親戚からの入院中の母親の急の知らせを受けて気仙沼に向ったのはGW後半の5月3日の事でした。
GWは仕事で出社し翌週以降に代休を取得して帰省する予定でいたのですが、親戚からの電話ではどうなるか分からないから、というニュアンスだったのですが、なんで病院から連絡が来ないのかと思って問い合わせたら自分がGWに帰ってくると伝わっていて来るのを待ってました、との事。
病院が言って来ないなら親戚が大げさに言っているだけなのか電話では判然としませんがいずれにしても脳梗塞で入院している親の様態が悪化したのは間違いないようですから仕事は放り出して気仙沼の病院に向いました。
普段はGWの混雑を避ける日程や時間帯に出発するのですが、そうも言っていられないので最低限の仮眠を取って東京を発ちました。
事前に渋滞予想などを調べる暇が無かったのですが予想どおり高速に乗ると早朝にも関わらず渋滞が始まっていました。
昔のようなよく分からない交通集中と言うよりはICやSAの出入りによって流れの速度が乱されて止まってしまうようです。こういうのは我先にと車線変更を繰り返したり車間を詰め過ぎて不用意にブレーキングが繰り返されるために起こる渋滞だと言われています。
要するにバカ渋滞です。
東北道は川口から宇都宮を過ぎるまで、また二車線に減少するところで断続的な渋滞が発生しており150km進むのに3時間30分以上掛かり、結局気仙沼の病院に到着したのは10時間30分後の夕方になってからでした。
母親はナースステーションの目の前の病室に移されており、これは危ない兆候だと思いました。
病室に入るとベッドで寝ているようでした。
ただし呼び掛けても返事をしないと言う話で呼びかけてもいびきをかいています。
これまで軽い脳梗塞を起こした事はありましたが最近は糖尿病による血糖値異常の方ばかりに気を取られていました。
また4月には心臓のカテーテル手術を予定していましたが入院予定の直前になって歩けなくなったという事で自分から病院に連絡したようです。
先月75歳になったところで長寿の家系にすればまだだま余命があると思っていましたが最近退職するまで働きづめだった母親の体はその年齢以上に疲弊していました。
それでも脳梗塞や糖尿病は良くなる事は無くても徐々に悪化するので検査と薬で進行を遅らせられると考えられていただけに、親戚が見舞いに行った数日後に脳梗塞の治療中にも関わらずなぜ急激に悪化したのか分かりません。
見舞いに行った日には担当医がいた為、検査結果や現在の治療などを聞きましたが、急に来院した事を良く思っていないようでまずその事を咎められました。
こちらとしても治療法などに言いたい事はありますが母親の身柄を取られているので何を言われても我慢です。
しかし脳梗塞が新たに出てからは今は血液が詰まらないように血流を良くする薬剤と、尿路感染によると思われる高熱があるための抗生剤を点滴しているとの事。
つまり為す術も無く経過を見ているだけ、との事です。
手詰まりなのか自分を含め患者である母親もよくは思われていないのか、と勘繰ってしまいます。
呼びかけても返事を出来ない母親を残してひとまず山中の仮設住宅に戻ります。
仮設住宅では近所の人に見てきた状態を伝えます。
震災以降、母親の暮らしてきた仮設住宅。
この窓から毎日外を眺め何を思っていたのか。
建設中の復興公営住宅に転居する為、以前の物のあふれる部屋からはだいぶ片付いていました。
しかしまだ物が多くあります。母親はもうこの部屋に戻ってこられる状態ではありませんので翌日は親戚の協力で部屋の一部を片付けます。
本人はまだ生きていますが遺品整理をしているような心境です。
生来こういうプリミティブな作業には没頭してしまう性質ですが、しみや汚れ一つにも母親の生活が染み付いていて、それを拭い去るのは命のロウソクを吹き消しているような、そんな罪悪感が付きまといます。
この日も何回か病院に足を運びましたが、昨日は呼びかけても起きなかったものが、しばらく呼びかけていると小声で返事をし、聞き取りにくいですが会話もしました。
