• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ピズモのブログ一覧

2007年07月27日 イイね!

伊吹山山麓京極氏史跡と小谷城周辺の史跡巡り

次は、米原市の旧伊吹町にある京極氏遺跡に行ってみました。
平成15(2003)年、京極氏遺跡(京極氏城館跡 弥高寺跡)は国の史跡に指定されました。
上平寺館〔京極氏館〕は北近江の戦国大名、京極高清が築いた居館です。京極氏は鎌倉時代、佐々木信綱の四男氏信が愛知川から北の六郡(伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛知郡、高島郡)を与えられ京極氏を名乗りました。
応仁の乱以後、戦国大名として歩み始め、これにあわせ上平寺館を整備しました。詰めの城として上平寺城(桐ヶ城)があります。大永3(1523)年、京極高清を補佐する重臣上坂氏に対する不満から、浅見氏、浅井氏らの家臣がクーデターを起こし、上平寺館は焼失しました。
上平寺館は、伊吹神社、京極氏の墓所、京極氏館、京極氏庭園、隠岐氏屋敷、弾正屋敷など家臣たちの屋敷跡があります。


上平寺城は北近江の戦国大名、京極高清が築いた上平寺館の詰城として築かれました。
上平寺館の伊吹神社の鳥居の左手から登城口の案内があります。主郭部まではだいたい50分~1時間程度です。土塁や堀切などを見ることができます。


この日の最後に、小谷城近くの史跡めぐりです。

須賀谷温泉には、片桐且元居館跡があります。須賀谷は賤ヶ岳七本槍の一人、大和龍田藩初代藩主片桐且元と弟で大和小泉藩の初代藩主片桐貞隆の出身地です。
浅井久政は、小谷城築城の折、この地を家臣の屋敷地と定めました。片桐孫右衛門直貞(且元、貞隆の父)は、この山の谷に鷹の巣をかける岩があることから巣ヶ谷(すがたに)と改めました。(後に須賀谷)
現在は屋敷跡の石碑の他に、且元公の頌徳碑、且元の父片桐孫右衛門の墓、小谷落城の時に浅井長政の命を受け、且元が小谷城の守り本尊である仏像を安置した観音堂跡の石積みが残っています。



小室城〔小室陣屋〕は、正保4(1647)年に千利休、古田織部と共に三大茶人として、また、江戸幕府の作事奉行を務めた小堀政一(遠州)の遺領を次いだ正之によって慶安元(1648)年に築かれた居館です。以後、政恒、政房、政峯、政方と続きましたが、天明8(1788)年に伏見奉行であった政方のときに改易となりました。小堀家の居館や家臣の住居などは、寛政元(1789)年に大津代官所によって競売され、城は廃されました。同年には荒地を開墾して畑とするよう命じらています。
現在、城跡には石碑が残るのみです。


小谷城の登城口近くの脇坂甚内安治屋敷跡にも行きました。
脇坂家の始祖・脇坂安治は、天文23(1554)年田村孫左衛門の子としてこの地に生まれ、浅井長政の家臣・脇坂安明の養子となりました。小谷落城後、羽柴秀吉に従し、賤ヶ岳の合戦において七本槍の一人としてその功績を認められ、摂津能勢郡、後大和高取、淡路洲本で大名となりました。徳川時代となって伊予大洲5万3千石の領主として寛永3(1626)年に73歳で没しました。脇坂氏は3代目安政より播州龍野城主として幕末まで続きました。屋敷跡は小谷城近くにあり、脇坂安治の産湯の池などがあります。



最後は山内一豊公初所領之地です。
天正元(1573)年夏、織田信長の越前朝倉攻めに従軍した山内一豊は、近江と越前の国境刀根坂で、朝倉軍きっての強弓の士、三段崎勘右衛門と死闘を繰り広げます。三段崎が放った矢は、一豊の左のまなじりから右の奥歯までを貫きましたが、これにひるむことなく、見事勘右衛門を討ち取りました。
そこへ家臣の五藤吉兵衛為浄が駆けつけ、一豊の顔を貫く矢を口にくわえて抜こうとしましたが、一豊が「顔を踏みつけて抜け」と命じたので、為浄は草履を脱ごうとします。しかし、一豊は、「そのまま踏め」と命令し、為浄は草履のまま顔を踏みつけて矢を抜き取ったといいます。
山内一豊は、この武功により、近江唐国四百石の知行を与えられました。
唐国の住宅街の南側、国道8号の西側の田園地帯の中に石碑があります。
大河ドラマ「功名が辻」の放映にあわせて建立したのか、まだ新しく立派な石碑でした。


滋賀県は、有名な戦国時代の城や、有名な武将たちの飛躍の場所だけあって史跡がたくさんあります。何度行ってもまだまだ行くべき場所がたくさんあると感じさせられます。
Posted at 2007/08/08 00:01:19 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年07月27日 イイね!

