
今しがた母親が暮らす気仙沼市から東京に帰ってきました。
親が入院したための予定外の帰郷でした。
そもそも冬場は交通事故など危ないのであまり帰らないのですが、今回はスタッドレスタイヤに加え、こちらで非金属のタイヤチェーンを調達しての東北行となりました。
親が救急搬送されたという連絡が来たのは先週木曜日の夜、翌日の筑波サーキット走行会の天気がどうも雨らしいという事で滅入っていて、翌日も朝は早いのでそろそろ仕事を切り上げようかという時でした。
携帯に登録のない、しかし気仙沼市の市外局番からの着信で、これは良くない知らせだろうな、と思いながら電話に出ると、案の定、市役所から親が救急搬送されている所だ、という事でした。
電話では三日間ほど近所の人が新聞が溜まって夜になっても部屋の明かりが点かないのを不審に思って役所に連絡して部屋で倒れている所を発見されてそのまま緊急入院となったようです。
本人、血糖値が高くて動けなくなっていたようです。
役所の人が搬送された病院に電話して欲しいということだったので、相当マズいのかと思い、電話を入れると今到着したところだから分からない、という事だったので、命に関わるようならこちらに連絡してもらえるようにしてそのまま待ちましたが、結局病院からは連絡が無かったのでこちらから連絡すると意識レベルは低いものの、命に関わるほどではない、という事でしたので翌日はサーキットへ向いました(酷
天気予報は雨だし、サーキットは諦めてそのまま気仙沼に向おうかとも思ったのですが、東北では雨ではなく雪の予報で全くの準備不足で途中でスタックしてしまっては元も子もありません。
サーキットでも着信が無いか確認していましたが、特に急を知らせる連絡も無く、また数日後には仕事の会議があって、これは前回自分が不在だったため今週にスキップされたものでしたので、こちらにも顔を出し、ついでに有給休暇を申請して、タイヤチェーンや近所への御礼の品を準備して、エンジンオイルを補充、冷蔵庫にも生ものが残らないようにしてから東北へ向いました。
抜けるような青空の下、東北道を北上します。
前回は猫同伴でしたが、今回は一人旅になりました。
関東ではさすがに降雪の痕跡はあまり見られませんでしたが、福島手前あたりから路肩やノリ面に除雪された雪が目立つようになってきます。
クルマが通る場所は平気なのですが、これが夜間に路面に流れて凍るとブラックアイスバーンになってちょっとクルマでも危ない状態になってしまうので移動は現地到着も含めて日中に辿り付けるように早朝の出発になりました。
途中のSAで。どこだっけ?
北上するにつれ、高速道路の周囲も雪化粧になってきて、いよいよ冬の東北という感じになってきます。外気温は数℃。日陰とか条件が悪ければ凍っているかもね、という事でスピードも控えめに。
もっともこのスタッドレスタイヤ、純正ホイールが古くて信用できないのでインナーチューブを入れていて、それを自分で交換した手組みなのでホイールバランスが取れてなくて100km/hを超えると振動が出てくるため、燃費を稼ぐ意味もあって90km/h前後で走りました。
今回の東北行ではコレを使いました。
サーキットのスポーツ走行用に調達したんですが片道500km、7~8時間運転しているとアクセルを踏みっぱなしの右足のカカトが痛くなるんです。
まぁサーキットなんて年に数回だけだし死蔵しても、というかダメだったら履き替えればいいのでレーシングシューズを履いてみました。
結果から言うとこれが正解でした。
カカトは全く痛くありません。
もっとも右足は常に同じ角度を保つわけで攣りそうになるのはあまり変わりありません。
これは内股にしたりがに股にして道の高低や前走車の微調整して対応します。
足先の角度が同じでも、これだと足首に力が掛からず、足底の何処がアクセルペダルに当たるかによって微妙なガスコントロール、おおよそ5km/h前後程度は簡単にできるようになり、またその状態をキープできるようになります。
昔、トヨタ2000GTが当事の世界記録樹立のために矢田部のテストコースで72時間走行のタイムトライアルを実施した時に選抜されたドライバーはレースみたいに頑張らなくていいからこりゃ楽勝だわ、と思ったそうですが、いざ走り始めてみると常に一定の回転数を保つというは恐ろしく苦行なのに指示は「今の周は500回転高かったです。500回転下げてください」なんて指示が来て、やはり足が攣りそうになったとか。
まぁ自分はそこまで厳密なガスコントロールじゃないんで気楽なもんでしたが長距離を延々走ると言うのはやはり辛いです。
こういう時は楽な現代の車が欲しくなります。
ザ・東北、という感じの風情。
往路はトラブルもなく順調に計画通り気仙沼に到着しました。
しかし親が家の鍵を壊して付け替えたという事で自分が持っている合鍵では入れませんので、まず病院へ向います。
この頃には様態も安定してきているという話は聞いていましたので、会話くらいはできそうです。
病院に着くと鍵を受け取って家に向かおうと思ったら待ちかねていたように、あれやこれやと書類を渡されて記入しろとか、支払いをお願いしますだとか着替えだ入浴の準備だ洗濯は誰がやるか決めろだの今後一人暮らしさせるのかだの、ちょっと待てと。
