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ピズモのブログ一覧

2017年03月11日 イイね!

仙洞御所・京都霊山護国神社

仙洞御所とは,皇位を退かれた天皇(上皇,院などといわれる)の御所です。後水尾上皇の御所として江戸時代初期の寛永7(1630)年に完成しました。それと同時にその北に接して東福門院(後水尾上皇の皇后,将軍徳川秀忠の娘和子)の女院御所も建てられました。
古くは内裏のように一定の場所にあったわけでもなく,また必ず置かれたわけでもありませんが,後水尾上皇以来現在の地すなわち京都御所の東南に定まりました。後水尾上皇が御存命の間に三度焼失し,その都度再建されてきましたが,以後,霊元,中御門,桜町,後桜町,光格の五代の上皇の仙洞御所として使用されました。
嘉永7(1854)年の大火で京都御所とともに焼失したのを最後に,ちょうどその時上皇も女院もおられなかったこともあり造営されないままとなりました。そのため,現在の仙洞御所には,醒花亭,又新亭の二つの茶室以外に御殿等の建物は全くなく,東側いっぱいに南北に展開する雄大な庭園が往時の面影を残しているだけです。
築地塀は安政2(1855)年、京都御所と共に建造されたものです。
大宮御所とは,皇太后の御所をいいます。現在,築地塀内北西隅にある大宮御所は,慶応3(1867)年に英照皇太后(孝明天皇の女御)のために女院御所の跡に造営されたものです。英照皇太后が東京に移られた後は,御常御殿のみを残して整理され,現在に伝えられています。
庭園は,仙洞御所の作事奉行であった小堀遠州が寛永7(1630)年の御所の完成に引き続いて作庭したもので,古図によれば仙洞・女院御所とも石積みの直線的な岸辺を有する斬新な感覚の広大な池をもっていたようです。
しかし,改修拡張等により遠州当時の遺構は南池東岸の一部にわずかに認められるにすぎません。延享3~4年(1746~1747年)にかけて女院御所の庭園(北池)と仙洞御所の庭園(南池)が掘割でつながれました。
北西の一隅にある大宮御所は、明治5(1872)年まで英照皇太后のお住まいでありましたが、現在は、天皇皇后両陛下や皇太子同妃両殿下が入洛された際の御宿舎として用いられております。その南は仙洞御所の殿舎が建ち並んでいた跡でありますが、現在は松林となっており、大正、昭和の即位の御大典にあたって大嘗宮がここに造営されました。
東側一帯は女院御所と仙洞御所の庭園が掘割によって結ばれて一体となって発展した回遊式大庭園です。
総面積9万1千㎡余りで、そのうち大宮御所の面積は約1万6千㎡、仙洞御所の面積は約7万5千㎡におよびます。
参観するための出入門は、大宮御所の正門が使用されております。
a href="http://photozou.jp/photo/show/219075/246770348">仙洞御所 (2)
仙洞御所 (2) posted by (C)pismo

仙洞御所 (3)
仙洞御所 (3) posted by (C)pismo

仙洞御所 (4)
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仙洞御所 (5)
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仙洞御所 (6)
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仙洞御所 (7)
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仙洞御所 (8)
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仙洞御所 (9)
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仙洞御所 (10)
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仙洞御所 (11)
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仙洞御所 (12)
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仙洞御所 (13)
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仙洞御所 (14)
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仙洞御所 (15)
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仙洞御所 (16)
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仙洞御所 (17)
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仙洞御所 (18)
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仙洞御所 (19)
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仙洞御所 (20)
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京都霊山護国神社は、幕末、維新に殉じた志士と第二次世界大戦にいたる京都府出身の英霊7万3千3柱を奉祀する神社です。
幕末、各藩が東山三十六峰の中心であるここ霊山にそれぞれ殉難者を祀ったのが当神社の起源で、明治元(1868)年5月、太政官布告をもって我国初の官祭招魂社とすべきことが決められました。
この布告により各藩は社殿を建設し、同年7月には盛大な祭典が挙行されました。ついで明治10(1877)年には皇室より巨費が下賜せられて神域が整備され、全国招魂社のうち最も崇敬を集めました。
さらに昭和4(1929)年6月には、今上陛下御即位大礼の建物を下賜せられ、現社殿を整備し、昭和14(1939)年に護国神社と改称して現在に及んでいます。
霊山神域内には、坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允・平野国臣・宮部鼎蔵をはじめ蛤御門の変・天誅組の義挙等に加わった志士の墓300余基があり、1356柱が合祀されてあり、この地は明治維新をしのぶ大霊域・史跡です。(現地説明板などより)

霊山護国神社
霊山護国神社 posted by (C)pismo

霊山護国神社 (1)
霊山護国神社 (1) posted by (C)pismo

霊山護国神社 (2)
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霊山護国神社 (3)
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霊山護国神社 (4)
霊山護国神社 (4) posted by (C)pismo
Posted at 2017/04/08 18:48:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年03月11日 イイね!