米原市、鎌刃城など番場宿周辺と旧近江町山内一豊ゆかりの史跡めぐり

米原市、中山道の宿場町であった番場宿に来ました。
ここには、鎌刃城があります。鎌刃城は、鎌倉時代箕浦庄の地頭であった土肥氏によって最初に築かれたと考えられています。この頃は、砦程度のものでしたが、室町時代には鎌刃城は江南の六角氏と江北の京極氏や浅井氏の国境に立地していることから、「境目の城」として本格的に築城されたと考えられています。
文明4(1472)年、六角氏方の今井氏が、京極氏方の堀氏の守備する鎌刃城を攻めました。堀氏は後に六角氏方に降り、再び城主になりました。
戦国時代堀秀村は元亀元(1570)年姉川の戦いに際し、同族の樋口直房と共に織田方に降りました。元亀2(1571)年に浅井長政に攻められ、横山城を守備していた木下藤吉郎秀吉が応援に駆けつけ、長政軍を撃退しました。
天正2(1574)年、堀、樋口氏は改易され、鎌刃城はその頃廃城になったと考えられています。
平成17(2005)年3月2日、国の史跡に指定されました。
中山道番場宿からは2、3登城ルートがあり、50分~1時間程度で主郭部にたどりつきます。中山道沿いには何カ所か案内板があり、登城ルートにも案内があるのでわかりやすいです。石垣、堀切、曲輪が見事に残されており、スケールの大きな山城です。登城には時間がかかりますが、山城好きには魅力いっぱいの城です。


麓の番場宿には蓮華寺があります。蓮華寺は、聖徳太子が創建し、法隆寺と称していましたが、建治2(1276)年、落雷により焼失しました。
その後、弘安7(1284)年、一向上人に帰依した鎌刃城主土肥三郎元頼公は堂于を再興し、「八葉山蓮華寺」と改称しました。
歴代天皇の帰依暑く、花園天皇より勅願寺院としての勅許を賜り、寺紋として菊の紋を下賜されました。
また、時宗一向派念仏道場として隆盛を極めましたが、現在は浄土宗本山です。
この地は南北朝の古戦場としても知られており、境内には北条仲時公主従432名の墓所があります。元弘3(1333)年、京都の戦いに敗れた六波羅探題北条仲時公は、北朝の光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇を奉じて中山道を下り、番場の宿場に着いたとき敵の重囲に取り囲まれ、戦いましたが本堂前庭にて432名悉く自刃しました。時の第3代住職同阿上人は深く同情してその姓名と年齢及び仮の法名を一巻の過去帳に認め、供養の墓碑を建立しました。


次は、米原市に合併された旧近江町のエリアに向かいます。まず、北陸本線坂田駅近くの山内一豊の母、法秀院の墓に行きました。山内一豊の母は、夫の山内盛豊が永禄2(1559)年、織田信長に岩倉城を攻められ戦死した後、永禄3(1660)年、近江国宇賀野の土豪長野氏の屋敷の一角に寓居しました。出家した後は法秀院といいましたが、実名は定かではありません。
この地で法秀院は近在の子女に裁縫や行儀作法を教えていましたが、その中に一豊の妻となる千代がいたそうです。一豊が長浜城主になった後も宇賀野に留まり、天正14(1586)年、7月17日に亡くなりました。
その後、宇賀野の墓地に葬られました。寛政2(1790)年に土佐藩士馬詰権之助が、法秀院の墳墓を発見した後、嘉永7(1854)年に法秀院墳墓が改築されました。明治25(1892)年、長浜警察署長、浜田源之助(旧土佐藩士)が墳墓の荒廃を親戚の浜田厳彦に伝え、山内家へもその旨を伝えました。明治26(1893)年、山内侯爵家は、長野基太郎に命じて墳墓を改修しました。
その後100余年、損傷が激しくなったため、平成9(1997)年、現在の墳墓が完成しました。


