
過去や未来に行けないのは何故だろう。
そんな事を考えて時間を過ごす子供時代でした。
時間と言うのは川の流れのように過去から未来に流れ、そこに竿を刺したところに渦が巻くように事物が存在する、或いは上下左右に広がる格子状の目に見えないグリッドがこの世界を構築して、そこに時間要素を加えたのがこの世界であるというのが一般的な認識かと思います。
しかし、それでは時間が過去から未来に流れているように見える現象や、宇宙の始まりを説明する事はできないと思って来ました。
いろいろ考えてたどり着いたのは過去も未来もなく、ただ「現在」のみがあるのではないか、という視点です。
これなら過去に影響を与えられなかったり、また現代に未来人が来訪する事が無い事も説明が付き、子供心にも得心したものです。
まぁ考えた所で結論が出る問題でもないので、人生の中での優先度と言うのは次々に起こる現実問題の下位に埋もれていきました。
最近、ネット通販で買い物をするとアルゴリズムが関連しそうないかにも興味を持ちそうなものをオススメして来ることがあって、大抵はスルーするのですが、今回手にしたこの本はまさに子供の頃から思ってきたテーマについて書かれていそうでタイトルのみで衝動買いしたものです。
「時間は存在しない」とはどういう事なのか。やはり時間の流れと言うのは存在しないという研究があるのだろうか、興味津々紐解く事にしました。
まず我々が知覚しイメージする「時間」というのは、古来から哲学者や科学者が考えて来た永遠のテーマでもありますが、体系づけたニュートンの世界観に基づいたものです。
つまりこの世界は均一な空間が広がり、そこに一定の時間が流れているという世界観。
しかしこれを打ち破ったのがアインシュタインでした。
アインシュタインは電磁気力を解き明かす中で時間の流れは一定ではなく重力の影響を受けてその速度が変化するとしました。
これが相対性理論です。
つまり重力が大きくなるほど時間の流れは遅くなる、というものでエベレストの山頂での時間は地上の時間よりも僅かに速く流れます。
これは1960年頃、精密な実験装置により観測値でも正しいらしい事が確認されましたが、たとえば地球を周回するGPS衛星で測位する場合、この時間の誤差を考慮に入れているというのは有名な話です。
手近な所では東京スカイツリーの展望台に設置された時計でも観察できています。
これは時間と言うのは均質ではないという点で概念上、様々な問題を引き起こしますが、そもそもなぜ均質ではないのか、時間とは、重力とは何かという根源的な問いに到達します。
宇宙はビッグバンで始まり、そこから時間と空間が広がって現在に至るというのが通説になっています。
これは天体観測によると宇宙は膨張しているらしいく、その膨張を逆再生すると宇宙の一点に集約していくであろう事や宇宙全体で観測される宇宙マイクロ波背景放射がビッグバンの残響であろう事、そして物資を構成する素粒子の成り立ちや素粒子間に働くとされる四つの力(強い力、弱い力、電磁気力、重力)を説明するのに都合が良く、恐らく事実だろうという仮定で成り立っています。
しかしアインシュタイン世界観をもってしても、時間そのものを説明する事は出来ませんでした。
アインシュタインは、晩年この世界の物理現象を全て説明できる「
宇宙統一場理論」の構築を目指していましたが叶いませんでした。
それはアインシュタインの知能が足りなかったというよりは、過去の自らの理論に囚われ量子力学を否定し続けた限界と言えるものでした。
最新の量子力学では宇宙は最低でも11次元あるとされています。
縦横奥行きの三次元構造に時間を加えたこの世界が4次元とすると、とても想像の付かない高次元です。
平面で構成される二次元世界があったとしてそこに住む二次元人がどもう「高さ」があるらしいという概念は思いついても、それを体感できないように我々がこの高次元を予測できても観測する事は出来ないでしょう。
話を本書に戻すと、アインシュタインは時空は一定ではないとした所は最大の功績ですが、その時空の成り立ちを説明できなかったのは「視点が大きすぎた」つまり量子力学の視点に立ち入らなかったからだとしています。
我々が体感できる物理現象は微細に見てもかなり大きな構造といえます。
原子そのものを構成する素粒子世界は我々の知覚できる物理現象とは違う法則で成り立っています。
「宇宙統一場理論」にはマクロの視点とミクロの視点を紡ぎ合わせる必要がありそうだというのが最新の研究です。
極々ミクロの世界では時間と言うのはどうなっているのか。
我々が上流から下流への流れを意識するような「時の流れ」というのは存在せず、「状態」があるだけだと筆者は言います。
空間の一点(
超弦理論では「点」ではなく「紐状」)はこの「状態」の変化する、しない、によって動いていてそれがあまねく全宇宙に広がり構成している。
つまりある一点をもっての「現在」というのは全宇宙には通用しないという事です。
分かりやすく言うと地球から4光年離れたプロキシマケンタウリに知り合いがいるとして「今、この瞬間、向こうで何をやっているんだろう」というのはそれぞれが別々の時間軸に居るので意味をなさない問だということです。
それは宇宙空間に二つの小石を持って行き「どちらが高い位置にあるか」を問うようなもので、その視点によって変化する質問自体が適切ではない、というのです。
つまり「現在しか存在しないのでは?」という子供の頃の自分の問いは半分は正しく、半分は間違っていたという事になります。
現在しか存在しないというのは古代から信じられた「
現在主義」と言いますが、これは人間の知覚する範囲、可視光線域や、見渡せる範囲から来る錯覚であり、たとえば生涯地上を離れない人にとっては天球の方が自分の周りを回る「天動説」こそが世界の真理ですが、彼を宇宙船に乗せて打ち上げれば地球が丸く、地球の方が太陽の周りを回っている「地動説」も受け入れられるだろうという事です。
では時間の成分とは何か。
筆者は、これをエントロピーであるとしています。
エントロピーというのは簡単に言うと「乱雑さ」であり、物理学的な意味では熱力学に関係します。
特に「熱力学第二法則」において熱は高い方から低い方に一方的にしか移動しない不可逆現象とされています。
お湯は放っておくと冷めて常温になりますが逆に勝手に沸騰する事はあり得ません。
水を沸騰させるためには外部からなんらかのエネルギーを与える必要がありますが、この行為も「低エントロピーからの解放」と言える働きです。
つまり低エントロピーで安定した状態に「燃焼」などのなんらかのきっかけを与えるとエネルギーを開放して発散、高エントロピーの状態になります。
これはお湯であっても薪であっても原子炉であっても太陽であっても同じで、かならず低エントロピーから高エントロピーにしか状態移行しません。
状態移行と不可逆性。
著者が注目したこの二点こそが時間の正体=エントロピーという訳です。
本書では素粒子や調弦理論などには踏み込んでいませんが、興味があってネットで調べた事がある程度の認識力があれば難なく読み進める事が出来ます。
では我々が知覚する「時間の流れ」とは何か。
これはもう哲学の領域になりそうです。
ざっくり言ってしまうと我々の体感できる粒度ではそのように「錯覚」している、という事です。
そう言われてしまうと「現在しかない」というのも「現在なんか無い」というのもどちらも「天動説」と「地動説」は見方が違うだけでどちらも正しいように、どちらも成立してしまうでしょう。
もし筆者が言うように無数の極微細な要素が時空を織り成しているとするのならば、宇宙の成り立ちや宇宙誕生以前はどうなっていたのかを説明できる日が来るのかもしれません。