桂離宮・中村軒

桂離宮は、後陽成天皇の弟・八条宮初代智仁親王により、宮家の別荘として創建されました。
幼少の頃より文武百般に秀でておられた親王は、17世紀初頭にこの地を得られて後、
元和元(1615)年頃に山荘の造営を起こされ、数年ほどの間に簡素のなかにも格調を保った桂山荘を完成されております。親王の40歳台前半の時期にあたり、古書院が建てられたものとみられます。
親王が没せられて後10年余の間は山荘も荒廃期でしたが、二代智忠親王は加賀藩主前田利常の息女富姫と結婚されて財政的な裏付けもでき、山荘の復興、増築などに意欲的に取り組まれました。
二代智忠親王は父君智仁親工譲りの研ぎすまされた美的感覚をもって、寛文2(1662)年頃までに在来の建物や庭園に巧みに調和させた中書院、さらに新御殿、月波楼、松琴亭、松花亭、笑意軒等を新増築されました。
池や庭園にも手を加えほぼ今日にみるような山荘の姿に整えられました。
特に桂棚および付け書院で知られる新御殿や御幸道などは、後水尾上皇を桂山荘にお迎えするにあ
たって、新増築されたものと伝えられています。八条宮家はその後、常盤井宮、京極宮、桂宮と改称され明治に至り、明治14(1881)年十二代淑子内親王が亡くなられるとともに絶えました。
宮家の別荘として維持されてきた桂山荘は、明治16(1883)年、宮内省所管となり、桂離宮と称されることとなりますが、創建以来永きにわたり火災に遭うこともなく、ほとんど完全に創建当時の姿を今日に伝えております。
桂離宮の総面積は付属地も含め約6万9千㎡余りです。中央には複雑に入り組む汀線を持つ池があり、大小五つの中島に土橋、板橋、石橋を渡し、書院や茶室に寄せて船着きを構え、灯籠や手水鉢を要所に配した回遊式庭園と数寄屋風の純日本風建築物とで構成されています。
苑路を進むと池は全く姿を消したり、眼前に洋々と広がったり、知らぬ間に高みにあったり、水辺にあったりしてその変化に驚かされる。また、桂離宮には真、行、草の三つの飛び石があり、庭の敷石で長方形の切石と自然石とを組み合わせた延べ段や飛石の変化を楽しみつつ、入江や州浜、築山、山里等もあり、それぞれが洗練された美意識で貫かれ、晴雨にかかわらず四季折々に映し出される自然の美には感嘆つきることを知りません。
作庭にあたり小堀遠州は直接関与していないとする説が有力ですが、庭園、建築ともに遠州好みの技法が随所に認められることから、桂離宮は遠州の影響を受けた工匠、造園師等の技と智仁親王及び智忠親王の趣味趣向が高い次元で一致して結実した成果と思われます。
京都御所、京都大宮御所、仙洞御所、修学院離宮とともに皇室用財産(国有財産)として宮内庁が管理しています。
(パンフレットより)
ドイツの建築家で、ナチスの迫害を逃れて日本を訪れたブルーノ・タウトは、「泣きたくなるほど美しい」と大絶賛し、桂離宮の「発見者」ともいわれました。タウトはその他にも桂離宮のことを「理解を絶する美」「永遠なる美」などという言葉を残しました。
桂離宮
桂離宮 posted by (C)pismo

桂離宮 (1)
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桂離宮 (2)
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桂離宮 (3)
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桂離宮 (4)
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桂離宮 (5)
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桂離宮 (6)
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桂離宮 (7)
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桂離宮 (8)
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桂離宮 (9)
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桂離宮 (10)
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桂離宮 (11)
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桂離宮 (12)
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桂離宮 (13)
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桂離宮 (14)
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桂離宮 (15)
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桂離宮 (16)
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桂離宮 (17)
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桂離宮 (18)
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桂離宮 (19)
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桂離宮 (20)
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桂離宮 (21)
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桂離宮 (22)
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桂離宮 (23)
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桂離宮 (24)
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桂離宮 (25)
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桂離宮 (26)
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桂離宮 (27)
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桂離宮 (28)
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桂離宮 (29)
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桂離宮 (30)
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桂離宮 (31)
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桂離宮 (32)
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桂離宮 (33)
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桂離宮 (34)
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桂離宮 (35)
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桂離宮 (36)
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桂離宮 (37)
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桂離宮 (38)
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桂離宮 (39)
桂離宮 (39) posted by (C)pismo

