くの方もそのように感じているでしょう。
Twitterで見かけたのは「リベラルがなぜ嫌われるのか?」という一連のツイートでした。
この投稿をしたのは自称リベラルでフェミニストを自認する方で普通なら保守へのヘイトに満ちた唾棄されるような駄文が書き連ねられているところなのですが、この方はよく勉強されていて、かつ冷静になぜリベラルが煙たがられているのかについて考察しており一読に値すると思いました。
50年ほど前の「リベラル=コミュニタリアン論争」という議論から始まります。
1971年に出版された“on the theory of justice”(正義論)というハーバード大のジョン=ロールズ教授が著した本により今日認識されているようなリベラリズムの骨格が形作られました。
保守=功利主義ではないのかという批判が主張の骨子でした。
保守思想というのは伝統や文化、法律を重んじ変革を嫌う思想でしたが、それは功利主義、つまり自己の幸福の最大化は時に問題なのだという事です。
その例としてアメリカが開発し、1945年に広島と長崎に投下した原子爆弾を「日米で戦死者が最小になるから」と正当化するのはまさに功利主義であり、原爆で殺された日本人には何の得にもなっていないではないかというような批判が展開されたようです。
分かりやすくすると「立場を入れ替えた時に受け入れるのか?」という事です。
従って、もしアメリカと対立する勢力が「ワシントンDCとNYCを核攻撃するのが互いの戦死者を最小にするので実行します」と宣言した時にアメリカが「うん、そうだよな。どうぞやってください」と言うのか?言わないのなら偽善でしかないという訳です。
これらの論旨には当時も物言いがついたようでこの論争部分は省略しますがロールズは「だったらどんな立場や境遇の人でも賛同できる社会こそが最もダブスタじゃない正義的な社会ではないのか?」という“無知のヴェール”という考察をします。
結果に基づく倫理の理論—功利主義
https://www.juse-p.co.jp/files/download/26/ch7.pdf
「あらゆる人の立場や視点を入れ替えても成立するルールが今日的なリベラリズムが構想する正しさの基準」と言う事で功利主義のように考えると道徳上致命的に問題のある局面が浮上するという道徳哲学批判を展開します。
これに異を唱える「コミュニタリアン」(共同体主義者)が登場します。
共同体主義とは、個人を育むのは「共同体」なのだから出発点を個人ではなく共同体にするべきという思想です。
リベラル・コミュニタリアン論争は宇野重規、マイケル・サンデルらがロールズの「無知のヴェール」に対して、初期状態における人間と言うのは歴史的、社会的な属性をはぎ取られた抽象的な自己に過ぎない、というのです。
そしてその抽象的な自己では道徳的な判断は出来ない、従って人間は歴史的、社会的に状況づけられているのであり、はく奪された自己は内省する事も出来ないという"unencumbered self"(負荷無き自我)のような非常に抽象的な考察を展開しました。
投降者はこれを【相手に反差別的に考えることを求めるということは、相手の「歴史的・社会的属性をはぎ取って」、いったん丸裸な個人になることを要求する】というのはまさにキャンセルカルチャーそのものであるとしました。
キャンセルカルチャーと言うのは「問題がある」と認定した著名人や企業などに不買運動したりスポンサーに圧力を掛けて降板させたりして社会的に抹殺してしまおうという動きです。
これは義憤にかられた個人が行うような事もありますが、人権や環境問題などを後ろ盾にしたリベラルの抗議活動として組織的に行われる事が多く近年問題になっています。
投降者はサンデルらは自己批判として打ち出した「愛着をもてない、自分がそうなりたくはない自己」という概念を他者を攻撃する理論として使われているとしています。
そして功利主義、リベラリズム、共同体主義はどれか一つが完ぺきなのではなく、常に批判し合う三すくみの関係にあるとしている点に、これまでとかく保守vsリベラルという対立軸で見て来ただけに「ほぉ」と思わされるものがありました。
ただ、投降者も気付いているようですが、リベラルは共産主義の闘争ツールとして取り込まれてしまっていると思います。
共産主義は労働者の不満を利用して特権階級を排除しましたが、初期の目的を達すると今度は権力基盤を強化するために強権的な弾圧、そして組織内部での権力抗争を始めるのが常です。
それは権威付けの問題でもありますが、結局は国民(彼らが言う所の「市民」)の心は離れていき体制として行き詰まります。
経済的にも人為が勝るという思想から市場をコントロールしようとしますが、所詮は人間の浅知恵ですから全てのファクターを考慮しコントロールする事は出来ずに経済的にも困窮していきます。
結果的に共産主義は市場原理と結びつき、それは民主主義との癒合を遂げるのですが、保守勢力を攻撃するためにリベラルに憑りついているのが今の状態と言えるでしょう。
「俺が考えた最高の解決法」などというのは幻想で、先人が知恵を絞って試行錯誤を重ねた結果の文化や法律を超えるなどと言う事は早々起りませんが、今の政治をぶっ壊して世直しするぜ、というのは中二病(中学二年生が考えるような正義感だけが空回りする浅知恵)と揶揄される由縁でしょう。
もちろん保守にも問題はあって、特に長期政権での権力腐敗は統一教会とか言われるよりも前から言われていた事です。
それだけに今野党勢力が殊更に統一教会問題しか「攻撃」しない事には違和感と言うよりも不信感しかありません。
今、国民が困窮しており経済問題が最優先の課題である上に国が脅かされては生活もままならなくなるのはウクライナを見るまでもなく明らかな事であり、国防こそ国が行う最大の福祉と言われるところです。
こんな状況にもかかわらず与党がのほほんとして官僚の使い走りをしているのは野党が現実的な代替案を出せず「それは与党の責任。野党は批判だけでいい」などと甘やかすマスコミにも問題があります。
問題の本質の片りんがマスコミではなくSNS、つまり庶民の方から聞こえてくるというのも今の政治状況を端的に表しているのだろうと思いました。
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2022/11/23 11:37:05