
「環境問題」
この誰もが関係していながらも常に違和感が拭えない背景を日本の環境条約交渉に交渉官として携わった筆者の目から見た問題点を指摘する一冊です。
CO2排出権利権ばかりに注目すると途端に陰謀論チックになり興味を失うのですが、条約締結の背景、環境保護活動の向こう側といった「違和感」の正体を描き出しています。
日本は京都議定書、パリ協定などを経て2030年までに2013年度比で-46%の数値目標、2050年までに温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする(カーボンニュートラル)2050ネットゼロを表明しています。
昨今の新築住宅太陽光パネル設置義務化もこの流れに沿ったものと言えます。
しかしこれは「共通だが差異のある問題」として各国間で目標が異なっています。
これはCO2排出の恩恵が大きい先進国のみが罰則を負っていた京都議定書の不平等さを反省し新興国や途上国も取り組むための措置となっています。
インドは「先進国は火力発電を他の発電に切り替える事だが、世界には薪から電力に切り替える必要がある地域がある」として2070年を目標に、中国も同様に2060に先送りする形になっています。
「環境問題先進国」のEUやその支援を受ける環境保護活動NGOらはこれら新興国が目標を掲げた事を歓迎していますが、この微妙な時間差に問題が生じると筆者は述べています。
CO2排出は人間の経済活動に伴い増加するものであり、これを抑制する事は直接的に経済活動を抑制する事になります。
先進国が経済活動を抑制している間、新興国は産業を伸ばし国力を付けていきます。
それも人権抑圧と石炭火力発電の電力によって造られた安価な中国製太陽光パネルに大金を投じていくことになります。
環境保護活動とは先進国の国富を新興国に移転するという事なのかもしれません。
そしてこれらの先進国を厳しく糾弾する活動は、必ずと言っていいほど「白か黒か」を迫ります。
日本が二度のオイルショックから世界最高効率を達成した火力発電所もダメ、日本が得意とするHVもダメ。再生可能エネルギー以外は認めない、という訳です。
しかし、2050ネットゼロの理念にもあるように、各国はそれぞれの国情があります。
乾いたぞうきんからようやく絞り出すような日本の一滴とまだバケツの中でじゃぶじゃぶしている絞り放題の中国を同列に論じる事には違和感しかありません。
これは京都議定書制定の時から始まっていました。
1990年比という東西ドイツ統合や中欧諸国のEU入りで労せずとも達成が可能な状況だったヨーロッパ、また議会で新興国や途上国が加盟しない不公平条約には加盟しないと上院で可決されていながら批准し、後に脱退するアメリカに焚き付けられて日本はバカ正直に目標を掲げてしまいました。
それも「EUは15%という高い目標を掲げたのに日本とアメリカが反対するせいで半減した」という格好です。
またそれまでの目論見では原発比率を70%にまで高めるとされた日本の原子力発電も東日本大震災による福島第一原子力発電所の原子力災害で全て稼働を停止し、自公政権になった現在でも「原子力まかりならん」という世論を背景に安全基準を満たした原発の再稼働は10カ所をみるのみであり、昨今の度重なる「電力不足」や電力価格の高騰の要因となっています。
本来であれば脱炭素を目指すにしても現状の持てる手段をすべて投入して、ベストミックスの内に新しい技術開発や移行促進策を打ち行政が民需を喚起するのが定石なのですが、ことこの「環境問題」となると途端に「白か黒か」という論調になってしまいます。
これは、かつての左翼活動が過激化すると国民から見放され、ソ連邦崩壊などの現実から「世界同時革命」は到底無理であるという認識が共有されると環境問題という誰もが反対できない「錦の御旗」を人権問題と二枚看板で掲げ、「市民活動」として浸透してきた結果でしょう。
「環境問題はスイカである。外はグリーンでも中身は真っ赤」
と揶揄される由縁と言えます。
喫緊の命や人権に関わる問題を差し置いて、環境活動家が先進国の首脳らをまるでヒトラーかなにかのように、時に激高して糾弾する姿はかつての社会主義国で盛んに行われた「人民裁判」を彷彿とさせます。
常に野党などの掲げる環境政策は「再生可能エネルギー100%」「火力発電即時停止」「原発全基廃止」など一見して実現性が無い理念だけに思えるのは左翼活動の一端であるからなのでしょう。
或いは「アーリア人」の優越を説いたナチズムが優生学を背景に環境保護活動に熱心だったと言う事に反発の裏返しのシンパシーを感じているのかもしれません。
そういった野党もさることながら、これらと論調を一にする与党政治家の存在が大きな問題として日本に立ちはだかっています。
彼らは野党と違い政策決定権や条約交渉権を持っているのですから野党よりも責任が大きい訳で、そこで実現性を無視して理念だけが先行するのはいかに危ういかというのは先の大戦において度重なるシミュレートの結果、どうしても日本敗戦の結論しか出ず、苦慮して「南方の資源を確保できれば戦争継続は可能」という上申をする他なく、その全く持って根拠のない「戦略」を実行した結果、日米艦隊決戦に憑りつかれた海軍は輸送船団の護衛を放棄、丸裸で南洋を目指した日本の輸送船の多くは二度と日本に戻る事は無かった失敗から何も学んでいないのではないかと筆者ははエピローグで結んでいますが全くその通りだと思います。