中村軒は、桂離宮のすぐ近くにある創業明治16(1883)年の和菓子店です。
久邇宮家御用達「かつら饅頭」、代表銘菓「麦代餅(むぎてもち)」など素朴ですが、あっさりとして魅力的な和菓子を作っています。
「麦代餅」は、もとは麦刈りや田植えの際に、おやつとして好まれ、その代金をお金の代わりに麦で支払うこともあったため「麦代餅」という名前が付けられたそうです。
また、季節ごとに色々な和菓子を作っていて、茶店では春夏は冷やしぜんざい、かき氷、おそうめん等、秋冬はあべ川、おぜんざい、お雑煮等をいただくことができます。
中村軒
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中村軒 (1)
中村軒 (1) posted by (C)pismo

中村軒 (2)
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中村軒 (3)
中村軒 (3) posted by (C)pismo
Posted at 2017/04/05 23:17:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年03月04日 イイね!

堺散歩

与謝野晶子生家跡です。歌人・与謝野晶子は明治11(1878)年12月7日、当時の堺県甲斐町46番屋敷で菓子商駿河屋を営む鳳宗七の三女として生まれました。本名は志よう(しよう)といいます。幼い頃から源氏物語などの古典に親しみ、17歳頃から歌を詠み始め、明治34(1901)年与謝野鉄幹のもとへ上京するまで、青春時代を堺のまちで過ごしました。
石碑、説明看板の隣にある歌碑は、堺市内で最初の晶子の歌碑として、没後20年にあたる昭和36(1961)年に建立されました。
「海こひし潮の遠鳴りかぞへつゝ
  少女(おとめ)となりし 父母(ちちはは)の家」
晶子26歳、明治37(1904)年の雑誌「明星」に初出した歌で、巻物「春風抄」(堺市博物館所蔵)の中に記されている自筆を刻字しています。
中央にあるアマリリスと百合の花は晶子が好んだ花といわれ、碑全体の形は晶子の旧姓「鳳」より「鳳凰」が大きく羽を広げている姿を象徴してるそうです。
与謝野晶子生家跡 (1)
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与謝野晶子生家跡
与謝野晶子生家跡 posted by (C)pismo

龍興山南宗寺は弘治3(1557)年三好長慶が父三好元長の菩提を弔うために、普通国師(大林宗套)を招いて開山とした臨済宗大徳寺派の寺で、宿院の南方に寺地を構えていました。
南宗寺は慶長20(1615)年大坂夏の陣によって堺市街とともに全焼しましたが、当時の住職であった沢庵和尚によって元和3(1617)年に現在地に再建されました。
承応2(1653)年建立の仏殿、正保4(1647)年建立の山門(甘露門)、江戸時代初期建立の唐門は国・重要文化財に指定されています。仏殿の本尊は釈迦牟尼仏、左右に文殊・普賢両菩薩をまつっています。
また、境内には、茶道を大成し名人と呼ばれた武野紹鴎と千利休の供養塔、堺の豪商津田宗達・宗及父子の墓碑、堺伝授でよく知られている牡丹花肖柏の墓碑、さらに国の名勝である江戸時代の枯山水の庭園、第二次大戦で焼失したもものの昭和35(1960)年7月に再建された利休好みのニ畳台目の茶室「実相庵」、利休遺愛の向泉寺伝来袈裟形の手水鉢、紹鴎遺愛の六地蔵灯籠などがあります。
忘れてはいけないのが「徳川家康の墓」。南宗寺は元和9(1623)年に徳川秀忠、家光が参拝されたことや、境内に東照宮が祀られていることにより、家康が後藤又兵衛の槍に刺され、南宗寺開山堂下に埋葬されていたという伝説が残りました。境内の東照宮は戦災で焼失し、跡地に戦後「徳川家康の墓」が建てられました。
南宗寺 (1)
南宗寺 (1) posted by (C)pismo

南宗寺
南宗寺 posted by (C)pismo

南宗寺 (2)
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南宗寺 (3)
南宗寺 (3) posted by (C)pismo