坂田駅の南側には若宮氏館跡があります。山内一豊の妻「千代」は、近江浅井家の家臣「若宮喜助友興」の娘として弘治3(1557)年、この地で生まれました。
かつては、幼名は「まつ」とされていましたが、この人物は若宮左馬助の子で、後に羽柴秀勝の家臣赤尾孫助に嫁ぎ、孫助が小牧長久手の戦いで戦死後は山内一豊の重臣五藤吉兵衛の弟五藤為重に再婚しました。
千代は、永禄9(1566)年、父が戦死した後は、伯母の夫不破氏に養われていましたが、長じて故郷飯村に帰村していた時、隣村宇賀野村の長野家に寄寓していた山内一豊母子と運命の出会いをします。千代は一豊の母法秀院のもとに裁縫と行儀見習いに通っているときに、母子から気に入られ、一豊の妻に迎えられました。
現在、館跡は、若宮公園になっており、若宮氏の顕彰碑が建立されています。


近くには、若宮氏が建立した八幡神社があります。八幡神社は後小松天皇の御代、応永7(1400)年頃に若宮氏により創建されました。
主祭神は誉田別尊(応神天皇)で、正親町天皇の御代、永禄年間(1558~1570)年に若宮左馬助が現在地に社殿を造営し、社領として田一反五畝部を寄進しました。
若宮氏は武運の長久を祈願し、同家の守護神として崇敬していました。若宮氏亡き後は、西飯村四十戸の鎮守社として現在に至っています。
なお、八幡神社の北東に「宮地(どじょ野)」と呼ばれる土地がありますが、そこは創建当時の社地と考えられ、今も大切に管理されています。



坂田駅より東側の少し離れた所に、田中孫作生誕地があります。山内一豊、千代夫人(見性院)の家臣として見事な働きをして、山内家が土佐一国の大大名に出世するのに功績のあった田中孫作定重は近江高溝村の出身です。
関ヶ原の戦いの前、山内一豊は徳川家康に従って上杉景勝を攻めるため従軍していました。石田三成が家康追討の兵を挙げた時、大坂の千代夫人は上方の情勢と、自分のことは心配せずに家康公に忠誠を尽くして欲しいとの手紙を同郷で最も信頼のおける田中孫作に託して下野宇都宮の一豊の陣に届けさせました。この際、千代の手紙を紙縒とし、笠の緒に撚りこみ、途中盗賊に襲われ衣類、刀、脇差を奪われるという危険な目に遭いましたが無事役目を果たしました。
また、孫作は関ヶ原の戦いの前、小早川秀秋の陣を訪れ、東軍に味方するように説得しました。
孫作の墓は京都妙心寺の大通院の一豊、千代の御霊屋の脇にあります。子孫は山内家の家臣として80石の家禄で明治まで続きました。また、大溝村にも孫作の兄弟が残り、明治中期まで家系は継続していましたが、何らかの事情で大溝村を離れ、近年まで九州直方に子孫が住んでいたことが判明したとのことです。
現在、東海道新幹線脇の田中孫作の屋敷跡に石碑と説明の看板が立てられています。



次は、旧伊吹町へ向かいます。




Posted at 2007/08/05 21:19:00 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年07月27日 イイね!

「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」佐和山城周辺散歩

彦根市では現在「国宝・彦根城築城400年祭」が行われていますが、こちらには目をくれず、佐和山を目指します。佐和山付近は人影もまばらで、静かな場所です。
最初に、井伊神社に行きました。井伊神社は、天保13(1842)年、彦根藩15代藩主井伊直亮が創建した神社です。井伊家の始祖井伊共保、彦根藩初代藩主直政・彦根藩2代藩主直孝を祀っています。
極彩色の彫刻が見事ですが、痛みが激しいせいか、仮説の覆堂で保護されています。
これだけの神社ですので、朽ち果ててしまうのは惜しい気がします。なんとかならないものなのでしょうか。