「ぼんやりと46というシルエットが浮かんで来たんです」と言って2030年46%削減と言う数値目標を公言した小泉進次郎議員が会長代理を務める自民党「再エネ議連」連の事務局長に業者から多額献金を受け風力発電の入札制度に介入したのではないかと言われており「理念先走り」だけでなく「利権」が国民生活を「エネルギー貧困」(生活費のうち光熱費が10%以上となる状態。日本では約130万世帯の2.6%)が進むと危惧されています。
菅前政権の「グリーン成長」(再エネ社会に移行すれば経済成長する)も技術、経済的な根拠があっての話と言うよりは政府の願望レベルの話でしかありません。
利権目的か欧米カブれのいい恰好しいのバカでないのなら、「民間が勝手に頑張ればいいんじゃないでしょうか」ではなく少なくとも政府が「成長戦略」と銘打って明確な青写真を提示しなければ民間企業もそこにおいそれとは投資は出来ないでしょう。
これまで戦後日本が発展してきたのは他国に比べ電力が安定的に供給されて来たからですが、野党から円安は国内産業回帰の好機だが電力の安価安定供給の具体策はあるのかと問われた岸田首相は「電力の需給の問題は今後しっかり考えていかなければなりません」と答えているようでは益々円安が進み、燃料調達費が負担になる未来しか見えません。
そもそも日本は先進国でも電気料金が高い事で知られています。
直近でもエネルギー価格高騰のドイツに対して2倍程度と言えますが、これらの国は産業分野の電気料金を減免して家計部門に負担させており企業の国際競争力に貢献しています。
その「ドイツを見習え」のドイツもエネルギー政策に関しては相当のクセモノで、原発比率か高いフランスから電力供給を受けている事は一般に知られていますが、北海の風力発電も欧州グリッドに流し込んでいます。
これは需要に応じて発電が出来ない「再エネ」の弱点である安定供給のバッファの役割を果たしているようです。
日本でも「ドイツを見習い」洋上風力発電の試験が行われてきましたが、この発電量の不安定さをドイツのように他国をバッファとして利用し、足りない分は融通してもらう事で安定させているというのは近隣を反日国家に囲まれた日本で行うのは安全保障上極めて問題であると言え、再生可能エネルギー100%を目指すよりも、他国より高効率を達成している各種発電のベストミックスを目指すべきとしています。
その中でもベースロード電源として原子力発電は有望ですが、全国の原発は停止したままであり、仮に停止していても運転していても原発のリスクは大きくは変わらないしむしろ運転中は常に管理されてる事で停止よりも安全性が高いと言われています。
この原発は、しかし40年と言う運転期間が設けられており、最大で20年まで延長が認められるとは言え東日本大震災以降停止している原発もこの停止期間の10年も稼働年数にカウントされ続けており、仮に再稼働させたとしても2050年までには順次停止していくため、より安全性が高い小型モジュール原子炉SMRの新設などの代替策が必要という報告が国際エネルギー機関IEAの日本のエネルギー政策を総合的に評価する国別詳細審査から為されています。
Japan IDR 2021 エグゼクティブサマリー(仮訳)(PDF形式:472KB)PDFファイル
https://www.meti.go.jp/press/2020/03/20210304008/20210304008-1.pdf
そもそも論ですが、高効率で省エネ社会を実現して来た日本は、国土に設置面積の確保が困難な太陽光発電や、風況にムラがあり他国より条件が悪い風力発電、水質により沈殿物の為に毎年メンテナンス費用が掛かる地熱発電など、およそ「再生可能エネルギー」には向かない国で他国に率先して脱炭素社会を目指すべきなのかという疑問があります。
現に日本の高効率火力発電技術で新興国や発展途上国の発電所を更新、または新設してやるだけでCO2排出削減に大き化効果が期待できるにも関わらず「火力発電は認めない」というスタンスによってこれらへの新規融資は封じられており、しかしこれを中国のたいして効率が良くない火力発電所が取って代わっていると言う「不都合な現実」が顧みられることは、特に環境問題に取り組む方面からは聞こえてきません。
繰り返しになりますが脱炭素は蓄電や送電の革新的な技術開発が無ければ膨大なコストを投じながらも産業活動を抑制する事を意味し、また中国の産業を一方的に利する方策であると言えます。
2050年や2030年なんてまだ当分先の事でしょ、それまでに誰かがなんとかするでしょとぼんやりイメージしている人が大多数ではないかと思いますが、「原子力も火力も禁止します。明日からは夜間は太陽も風も無いので停電します」となったら「おいふざけんな電気寄越せ」と大騒ぎになるでしょう。
人々が月幾らまでなら再エネのために負担できるかというアンケートでは「数百円程度」という回答が最多だった事がこの問題の本質をとらえていると思います。