南宗寺 (4)
南宗寺 (4) posted by (C)pismo

南宗寺 (5)
南宗寺 (5) posted by (C)pismo

徳泉庵
徳泉庵 posted by (C)pismo

海会寺は、臨済宗東福寺派の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。
元弘2(1332)年、乾峯士曇が開山で、当時は、開口神社の西門前にあり、300石の寺領、6ヶ寺の塔頭を有していました。現在も開口神社付近には、金龍水という井戸が残っています。
季弘大叔が文明16年(1484)~18年頃の日記『蔗軒日禄』を残しており、遣明貿易で栄えていた当時の堺の姿がわかる貴重な資料となっています。
慶長20(1615)年の大坂夏の陣で焼失した後、南宗寺の住職であった沢庵宗彭の助力により、現在の地に再興されました。
本堂・庫裏及び門廊は、江戸時代初期の建築で、重要文化財に指定されています。
牡丹花詩集(堺市指定有形文化財)は乾峯士曇をはじめ33人の禅僧が「牡丹」を題に作った漢詩を集めたものです。
大坂の陣のもとになった方広寺の鐘銘を書いた人として知られる文英清韓も当寺の住職で、墨蹟屏風も残っています。
(現地説明板などより)
南宗寺の境内にあります。
公開されていない寺院なので、外からの見学のみです。
海会寺 (1)
海会寺 (1) posted by (C)pismo

天慶院は、もと海眼庵と称し、臨済宗大徳寺派の寺院で、本尊は釈迦如来像です。
笑嶺宗訴が一僧尼より献上をうけ、開祖として住したのち、天正年間に弟子の仙獄和尚に附与したものです。
千利休との関係が深く、大坂夏の陣後、当庵も現在地に復興されましたが、元禄10(1697)年、大拙義戒が千家一門の供養塔を当庵内に再興しました。(昭和31(1956)年本坊内に移設)
また、江戸時代に記された「全堺詳志(高志芝巌著)」によれば、「利休、堺住居ノ時、此庵ノ檀家ナリ」と明記されています。
享保3(1718)年、高志芝巌が改築し、名を天慶院と改めました。
茶室「大黒庵」は、もと武野紹鴎が営んだものを基とし、圍式三畳台目で、四畳半のうち一畳分を仏間とし、前板を入れて仏壇を設け、円窓を切っています。
祖堂形式の先駆的な存在であり、にじり口ではなく貴人口を設けています。
平成14(2002)年、当時の古材を用いて解体復元されました。
平成19(2007)年、山上宗二供養塔(一会塚)が建てられました。
(現地説明板などより)
南宗寺の境内にあります。
公開されていない寺院なので、外からの見学のみです。
天慶院 (1)
天慶院 (1) posted by (C)pismo

本源院は、臨済宗大徳寺派大仙院末に属する禅寺で、本尊は釈迦牟尼仏です。
貞享4(1687)年、蜜玄宗要が薩摩藩主の祈願所として建立し、利徳庵を経て本源庵と称していました。享保3(1718)年、大拙義戒により、本源院に改称しました。
本堂は、切妻造りで門廊も備え、300年以上前の創建を示す鬼瓦が下り棟北に乗っています。境内には庫裏、表大門、聖天堂などがあります。
墓地には、織田信長・信忠両公の供養塔や堺奉行駒井相模守信義、「全堺詳志」を完成させた高志芝巌、書家趙陶斉息心居士、橋本桂園などの墓碑があります。
寺宝に、釈迦涅槃像一幅、釈迦八相図二幅、開祖蜜玄和尚頂相・同遺偈・同倫旨各一幅などがあります。
(現地説明板などより)
南宗寺の境内にあります。
公開されていない寺院なので、外からの見学のみです。
本源院 (1)
本源院 (1) posted by (C)pismo

宿院頓宮は、住吉大社御祭神の住吉大神・神功皇后と大鳥大社御祭神の日本武尊、大鳥連祖神を祀っています。
境内に、飯匙堀という堀があります。この堀は「潮千珠」を埋めたところで、どんなに雨が降っても水が溜まらないという伝説があります。
「堺鑑」に「此の地は住吉明神毎年6月晦日の御祓御旅所也」とあり、現在では7月31日に大鳥大社から、8月1日に住吉大社から、神輿を迎えて祭礼が行われます。住吉大社の神輿が渡る8月1日、飯匙堀では、摂津・河内・泉三国の大祭として知られた「荒和大祓神事」が執り行われます。
堺の夏の風物詩「大魚夜市」は7月31日に漁師達が神前に数々の鮮魚を献じて、その年の大漁や航海の安全等を祈願し、併せて魚を浜辺で販売したのが始まりとされています。
(現地説明板などより)
宿院頓宮 (1)
宿院頓宮 (1) posted by (C)pismo