龍潭寺は、天平5(734)年、行基菩薩により遠江国引佐郡井伊谷に開基された寺院です。元中3(1385)年、後醍醐天皇第三皇子宗良親王により中興され、慶長5(1600)年に井伊直政が佐和山城主になったのを機に、昊天(こうてん)禅師が佐和山山麓に移建開山した、井伊家と深いゆかりを持つ臨済宗妙心寺派の寺院です。元和3(1617)年、諸堂が完成した後は、近江随一の禅刹となり、近郊に十あまりの末寺を有する巨刹となりました。
さらに、全国有数の禅宗大学寮として発展し、特に園頭科は日本の造園専門学の発祥とされ、ここで学んだ僧が全国の禅寺の庭園を手がけたことは広く知られています。
また元禄年間からは達磨様にあやかるだるま寺として人々の信仰を集め、四季折々に美しい花の寺としても広く親しまれてきました。
開山昊天禅師の枯山水の名庭、「ふだらくの庭」、昊天禅師と小堀遠州合作の池泉鑑賞の名庭鶴亀蓬莱庭園は見事です。


浜松市引佐町、井伊谷の龍潭寺も庭園が見事だそうです。以前に行きましたが、あいにく時間切れで庭園は拝観できませんでした。
さて、この彦根の龍潭寺からは、佐和山城へのハイキングコースがあります。佐和山城は、鎌倉時代の建久年間に佐保時綱により築城されたと伝えられています。その後、室町時代~戦国時代には六角、京極、浅井氏の支城としての役割を果たしていたようです。元亀元(1570)年には浅井方の武将、磯野員昌が織田信長らと激戦を繰り広げました。しかし元亀2(1571)年、磯野は降伏し、代わって織田家配下の丹羽長秀が城主となりました。
本能寺の変後、佐和山城は天正11(1583)年には、明智討伐に功があった堀秀政に与えられ、その後、天正13(1585)年堀家の転封にともない堀尾吉晴が入城しました。
天正18(1590)年には豊臣五奉行の一人の石田三成が入城し、大規模な改修工事を行いました。三成は改築を進め、山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえたつほどの立派な城を築き上げ、「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」と言われました。
関ヶ原の戦いで石田三成が敗れると、父石田正継と兄石田正澄らが守る佐和山城は、小早川秀秋を先鋒とする東軍に攻撃され落城しました。
その後井伊直政が入城しましたが、彦根城を築城し、嫡子直継の代に完成したため、佐和山城は破壊され廃城となりました。
城跡は、龍潭寺や大洞弁財天方面から登ります。その他、佐和山トンネル西側からも登城口があります。本来の大手口(鳥居本側)からのルートは整備されていないようです。石田三成時代の痕跡を消すためか、徹底的に破脚されあまり遺構などは残っていないようです。本丸からは彦根城がよく見えました。


佐和山城からの下山は、長寿院〔大洞弁財天〕側からにしました。長寿院は、彦根城の東北の方角、大洞山の中腹にある真言宗醍醐派の寺院で、日本三大弁財天の一つといわれる弁財天坐像を安置していることから大洞弁財天と呼ばれ親しまれています。
日光東照宮建立の総奉行であった彦根藩第四代藩主井伊直興が、領内の安泰と近江代々の故領主の霊を弔うため、領民より各一文の奉加金に藩金を加えて建立しました。甲良大工によって建てられ、極彩色で欄間に眠り猫や象の彫刻がある権現造りの形式で、彦根日光とも呼ばれています。


清涼寺は、山号を祥壽山といい、佐和山の麓にあります。慶長7(1602)年2月1日直政公の卒した時、この地を墓所とし、公を開基とし、その戒名「祥壽院殿清涼泰安大居士」により、祥壽山清涼寺と称しました。
この地は、石田三成公が佐和山城主だったとき、島左近の屋敷があった場所です。参道まで内湖があり、百間橋がかかっていました。
また、井伊直弼が清涼寺で13歳より参禅したことでも知られています。


佐和山散歩はここまで。夏ですが、木々が日差しを遮るせいか、思ったほど疲労は感じません。
次は、米原市へ向かいます。
Posted at 2007/08/04 22:10:44 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年07月27日 イイね!