もう話しをする事は出来ないと思っていたので、自分としては嬉しかったですが母親は思っていることが伝えられずもどかしいようで涙を浮かべていました。
アルバムの類は引っ越した時に「貴重品」と書いた箱を金目のものだと思った引越し業者にパクられて手元になかったのですが、今回親戚から焼き増しで分けてあったものを貰って来たので見せたところ、写真を持っている自分の腕を掴んで見えやすいように高さを調整し始めたので、その力強さにこれも大きな前進だと感じました。
母は昔、ある外交官の方の屋敷で住み込みで働いていました。自分が生まれる前だから50年前の話です。
その縁で父と見合い結婚したのですが苦労が多く、結局離婚してしまいました。
離婚後は自分を引き取り、実家のある宮城県気仙沼市に転居し、女手一つで自分を育ててくれましたが我を張る性格で自分を含めた周囲とぶつかり、いつも損ばかりしているような人でした。
倒れる前に「体も弱ってるんだからもう少し自分を曲げて周囲に感謝を示すようにしなさいよ」と言ったのですが「道理を通さなきゃだめだから」と言って聞き入れませんでした。(後で同じ事を言ったのにと親戚からも聞きました)
「あなたね、そういう意地っ張りなところが命取りになるからね」
と強く言ったら黙っていましたが。
いつも仕事で自身や家族よりも他人のことばかり気にしていた母。
降り積もった新雪に足跡で花びらを作った母。
「七度探して人を疑え」と言いながら日暮れまで藪の中で一緒に野球ボールを探してくれた母。
その母が今は力も弱く、やっと声を振り絞るようにしてしか喋れない状態で横になっています。
この人のために流す涙は無いと思っていましたが、この人の人生を考えると涙がこみ上げてきました。
75年、他人のことばかりやってきて、気がついたら自分は身動き一つままならない体になってしまった今、胸中に去来するものは何か。
話していると疲れてしまうらしく、起こしてから40分もするとまた眠りに落ちる母を残してまた仮設住宅に戻って夜を過ごします。
日没前にやりたかったのですが母の車は売却する事になったので綺麗に洗車します。
自分の車にしているように部品を外して裏側まで徹底的にやりたかったのですが、時間もありませんので見栄え優先でやっていきます。
翌朝も朝4時には目が覚めてしまいます。ここ数日はこんな状態。
布団の中に居ても悪い事ばかり考えてしまうので洗車の続きをやります。

脳梗塞が悪化する前に購入手続きしていた助手席回転シートのマイFitと母親のアルトMT。
なんでMTだ?母が50を過ぎた頃、仕事に不便だからと免許を取得してこれで都合四台目。
2台目は先の東日本大震災で流されてしまい、3台目は被災地でとにかく客回りに必要だから何でもいいからと買ったボロい軽。
そしてこのアルトが被災後の仕事と退職後の生活を最後まで支えた車となりました。
他の人ならやらないようなウェザーストリップの裏などもワックス掛けします。
これは次のオーナーのため、というよりは母への感謝の気持ちです。今更ですが。
正直、あちこちぶつけてるしMTなので値段は付かないと思いますが、病床の母親に聞いたショップに連絡すると、そういう事情でしたら引き取らせていただきます、という事でした。

鍵を渡す時、あぁこれで本当に最後なんだと思い、帰り道の歩きは本当に内臓を握られたようなそんな嫌な気持ちでした。
次に病院を訪問すると上手く喋れないのか声が聞き取りにくかったのですが車のキーから外した鈴を家の鍵に付けて持たせたところ、その鈴を鳴らしていました。
喋れないなら筆談できたらいいのにね、と言った所、袖机の方を示して何か要求しているようでしたのでペンを持たせて紙を宛がうと

字を書こうとして上手く行かなくて黒く塗りつぶしたようでした。おそらく自分の名前か。
ただ書いている間は今まで以上に目を見開いて集中していたので闇の中に一筋の光明を見た思いでした。