さかい利晶の杜は、堺の偉大な先人、千利休と与謝野晶子の生涯や功績にふれながら、茶の湯体験ができたり、市内の観光情報を入手できたりと、いろいろな楽しみ方ができる施設です。千利休屋敷跡に面する東側にあり、千利休茶の湯館、与謝野晶子記念館、利休作で唯一現存する京都府大山崎町の妙喜庵みょうきあんの国宝「待庵」を、研究成果に基づき、職人たちが創建当初の姿で復元したさかい待庵、千家・裏千家・武者小路千家のお点前により、椅子席でお抹茶と堺の和菓子(生菓子)を味わえる立礼呈茶や茶室お点前体験などが行える茶の湯体験施設があります。
さかい利晶の杜 (2)
さかい利晶の杜 (2) posted by (C)pismo

さかい利晶の杜 (3)
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さかい利晶の杜 (4)
さかい利晶の杜 (4) posted by (C)pismo

さかい利晶の杜 (5)
さかい利晶の杜 (5) posted by (C)pismo

さかい利晶の杜 (6)
さかい利晶の杜 (6) posted by (C)pismo

さかい利晶の杜 (7)
さかい利晶の杜 (7) posted by (C)pismo

堺市役所21階展望ロビーは、地上80mの市役所最上階で、360度の展望が楽しめる回廊式ロビーです。仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)をはじめ歴史を秘めた堺のまちが眼下に広がり、遠くは六甲山、あべのハルカス、生駒・金剛山等が見渡せます。ゆっくりくつろげる喫茶コーナーもあります。
堺市役所21階展望ロビー (2)
堺市役所21階展望ロビー (2) posted by (C)pismo

堺市役所21階展望ロビー (3)
堺市役所21階展望ロビー (3) posted by (C)pismo

堺市役所21階展望ロビー (4)
堺市役所21階展望ロビー (4) posted by (C)pismo

堺市役所21階展望ロビー (5)
堺市役所21階展望ロビー (5) posted by (C)pismo

月蔵寺(がつぞうじ)は、山号は青陽山、日蓮宗の寺院です。
明応(1495)年に堺北之庄で開創され、天文12(1543)年には本山妙國寺開山の日珖上人の父で堺の豪商である油屋常言の寄進を受けて、この地に建立された日蓮宗寺院です。現在の本堂は正徳2(1712)年に建立されたもので、度重なる修復を経ています。
北辰妙見大菩薩をお祀りする妙見堂は、寛政5(1793)年に創建され、弘化3(1846)年に修理されたもので、妙見菩薩像が鎮座する厨子は上方歌舞伎役者の二代目中村富十郎が嘉永5(1852)年に奉納したものです。
元禄時代(1688〜1704)に、京都の熱心な法華信者であった谷口法春一族は大坂から江戸に至る各地の刑場に受刑者慰霊の題目碑を建て、また多くの日蓮宗寺院に御本尊や涅槃図を奉納しました。
境内にある題目碑は法春が並松の刑場に建てたものを、明治に移転したものです。月蔵寺の御本尊と寺宝の涅槃図〔元禄9(1696)年〕は法春の息子、法悦によって奉納されました。
早春の梅や椿に始まり、新緑の頃から初夏にかけては境内や客殿奥の仙栽で多くの花木が咲き誇り花の香りに包まれます。
ツワブキの花が終わる初冬には、本堂前のモミジが紅葉し、銀杏の葉と共に境内を彩ります。
境内や仙栽には四季折々の風情があります。
土塀は大坂夏の陣の後に兵火による焼け瓦を組み入れて築造されたと伝わる重厚な土塀、また、安永8(1779)年と嘉永3(1850)年にそれぞれ再建された妙見堂表門と山門は、柳寺町と呼ばれた往時の風情を今に伝えています。また、豊臣方の武将大野三兄弟の三男大野道犬斎治胤や堺奉行長谷川藤広の家臣風間六右衛門尉道喜の墓があります。大野道犬は、大坂夏の陣で豊臣秀頼の命を受けて堺に火を放ち、資料によれば2万の家屋と多くの寺社を焼失させました。後に京都で捕らえられ、堺で火刑に処されました。風間六右衛門は、町割奉行として大坂夏の陣の後、ほとんど壊滅状態になった堺の町を碁盤の目状に町割りして復興させました。(元和の町割り)町割りの際に、一部の寺社から非難されたことで幕府に召喚され、江戸に向かう途中、並松の刑場付近で自刃しました。かつては並松の刑場にありましたが、明治初頭に刑場が廃止された時に、共に月蔵寺に改装されました。
月蔵寺 (2)
月蔵寺 (2) posted by (C)pismo