佐々木道誉、藤堂高虎、尼子氏ゆかりの地、甲良町

この日は滋賀県をドライブです。
八日市ICから、滋賀県犬上郡甲良町を目指します。
まずは、婆娑羅大名で知られる佐々木道誉ゆかりの地を目指します。
慶雲山勝楽寺は、建立した臨済宗建仁寺派の寺院で、開山は雲海和尚です。寺号は道誉の諡号勝楽寺殿徳翁道誉により命名しました。
境内には大池があり、勝楽寺が兵火にみまわれた際には、この池のおかげで六脚門・大日堂・大日如来像などが焼失から免れることができました。
境内には佐々木道誉の墓があります。


その勝楽寺の裏側にあるのが勝楽寺城です。勝楽寺城は、応安元(1368)年に佐々木道誉の館と領地を守護するために高筑豊後守に命じて築城されました。その後、多賀氏の城となっていましたが、天文年間に織田信長によって落城、麓の勝楽寺と共に炎上しました。
麓の佐々木道誉の菩提寺、勝楽寺より徒歩20~30分程度で登城できます。山上からは近江平野が見渡せます。


次は、甲良町役場のある在士(ざいじ)という所を目指します。この辺りは藤堂高虎の出身地です。藤堂館は、遺構などは特に残っていませんが、在士高虎公園として整備され、藤堂高虎公の銅像、高虎公の残念石などがあります。


在士八幡神社の創基ははっきりわかりませんが、藤堂三河守景盛が石清水八幡宮を勧請して建立したのが始まりといわれ、勧請と同時に紫藤一株を植えて子孫繁栄を祈願しました。
境内には「伊勢国安濃津城主 藤堂高虎公出生地」の石碑が建立されています。


在士の西側には、尼子という場所があります。この辺りはあの出雲の尼子氏の発祥の地です。
尼子城は、京極家第5代、室町幕府の重臣で婆娑羅大名として知られた佐々木(京極)高氏(道誉)の嫡孫備前守高久が甲良荘尼子村を領有し尼子氏と称し、本家京極家の居城勝楽寺城の前衛城として築いた城です。
嫡男出羽守詮久以後近江尼子氏の居城として南北朝の動乱期の有力連枝旗頭として重きをなしていましたが、戦乱の中で城は落ち、一族家臣は四散したと考えられています。また、詮久の弟持久を祖とする出雲守護代尼子氏を頼り彼の地で活躍した一族家臣もいるようです。
現在は民家の家の入口に殿城池が残っています。在りし日の尼子城の堀跡で、昭和初期まで池の西、深さ4~5mで北側に湾曲した竹藪となった堀跡が続いていましたが戦後宅地に変貌しました。村の東玄翁堂裏の竹藪から尼子城の土塁と堀跡が県教育委員会に発見され、室町時代には広大な平城であったことが判明しました。殿城池の水神様は、落城の時に入水した城主の姫君(八千姫)が祀られています。この時美しい侍女お園も姫の後を追って入水殉死したことを領民が憐れみいつしかこの堀のことを「お園堀」と呼び敬い親しみ今日に至っています。
周辺はかなり道が狭いです。車で現地に向かうと苦労します。


この後は、彦根市に向かいます。
Posted at 2007/08/03 23:38:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年07月12日 イイね!

大雨の鞍馬・貴船散歩

この日は、ふと思い立って、鞍馬方面に出かけました。
以前にも来たことはありますが、人里離れた山の中の雰囲気が良い感じの所です。
しかし、この日はあいにくのお天気。鞍馬寺に着くと、いきなりの大雨。参道は川のようになっていました。
鞍馬寺の創建は宝亀元(770)年に鑑真の弟子である鑑禎が草庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりといわれています。
その後、延暦15(796)年に官寺である東寺の建設を任されていた藤原伊勢人は、かねてより自分が信仰する観音菩薩のための寺を建てたいと考えていました。その時、夢で貴船明神から託宣を授けられ、鞍馬山にたどりつくと、そこには既に毘沙門天を祀る草堂がありました。伊勢人は困惑しましたが、その晩の夢に童子が現れ、「毘沙門天も観音も根本はひとつのもの」という言葉を聞き入れて山中に堂于を建立し、毘沙門天と共に千手観音を安置しました。
源義経が幼少時にこの寺で修行したことでも知られています。
鞍馬寺はたびたび焼失し、現在の本堂は昭和46(1971)年に再建されたものです。ただし、文化財などはよく残されているようです。