この日はGW中の平日という事で、やっている市役所関係を回って介護認定の見直しと、入居希望を出している復興公営住宅への入居希望取り消しの手続きをしました。
担当の人も母の名前を告げるとよく知っているようでした。
事情を説明しているウチに図面を見たりして入居を楽しみにしていた母の姿を思い出して悔しいやら自分が情けないやらで職員の人の前で不覚にもあふれる涙を抑えることができませんでした。
帰省最終日。
午後には東京に向けて出発する事にしていますので出発する前、午前中に母を見舞います。
すると自分が病室に入った時には目を見開いて覚醒していました。
こんな事でもこれまでなら眠っているのか意識レベルが低いところを何度も呼びかけて反応していたのに比べたら大きな進歩に思えます。
この頃にはチューブを外さないように動く方の手を抑制しているミトンを外して手を握っているのを帰る時にはまたはめるのですが、自分から手を入れるようになったり帰りには手を振っていたりと、最初の状態からしたら改善に向っているように見えます。
この日は担当医ではない先生からの所見を聞きます。
正直セカンドオミピオンや転院を考えていたので主治医以外の所見を聞いてみたいと思っていました。この先生は院長の息子で「東大先生」と言われていて、竹野内 豊に似て垢抜けた感じの好青年です。
曰く急に脳梗塞が他の場所に出来たのはおかしいと思い再検査したところ、脳アミロイドアンギオパチーだということだそうで脳全体の血管がもろくなって脳全体に小さい脳内出血が出ているとの事です。
こうなると今の脳梗塞を予防するための血管の流れを良くする点滴は脳内出血を招くリスクがあるため、点滴を止められるようにする事が第一だという事です。
それは同時に脳梗塞の再発リスクが高くなるので非常に厳しい状態である、とも。
本人の枕元だからはっきりとは言いませんでしたがニュアンスから「覚悟してください」と言われたように感じました。
これまでの運動機能や意識レベルの改善でぬか喜びしていたのが本当に虚しく感じた瞬間でした。
それでもなぜ脳梗塞治療中に脳梗塞が悪化したのか、しかも他の箇所で、という疑問の答えを得られたような気がします。
だからといって諦める気はありません。
特養や老人保健施設は400人からの順番待ちだそうですが、症状や事情を汲んで入れてもらえる可能性もあるという事だったのでいくつか候補を絞って申し込んみました。
「これまで他人の事ばかりやってきたんだからこれからは自分の事にお金を使っいいんだから。無駄遣いじゃないからね」
と言ってみましたが本人はどう思っているのか。
字や絵を描ける知育玩具を置いてきました。判別は難しいですがやはり字のようです。
別れ際には涙を流していているのを見て去りがたいものがありました。
午後には出歩けない親類から事情を聞ききたいのと言っておきたい事があるから、と呼ばれました。
まぁそうだろうな、という感じでお墓をどうするのか、という話です。
これまで話題にすると現実になりそうであえて避けてきたこと。
母は離婚したこともあって、どの家の墓に入ったものか、ちょっとそれ以外にもあって事情が複雑なのですが永代供養料だとか檀家だとか言われましたが、以前に母が言っていた親しかった親戚の家の墓に入りたいと言う本人の意向を聞いたことがあり、墓まで案内されているので、親類には難しいと反対されましたがなんとかしたいと思います。まぁそうすると必然的に自分もその横に入る事になるのですけど正直自分が死んだら後のことなんか分からないですからどうでも良くて、今は母の意向に沿うようにしてやりたいと思います。
それが一日後なのか一年後になるのか分かりませんが、確実にその日は来るのですから。
会う人会う人介護の事、病院の事、墓の事などそれぞれの経験や立場からアドバイスをもらったこの4日間はこれまでの人生の中でも最も濃密な時間となりました。
親孝行、なんっとやらと言いますが、本当にそうですね。