月蔵寺 (3)
月蔵寺 (3) posted by (C)pismo

山口家住宅は、江戸時代初期に建築された町家で、国内でも数少ない江戸初期の町家のひとつであり、近世初期の町家を知る上で全国的にみても貴重な建物です。昭和41(1966)年、国の重要文化財に指定されました。
堺の町は元和元(1615)年大坂夏の陣で焼け野原になりましたが、山口家住宅の建造年代はその直後と考えられています。
江戸時代、近隣農村の庄屋を務め、奉行所と町方・村方をつなぐ役割を担っていました。
この場所は元禄2(1689)年の「堺大絵図」では、東の山口筋を表側として山口家の屋号である「越前屋」の名が記されています。
建築当初は、大きな土間と土間に面した部屋で構成され、東側の山口筋に面して門がありました。安永4(1775)年に主屋を改築し、南側に新しく玄関と座敷、西土蔵を建築しています。さらに江戸中期から後期には座敷を増築し、寛政12(1800)年には北土蔵を建築するなど現在の間取りが完成しました。
山口家住宅では、表から入って小さな土間からカマドをもつ大きな土間に続き、日常生活の場である板間、そしてもてなしにも使われる座敷、茶室と多様な空間への展開が見られます。
江戸時代の文献や昭和初期の山口家の暮らしぶりと社会背景を参考にしつつ、堺の町家暮らしの一端を見ることができます。
堺市立町家歴史館 山口家住宅 (2)
堺市立町家歴史館 山口家住宅 (2) posted by (C)pismo

堺市立町家歴史館 山口家住宅 (3)
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堺市立町家歴史館 山口家住宅 (4)
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堺市立町家歴史館 山口家住宅 (5)
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堺市立町家歴史館 山口家住宅 (6)
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堺市立町家歴史館 山口家住宅 (7)
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堺市立町家歴史館 山口家住宅 (8)
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堺市立町家歴史館 山口家住宅 (9)
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堺市立町家歴史館 山口家住宅 (10)
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堺市立町家歴史館 山口家住宅 (11)
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堺市立町家歴史館 山口家住宅 (12)
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堺市立町家歴史館 山口家住宅 (13)
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Posted at 2017/04/01 21:01:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2017年02月26日 イイね!

京の冬の旅(金戒光明寺・西翁院・聖護院)