由岐神社は、鞍馬寺の参道沿いにあります。
祭神は、大己貴命と少彦名命です。
天変地異が続く都を鎮めるため、天慶3(940)年に御所内に祀られていた祭神をこの地に勧請したのが始まりとされ、天皇のご病気や世上騒擾の時、社前に靭(ゆき・矢を入れる器具)を奉納して平安を祈ったため靱社の名がつき、後に現在の社名になったそうです。
重要文化財の拝殿は、慶長12(1607)年、豊臣秀頼によって再建されたもので、中央に通路(石階段)をとって二室に別けた割拝殿という珍しい桃山建築で、前方は鞍馬山の斜面に沿って建てられた舞台造(懸造)となっています。この他本殿脇の石造の狛犬一対も重要文化財に指定されています。
京都三大奇祭の一つとして有名な「鞍馬の火祭」は当社の例祭で、毎年10月22日夜に行われます。祭神勧請の際、篝火を焚いてお迎えしたという故事に因んで、氏子等が大小様々の松明を担いで鞍馬街道に参詣する祭りです。








義経公供養塔〔東光坊跡〕です。
東光坊は牛若丸が鞍馬寺に在寺した際、文武の修行に励んだ場所です。東光坊跡に昭和15(1940)年、義経公の供養塔が建てられました。








霊宝殿は、奥の院の入口近くにあります。1Fが自然科学展示室となっており、鞍馬山の動植物に関する展示がされています。2Fが国宝寺宝展覧室、3Fが国宝仏像奉安室となっていて、鞍馬寺の寺宝が展示してあります。2Fには與謝野寛・晶子夫妻関係資料を紹介する「與謝野記念室」もあります。
訪れたときは「百の義経展」というテーマ展示が2Fでされていました。







奥の院への参道途中にある不動堂は、天台宗を開く以前の最澄が籠もった祈願所と伝えられています。このあたりは僧正ガ谷と呼ばれ、義経が鞍馬天狗から兵法を教わった場所だと言われています。




不動堂の向かい側には、義経堂があります。源義経は文治5(1189)年、平泉で落命しましたが、御魂は、幼少時代を過ごした鞍馬山に戻ったと信じられています。
神格化された遮那王尊として義経堂に祀られています。


僧正ガ谷不動堂から奥の院魔王殿に向かう参道に木の根道があります。
この一帯は岩盤が固いため、杉の木の根は地の表面を這っています。
少し歩きにくいですが、珍しい風景です。




奥の院魔王殿は、鞍馬寺の中でも特に聖地とされています。
神が降臨する場所として上古の人々が巨石を築き、感謝と祈りを捧げる祭祀を行った磐座(いわくら)と考えられています。
写真は拝殿です。奥には本殿があります。




貴船神社は、伝説によると第18代の反正天皇の御代(1600年程前)に玉依姫(神武天皇の母)が浪花の津(大阪湾)に黄色い船に乗って淀川、鴨川をさかのぼって水源の地・奥宮辺りの川のそばから水の湧き出るところに船を留め、そこに御社殿を建てたのが始まりといわれています。
白鳳6年(1300年程前)には社殿を造り替え、天喜3(1055)年に現在地に遷座しました。元の鎮座地は奥宮になっています。
水の神様ですが、縁結びの神様と知られ、若い女性で賑わっています。






貴船神社中宮結社(ゆいのやしろ)は、神武天皇の曽祖父にあたられる瓊々杵命(ににぎのみこと)が、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を娶らんとする時、父の大山祇命(おおやまつみのみこと)が姉の磐長姫命も共におすすめしましたが、瓊々杵命は木花咲耶姫命だけを望まれたため、磐長姫命は大いに恥じ、「吾ここに留まりて人々に良縁を授けよう」といわれ、御鎮座したと伝えられています。
古くより縁結びの神、「恋を祈る神」としての信仰が篤く、平安時代の女流歌人・和泉式部が切ない心情を歌になくして祈願したという話は有名です。
昔はすすきなどの細長い草を、今は「結び文」を神前に結びつけて祈願する習わしがあります。
境内には和泉式部の歌碑もあります。




貴船神社奥宮は、貴船神社が当初創建された場所にあり、祭神も本宮と同様、雨や水をつかさどる神、高竈神です。
社伝によれば、反正天皇の時代(5世紀初め頃)に玉依姫(神武天皇の母)が黄船に乗って浪速から淀川、鴨川、貴船川をさかのぼって当地に上陸しましたがそこに祠を営んで水神を祀ったのが始まりです。地名や社名の起源をこの「黄船」にもとめる説もあります。
境内の本殿横には、この伝説にまつわる船形石があり、これを積み囲んだ小石を持ち帰ると航海安全につながるとされました。天喜3年(1055) に貴船神社本宮を現在の地に移しましたが、奥宮としてこの地も大事にされました。
また、本殿下には巨大な龍穴(縦穴)があり、文久年間(19世紀中頃)の本殿修理の際に大工が誤ってノミをこの中に落としたところ、一天にわかにかき曇り、風が吹きすさんでノミを空中に吹き上げたといいます。