市内の職場から来たわけじゃないんだよという事でそういったものは持ち帰り、その日は侘しくコンビニ弁当でした。
翌日、病院に持って行くものをクルマに積み込んでいると仮設住宅の自治会長さんとかが出てきてどんな形で見つかって搬送されたか、といった話を聞きました。
以前にも畑で倒れていた所を見つけてもらっていたので近所の人も気にかけてくれていた様子。
ありがとうございますと頭を下げっぱなしです。
肝心の本人はあまり自覚していないようですがそんな事は口が裂けても言えません。
母親が居る仮設住宅は宮城県でも際後の方に建った県内唯一菜園があってペットも許可なしに飼える仮設住宅で10戸ほどの小さな長屋です。壁一枚隣で何話してるかまる聞こえ。
まぁこういうコミュニティだから発見されたといって良いでしょう。
現在建設中の入居予定の復興公営住宅はいわゆるマンションなので扉を閉めたらもう隣近所の事は感知されませんから次やらかしても誰も助けてくれません。
本人にその自覚もあまりないようで今回の事も大騒ぎになって体裁が悪い、くらいの認識でいる様子。
人に頭を下げるのを何より嫌う母親の口からは絶対に出ないであろう「命を助けてくださってありがとうございました」と御礼を申し上げて持参したせんべいの詰め合わせを配って歩きました。
(まぁ命とせんべいが釣り合うのか、という気もしますが)
そして前日に時間が合わなくて会えなかった主治医の所見を聞きます。
糖尿病だけでは介護保険の審査には通らないだろうという、これも事前に調べたとおりの回答でした。
ただ本人、具合が悪くて寝込んでいただけといっているけどそれで血糖値のコントロールが出来なくなるならそれはもう介護が必要では?という事で翌日市役所に掛け合う事にします。
午後からは地元の友人の一人が休日と言う事で東京で配る土産を買うのに付き合わせます。
買いに行くだけなら自分の車でもいいんだけど、彼もせっかく買った新車を自慢したかろう、という事と土産を買うのに持っている商品券を渡すから現金で返してくれ、という事で、まぁそれくらいならいいよ、と付き合わせます。
夜は彼の家に行って晩御飯をご馳走になりました。
翌日、これが本命かもしれない、市役所に介護保険の申請をしに行きました。
もっとも、本人や家族の聞き取り調査や担当医の所見などから結論が出るのに一ヶ月以上掛かるという事なので今回はこれ以上できません。
病院に取って返して前日に頼まれていた身の回りの品を渡すと、今度はリハビリに室内履きが要るからとか言われます。
ちょっと待てと。
一度に全部言ってくれれば1回で済ませるのに、そんなの何度も小出しにされても明日は東京に帰りますから、と言ってとりあえず靴を探します。
しかし普段でも人気が少ない所に震災の津波で廃業した個人商店も多く、また自分が地元から離れて随分時間が経っている事もあって、まったく不案内です。
病院で看護師に言われた店には無く、通った時に学校指定のジャージを売ってたような店があったので飛び込んで見ますが空振り、しかし、そこであの通りのどこそこにはあるかもよ、との情報を得てその店を探して行ってみると今度は無人。
なんだかゲームみたいだなと思い、とりあえず同級生がやっている仮設商店街の寿司屋を訪ねてみます。
南町紫市場 特急寿司
被災前は店内をHOゲージくらいの電車に乗って寿司がやってくるというのを回転寿司よりずっと前からやっていました。
まだ平塚に住んでいた子供の頃、墓参りとか年末年始に気仙沼の叔父さんの所に来ていたとき、子供が喜ぶと思ったのか、この特急寿司に連れて来られた事がありました。
もちろん当事はまだせがれとは同級生ではなく後に親が離婚して母親の実家のある気仙沼に転居してそこで高校まで進んでから同級生となるのですが当事は知る由もなく、なんとなく子供心に気仙沼というと特急寿司が思い出されたくらい自分にとって特別な存在となっていました。
仮設商店街では瓦礫から救出した列車は走っていませんが復旧作業に携わる作業員とかにぎわっていた時期もあるとか。
もちろんそれは一時的な事だというのは分かっていますから、今年で廃業するそうです。
残念。
海鮮丼。
握り。今回は予算の都合で並でしたが、上握りはオススメです。
寿司ならいくらでも食べてしまうのが困りモノ。
ただどちらかというと街の様子や同級生の様子を聞くのが楽しみだったんですけどね。
病院に戻り洗濯乾燥した病院から借りた衣類などを返して今回のミッションはひとまずコンプリートでしょうか。
今日も道路の凍結などを見越した時間に気仙沼を出発し、予定より早めの7時間半で東京に戻ってきました。
復路はいつもそうですが今回はいつにも増して自分の半生を振り返る時間となりました。
流れていく景色の家々に家族が居て、それぞれ個人が「自分」を持って暮らしています。
冷蔵庫が空なのでとりあえず食料品を買い出しに行くと、戻ってきたというより、ここが自分の軸足を置くところなのかな?と朝話していた気仙沼の人達との距離を感じます。
雑踏を行く一人一人もおなじようなバックグラウンドを背負って東京に生活の軸足を置いているんだな、と当たり前の事ですが思います。