黒谷の金戒光明寺は、山号は紫雲山で浄土宗の大本山です。
承安5(1175)年、法然上人が比叡山の黒谷を下り、草庵を結んだのがこの寺の始まりであるとされています。
以後、浄土教の念仏道場として栄え、後光(ごこう)厳(ごん)天皇より「金戒」の二字を賜り、金戒光明寺と呼ばれるに至りました。
また、正長元(1428)年、後小松天皇より、上人が浄土教の真実義を悟った由緒により「浄土真宗最初門」の勅願を賜りました。
御影堂脇壇には、京都七観音・洛陽三十三観音の一つ、吉田寺の旧本尊と伝えられる千手観音立像を安置しています。また、御廟には上人の分骨を納め、廟前には熊谷蓮生坊直實と平敦盛の供養塔二基が建てられています。
寺宝としては、山越(やまごえ)阿弥陀図・地獄極楽図等の屏風や法然上人直筆の一枚起請文など数多くの文化財を蔵し、墓地には、国学者山崎闇斎、茶人藤村庸軒、筝曲開祖八橋検校などの墓があります。
徳川家初代将軍家康は、二条城の外城として、徳川家の宗旨である浄土宗の黒谷金戒光明寺と知恩院を城のように造らせました。
幕末の京都守護職を務めた会津藩主・松平容保が本陣を構え、新選組誕生の地でもあります。
特別拝観中に大方丈では「謁見の間」「虎の間」「松の間」の拝観と回廊式庭園「紫雲の庭」、平成24(2012)年に作られた庭「ご縁の道」が散策できます。
境内には幕末不幸にも命を落とした会津藩士の墓もあります。
金戒光明寺 (1)
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金戒光明寺
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金戒光明寺 (2)
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金戒光明寺 (3)
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金戒光明寺 (4)
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金戒光明寺 (5)
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金戒光明寺 (6)
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金戒光明寺 (7)
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金戒光明寺 (8)
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金戒光明寺 (9)
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金戒光明寺 (10)
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西翁院は大本山金戒光明寺の塔頭寺院です。
天正12(1584)年、藤村源兵衛西翁院宗徳居士によって、明蓮社光誉清玄上人を開祖として創立されたもので、本尊に春日作の阿弥陀如来をまつります。
有名な茶室「紫雲庵〔反古(ほろぐ)庵〕」は、宗徳居士の後嗣宗佐の養子となった久田氏出自の藤村庸軒によって貞享2(1665)〜貞享3(1666)年の頃に建てられたもので、遠望できる景勝の地にあり、はるか淀、山崎方面を臨みうるところから、「淀看席(澱看席)」とも云われます。
庸軒は諱を当直、字を微翁、庸軒または反古庵と号しました。薮内家に学び、古田織部の流れをくみ、小堀遠州や千家中興の元伯宗旦に従ってその薀奥(うんおう)を極め、庸軒流として一家をなしました。庸軒の茶室には書院式の傾向と侘形式とを併せ持ち、一方、織部の弟子、笹屋宗貞(泉州堺の茶人)の中襖の茶室を模したことから、茶室「宗貞囲(そうていがこい)の席」とも云われています。
庭園は、昭和期の造園家重森三玲も研究に訪れました。
一般公開はされていませんが、第51回「京の冬の旅」の特別公開で訪れました。
金戒光明寺西翁院
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聖護院は役行者を開祖とする本山修験宗総本山、山伏の総本山です。
役行者の教えは山伏に伝承され、やがて天台宗に伝わりました。
白河上皇の護持僧であった三井寺の増誉大僧正は寛治4(1090)年白河上皇が熊野三山に参詣された「熊野御幸」の先達を務められた功績によって「聖護院」と称する寺を賜りました。「聖護」とは聖なる御身(上皇)をお護りする「聖体護持」より2文字をとったものです。
増誉大僧正は全国の修験者の統括を命じられ、最盛期には全国に2万余りの末寺が存在しました。
しかし、明治政府により修験道廃止令が出され、多くの山伏は還俗し、寺院は衰退しました。
後白河法皇の皇子、静恵法親王(じょうえほうしんのう)が宮門跡として聖護院に入寺された後、明治維新まで37代門主のうち25代は皇室より、12代は摂家から門主を迎えた皇室と縁の深いお寺です。
天明8(1788)年、京の都が大火に襲われ御所も焼けてしまった折り、時の光格天皇は親王時代に入寺されていた聖護院に避難し、その後3年間こちらを「仮皇居」とされました。また安政元(1854)年再び御所炎上の際にも、孝明天皇がこちらをお住まいとされたことから「聖護院旧仮皇居」として史跡に指定されています。
宸殿には上段の間があり、絢爛豪華な「花鳥図」「老松図」など約170面に及ぶ狩野派の障壁画が残ります。御所から移築した瀟洒な書院(重文)は、釘隠しや透かし彫りなどみどころが多いです。また、明治期までは春秋に御着替がなされた「弁才天尊」(旧才智院本尊)や、財運・金運の蛇神「宇賀神像」などがあります。
聖護院
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聖護院 (1)
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聖護院 (2)
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聖護院 (3)
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聖護院 (4)
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聖護院 (5)
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聖護院 (6)
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聖護院 (7)
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Posted at 2017/03/28 22:59:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年02月18日 イイね!