鞍馬・貴船散歩はここまでです。帰りは旧京北町へ。
山國神社の御祭神は大己貴命(大国主命)です。
第五十代桓武天皇による平安遷都に当たり大内裏御造営の木材を山国の郷より徴せられ 此の郷を御杣料地として定め、本殿を造営され、祭主として和気清麿呂公が奉仕されました。
以来、大嘗祭の悠紀、主基の御殿御造営の用材を調達する事が恒例となりました。第六十七代三条天皇の長和5(1016)年 神位正一位を贈られ御祈願所として菊花の御紋章を賜り、春日、加茂、御霊、日吉の四社を建立して五社明神としました。
源平の乱、 元弘の乱において破却されましたが、応永6(1399)年社殿を復旧し綸旨を賜りました。この時、足利義満から丸に二引の徴章を奉納され、それ以来この紋章を当神社の紋章としています。明治6(1873)年郷社に、明治33(1900)年に府社に列格されました。延喜式内の古くからの社です。
幕末期にこの山国の地、かつての丹波国桑田郡山国郷では農兵隊(山国隊)が結成され戊辰戦争を戦ったことでも知られています。山國神社では10月第二日曜日の還幸祭には、維新勤王山國隊が行進します。


明智光秀ゆかりの周山城です。京北十景の1つに数えられ、城山として親しまれている山城の遺構は、天正年間(1570年代)丹波平定を命じられた明智光秀が築城した周山城の跡と伝えられています。若狭より京都への押さえを目的とした城で、山頂部は主郭を中心に東西南北の尾根上に曲輪を造成しています。主郭東側には低い石塁で囲い込まれた通路があり、石塁上に土塀を巡らせていたことが考えられています。また、虎口や井戸の跡、建物の存在を示す瓦片は織豊期に使用されたことを示しており、現存する総石垣の遺構は壮大です。また、西尾根部分には土の城跡があり、支城として存在していました。天正9(1581)年8月、光秀は津田宗及と十五夜の月見を楽しみ、本能寺の変後の天正12(1584)年2月には羽柴秀吉が赴いています。
4~50分程度登城口から歩くと主郭部です。少し雨上がりだと登りにくい箇所があります。
遺構が良く残り、織豊期の築城技術の特徴を残しています。










最後は、南丹市・旧園部町の園部城〔園部陣屋〕へ行きました。園部城は、元和5(1619)年小出吉親が築城しました。小藩であったので陣屋扱いだったようです。その後、明治維新まで小出氏が居城としました。
最後の園部藩主、小出英尚は、明治政府より園部陣屋をより堅固な園部城として整備する許可を得て、慶応4(1868)年1月から明治2(1869)年8月にかけて、櫓門、巽櫓の他、小麦山山頂に三層の櫓を築きました。
明治5(1872)年、その殆どが取り壊されましたが、現在は、園部高校の敷地に城門と巽櫓が残っています。






とにかく雨が残念な一日でした。鞍馬寺の霊宝殿で宝物を見ていると、雨はほぼ止みましたが、それでも降ったり止んだり。殆どがハイキングの一日だったので少し残念でした。
Posted at 2007/08/03 00:02:34 | コメント(5) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

プロフィール

「[整備] #レヴォーグ レヴォーグBピラー静音化 https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/car/1902122/8170099/note.aspx
何シテル?   04/01 22:18
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2007/7 >>

1234567
891011 121314
15161718192021
2223242526 2728
293031    

リンク・クリップ

沖縄県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2024/06/26 22:49:38
 
鹿児島県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/26 23:05:24
 
宮崎県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/22 08:03:34
 

愛車一覧

スバル レヴォーグ スバル レヴォーグ
H27.3レガシィBPより乗り換え
ホンダ PCX ホンダ PCX
H26.3購入しました。
スバル レガシィツーリングワゴン スバル レガシィツーリングワゴン
H18.3アコードワゴンから乗り換えました。
ホンダ スペイシー100 ホンダ スペイシー100
2ストのリード100から乗り換え。 少しパワー不足でした。
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation