
今日は建国記念の日という事で太平洋戦争について振り返っておきたいと思います。
太平洋戦争という呼称は戦後のアメリカの押しつけだから日本人なら大東亜戦争と言え、という方もいらっしゃるかもしれませんが、取り上げる書籍が扱う範囲が太平洋戦域が主体でありタイトルに倣って太平洋戦争で統一したいと思います。
これまで個々の戦闘史などの研究はしてきましたが、太平洋戦争全体を俯瞰した事は結果が分かっているだけになかったのですが、一度開戦から終戦までのいきさつを見ておこうという事で上巻を手に取ったのが年末でした。
その後、読みたい本が何冊かあったので下巻を読み始めたのは1月後半から。
上巻は、日本が米英などと開戦して日本軍が真珠湾攻撃やマレー半島攻略など破竹の勢いで侵攻したものの、その後を暗示するようなミッドウェー海戦、ガダルカナル島での大敗までが当時の日米の文書記録などを中心に語られています。
下巻は見るも涙の日本軍の敗退の連続で終戦まで行きつきます。
本書が著されたのは東京オリンピックも終わり、戦後四半世紀が経過して多少は冷静に振り返る事が出来たであろう昭和40年。
今では更に新資料なども発掘されていますが、執筆された当時としては防衛研究図書館が保管していた「機密戦争日誌」を当たるなど画期的であったようです。
この「機密戦争日誌」は旧陸軍参謀本部の戦争指導班(第20班)が当時の参謀らの業務を記録したものですが、数名の小世帯であり執筆した参謀らの感情が吐露されていたりします。
今となってはそれらも当時の情勢をうかがい知ることができる貴重な資料ではありますが、陸軍方の立場で常に対立していた海軍に対して懐疑的、批判的であった事も、日本が敗戦に一直線に向かっていった要因の一つとなっています。
上巻においては、日本が開戦を決意するに至る連絡会議を経て御前会議で決定されたプロセスが目を引きます。
陸軍と海軍の主導権争いは既にこの段階から激化しており、開戦の意志を固めてアメリカなどと交渉すべしという陸軍と、開戦の準備はするが直前まで交渉を続けるべきという海軍が対立。
「機密戦争日誌」でもこの経緯を「戦機は後から来ぬ」と煮え切らない海軍の態度に業を煮やした様子が伺えます。
結局は陸軍の主張の多くが取り入れられ対米英開戦の準備が進められました。
「陸軍悪玉論」と言われる要因でもありますが、筆者は大所帯を事前に配備するためには準備が必要な陸軍と、その時に艦隊を機動的に派遣するという海軍の性質の違いと解釈しています。
しかし戦後の当事者らの反省会での証言によれば陸軍と海軍の予算獲得のため対米強硬論が蔓延り、皇族を巻き込んでの責任問題でもあったようです。
海軍の補給担当者は計画上の戦力と実情が大きくかけ離れていたと証言しています。
陸軍の兵站担当からも海軍の輸送能力に疑問が呈されましたが、「海軍が万全を期す」との返答に開戦の意向が決定されていきます。
しかし軍上層部の皇族や天皇に迷惑が及んではいけないと言う配慮から不都合な問題は上程されなかったようです。
開戦。
米英の虚をつく形で緒戦は連戦連勝。
何年も続いていた日中戦争で疲弊していた日本国内は沸き立ちますが、当初、日本側が大打撃を与えたアメリカが反撃に転じるのは昭和18年頃であろうと見積もっていたものが開戦から半年もたたない昭和17年4月には東京が初空襲を受けます。
当初日本は皇居のある東京への空襲を最も警戒して防衛戦を張っていましたが、アメリカは真珠湾で難を逃れた空母から陸上爆撃機を発艦させるという奇策でこれを実現。戦果としては被害は少なく、爆撃に志願したパイロットも日本軍支配地域に脱出した者は捕らえられた数名は処刑されています。
当初の計画を果たした日本は資源を求めて南方に進出し領土を拡大しますが、終結に対してこれといった展望は無く、ヨーロッパでドイツがイギリスを降伏させれば孤立したアメリカに厭戦気分が高まり、日本に有利な条件で講和を持ちかけられるという他力本願の計画だったようです。
しかし運に見放されたように裏目に出たミッドウェー海戦で海軍が主力空母を失ったかと思えば、ガダルカナル島でも守備隊と増援部隊が玉砕。
玉が砕けるという儚さと潔さが感じられますが、要は降伏するな、その場で全滅するまで戦えという命令であり、その後多くの戦場で追い詰められた日本軍がこれを繰り返す事になります。
特にガダルカナル島増援では海軍はアメリカ艦隊の気配があると陸軍の支援を中断してしまい、奪還に投入された陸軍の精鋭部隊が全滅していますが、島を放棄するまでそんな事が繰り返された結果、日本は兵員だけでなく武器や食糧などの補充ができず、最後は夜中に潜水艦や高速の駆逐艦から物資を入れたドラム缶に紐をつけ、それを浜辺から引き上げると言う事まで強いられています。
この為、ガダルカナル島は略してガ島でしたが「餓島」とまで言われていました。
この頃、アメリカはイギリスの要請でヨーロッパ戦線のドイツを主敵として太平洋戦域は後回しとされていましたが、フィリピンを追われた陸軍のマッカーサー中将と海軍のニミッツ大将との間で日本への反撃方針で対立し主導権争いが起きていました。
しかし、日本の海軍が艦隊決戦思想に取りつかれ拠点に対する意識が希薄だったのとは対照的に限られた兵力で互いに支援しながら拠点を一つ一つ奪還していきました。