日生・瀬戸内

加子浦歴史文化館は、日生の歴史や産業をテーマ毎に展示した資料館と、備前市出身の文芸作家を紹介した文芸館からなります。
日生の資産家「筑前屋」(屋号)の家を移築した資料館は「海と人を活かす町」をメインテーマに、弁財船や打瀬船の模型・船具などを展示しています。
文芸館では、正宗白鳥・柴田錬三郎・藤原審爾・里村欣三ら著名作家や、児童文学作家・牧野大誓、日本画家・久保田耕民の作品を展示、現在作曲家として活躍中の岡千秋さんのコーナーもあります。
「加子浦」とは、公用船や海路を行く参勤交代の諸大名の通船へ、水や薪を供給したり、加子役(船をこぐ者)を勤める、労役を課せられた浦のことです。日生は江戸時代には加子浦に指定され、その代償として近隣の漁業権を得ていました。 
(現地説明板などより)
加子浦歴史文化館 (2)
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加子浦歴史文化館 (3)
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加子浦歴史文化館 (4)
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加子浦歴史文化館 (5)
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加子浦歴史文化館 (6)
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加子浦歴史文化館 (7)
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加子浦歴史文化館 (8)
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みなとの見える丘公園は、楯越山頂上付近に展望広場・遊歩道・駐車広場を整備した公園。展望広場からは日生港をはじめ日生エリア一帯が一望できます。
公園内にある「幸福の鐘」は、幅1.8m、高さ3.4mのアーチ型のステンレス枠に、直径30cmの実際に船で使った1927年製の「号鐘」が取り付けられています。霧が晴れ、日生から世界へ幸福の鐘が響くよう願いを込めているそうです。
平成27(2015)年4月16日に開通した備前市日生町と鹿久居島を結ぶ全長765mの備前♡日生大橋もよく見えます。
みなとの見える丘公園 (2)
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みなとの見える丘公園 (3)
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みなとの見える丘公園 (4)
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夢二郷土美術館分館は、夢二が16歳までを過ごした生家と、夢二が東京に建てたアトリエ「少年山荘」(復元)を公開しています。
竹久夢二は明治17(1884)年9月16日、この家で生まれました。家業は造り酒屋でしたが夢二が生まれた頃は酒の取次販売の傍ら農業もしていました。
夢二は8歳で本庄村明徳小学校に入学し12才で邑久高等小学校へ、16才で神戸中学校に入学しました。
しかし、事情があって僅か8ヶ月で同校を退学し帰郷、翌明治33年2月に家族と共に福岡県遠賀郡八幡村枝光に転居しました。
恵まれた風土のこの生家で夢二は16才まで多感な少年時代を送ったのですが、ふるさとそしてこの生家こそ夢二芸術の原点と言いましょう。
夢二一家が、九州へ転居した後は人手に渡っていましたが修復整備の後、昭和45(1970)年夢二郷土美術館として一般に公開しました。現代では珍しくなった茅葺き屋根の伝統的な日本家屋は、約250年前に建てられました。夢二の子ども部屋や、建物や庭など外観も夢二の生前そのままに保存し、公開しています。夢二生家内でも、夢二の掛け軸や屏風、スケッチなどの作品の展示を行っています。 夢二生家入口には有島生馬氏が記した「竹久夢二ここに生る」の碑があります。
少年山荘は、竹久夢二が自らデザインを手がけた洋風建築を、夢二生誕95年を記念し、昭和54(1979)年夢二の次男、不二彦氏の協力で復元したものです。
大正13(1924)年、夢二は当時の東京府下松沢村松原(現在の世田谷区松原)にアトリエ付き住居を建てました。少年山荘の名前は、中国の「酔眠」という漢詩の中の一節から、少年の日のように春の長い一日を過ごしたい、との願いを込め夢二が名付けました。少年山荘は昭和9(1934)年9月、夢二が亡くなった後、荒廃し取り壊されていましたが次男不二彦氏らの考証、記憶をたどってここに復元したのがこの建物です。「少年山荘」の名は、「山静かにして太古に似たり、日の長きこと少年の如し」という中国宋の詩人唐庚(とうこう)の「酔眠」の詩からとって夢二が名づけたもので、少年の日の如く長い一日をこのアトリエで暮らしたいという願望から名づけられたものと言われています。また、「山帰来」というのは、この付近の山野に自生している植物ですが、最愛の人、彦乃を「山」と呼んでいたことから亡き人の再び帰って来ることを希って名づけたとも思われます。建物の周りにはサンキライやクヌギなど、少年山荘の周りに夢二が植えた木々も育っています。雑木林の中の「少年山荘」での夢二の暮らしの風情を感じながら、建物の中では、夢二生前の写真などを展示しています。
夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (2)
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夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (3)
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夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (4)
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夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (5)
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夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (6)
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夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (7)
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夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (8)
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夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (9)
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夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (10)
夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (10) posted by (C)pismo

天保窯は備前焼の登り窯跡です。
江戸後期まで南、北、西の三大窯で多量生産していた備前焼も、藩の保護の減少や燃料の関係で大窯の融通窯として規模を縮小した三基の小窯が造られ古備前の壷、茶器、花器、角徳利など小形の品が生産されました。
天保窯は、そのうちの一つで、天保3(1832)年頃築窯され、初め五室であったものが、補修、改修されながら、昭和15(1940)年頃まで焼き継がれました。
備前焼の古窯で、原姿をとどめているのは、この窯だけです。
構造は、それまでの穴窯形式のものより燃焼効率がよく、大窯の1/4の十数日で焼きあげられ、経費の節減、品物の回転を早めることのできる備前焼としては画期的なものでした。
昭和53(1978)年に、岡山県陶友会が中心となり、備前市観光協会の協力によって保護屋根を設置したが、乾燥し崩壊が進むので、昭和60(1985)年に再び陶友会が中心となり、 岡山県郷土文化財団の助成を受け、窯体を樹脂加工で強化保存工事を行いました。
(現地説明板などより)
天保窯 (3)
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天保窯 (4)
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Posted at 2017/03/23 21:58:28 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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