そして開戦前から進んでいた日本軍の暗号解読は日本軍から奪った暗号表などを元にかなり解読が進められていきました。
南方戦線の戦況を憂いだ海軍の山本五十六大将が戦地を訪問すると言う情報も暗号解読によってアメリカ軍の知るところとなり、予想進路に戦闘機を向かわせ討ち取っています。
この時、アメリカは日本の軍人を研究して、もし山本五十六を排除した場合、どんな人材が出て来るのかを検討し、山本より優れた司令官は出て来ないだろうと判断して計画を実行したともいわれています。
山本五十六長官を失った日本はショックを受け、もしや暗号が解読されているのではないかという意見が出始めましたが、簡単な調査でその可能性は低いとしてなんらの対策は取られませんでした。
この為、フィリピンに上陸したアメリカ軍を迎え撃つために出撃した日本海軍の動きも捕捉され、多くの戦艦や空母を失った海軍の中に残存艦艇での戦争継続は困難という意識が生まれたものの、それがより強固な「艦隊決戦」思想に繋がり、ここぞという時のために戦力を出し惜しみするようになっていきます。
このため、増援を送れない南太平洋の島々の約30万人の日本軍人軍属は孤立、脱出の見込み無しという事で取り残されて玉砕していきます。
海軍をアテに出来ない陸軍はイギリス、アメリカによる中華民国軍支援の援蒋ルートを遮断する必要からインド独立を掲げるチャンドラ・ボースの要請に応じてインド北部のインパール攻略に乗り出しますが、補給を軽視した作戦は「ジンギスカン作戦」と揶揄されたように、航空支援が受けられない日本軍はやがて困窮し米英軍が空から投下した支援物資を奪うなど文字通り凄惨を極めました。
作戦が開始されたのが準備の遅れで見積もりより遅く現地での雨期になり、ジャングルや高山を縫う進撃では多くの物資が途中で失われ、元々食料にするためのロバも多くが早々に失われ見積りが瓦解します。
しかもこれまでなら真っ先に逃げ出すと思われたイギリス混成部隊は、しかし無線傍受や現地民の協力で日本軍の困窮を掴んでいた事から粘り強く留まり、最強と謳われる戦闘民族のグルカ兵や英インド人部隊の善戦、遅れて来たアメリカ軍装備の中国国民党軍に敗退するのみならず、ここでも飢餓と風土病に壊滅し10万人以上の戦病者の屍を残して敗退します。
事ここに至りドイツも大負けして連合国軍に圧倒されていると知ると、さすがに勝目は無いという認識になった日本の戦争指導部でしたが、しかしやはり現実を直視することは出来なかったようです。
「絶対国防圏」を設定しますが、優勢なアメリカ軍に押されて次々拠点を失いいよいよ最新鋭爆撃機B-29による本土空襲が始まります。
東条英機内閣が倒れると小磯内閣は「戦争完遂」を主張し、一方で蒋介石やソビエト、スイス、バチカンなどを通じての交渉を模索しますが、ことごとく失敗。
この時、日本の中国大陸に展開する関東軍が他の戦地に移動して手薄になりつつあるのを察していたソビエトのスターリンはヤルタ会談で対日参戦に合意しており参戦する機を伺っていましたが、日本政府内部はソビエトに侵攻される直前までソビエトを通じての和平の道を模索していました。
アメリカ空軍の太平洋方面の司令官が代わるとそれまでの戦果が上がらなかった高高度からの軍事目標への爆撃を止め、中低高度からの市街地を含めた絨毯爆撃に切り替えると日本の大都市が次々焼失。
硫黄島、沖縄という「絶対国防圏」も激戦の末に陥落し主だった海峡もアメリカ軍の敷設した機雷によって封鎖。
ここに来てアメリカ軍はこのまま日本を封鎖して降伏を待つか、本土に上陸する決戦を仕掛けるかで意見が紛糾します。
特に直近の沖縄戦や硫黄島では日本軍がそれまでのバンザイ突撃で玉砕するのではなく、幾重にも防御を重ねて攻略に大きな犠牲が出るようになっていた事から本土上陸には慎重論も出ていました。
その頃、日本も「本土決戦」に向けて国民義勇隊に支給する武器が首相官邸で展示されましたが鉄片を飛ばす短銃や竹槍、江戸時代から収蔵されていた弓矢やさす又などを見た首相が「これはひどいなあ」と漏らすなど、いよいよ万策尽きた感がありました。
機密戦争日誌も「”孝子烈婦の表彰の件”内閣閣議決定。近頃やることなきものの如し」と綴っています。
既に戦争終結についてポツダム会談で日本の無条件降伏という米英ソの合意が形成されていましたが、原爆完成の報告を受けたトルーマンはそれを日本に使う事でソビエトが参戦する前に戦争の早期終結を目論み使用を許可します。
人類史上初の原爆攻撃を受けた日本はしかし「一億玉砕」を強硬に唱える勢力が徹底抗戦を主張。
ソビエトの突然の侵攻を受け、ついに昭和天皇のご聖断によりポツダム宣言を受託する旨が決まり、三年八ケ月の太平洋戦争は終結することになりました。
振り返って見て改めて思うのは、戦争を始めた時点で、何の落としどころも見据えず予算獲得や権益の為に戦争する事が目的化していたという短慮の恐ろしさでしょうか。
もちろん日本に石油を禁輸して三流国に転落するか餓死するかを迫った欧米も見誤ったといえばそうかもしれません。
戦争中に何度も方向転換する機会があったように思いますが、それは結果を知っている立場からの一方的な物言いかもしれませんが、それだけに情報を集め、正しく評価する能力の重要性というのは現代においても変わりないどころか、さらに重要性を増しているように思います。
そして大した不便も無く安穏と暮らせることに感謝の念を新たにするのでした。