この日は、ふと思い立って、鞍馬方面に出かけました。
以前にも来たことはありますが、人里離れた山の中の雰囲気が良い感じの所です。
しかし、この日はあいにくのお天気。
鞍馬寺に着くと、いきなりの大雨。参道は川のようになっていました。
鞍馬寺の創建は宝亀元(770)年に鑑真の弟子である鑑禎が草庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりといわれています。
その後、延暦15(796)年に官寺である東寺の建設を任されていた藤原伊勢人は、かねてより自分が信仰する観音菩薩のための寺を建てたいと考えていました。その時、夢で貴船明神から託宣を授けられ、鞍馬山にたどりつくと、そこには既に毘沙門天を祀る草堂がありました。伊勢人は困惑しましたが、その晩の夢に童子が現れ、「毘沙門天も観音も根本はひとつのもの」という言葉を聞き入れて山中に堂于を建立し、毘沙門天と共に千手観音を安置しました。
源義経が幼少時にこの寺で修行したことでも知られています。
鞍馬寺はたびたび焼失し、現在の本堂は昭和46(1971)年に再建されたものです。ただし、文化財などはよく残されているようです。
由岐神社は、鞍馬寺の参道沿いにあります。
祭神は、大己貴命と少彦名命です。
天変地異が続く都を鎮めるため、天慶3(940)年に御所内に祀られていた祭神をこの地に勧請したのが始まりとされ、天皇のご病気や世上騒擾の時、社前に靭(ゆき・矢を入れる器具)を奉納して平安を祈ったため靱社の名がつき、後に現在の社名になったそうです。
重要文化財の拝殿は、慶長12(1607)年、豊臣秀頼によって再建されたもので、中央に通路(石階段)をとって二室に別けた割拝殿という珍しい桃山建築で、前方は鞍馬山の斜面に沿って建てられた舞台造(懸造)となっています。この他本殿脇の石造の狛犬一対も重要文化財に指定されています。
京都三大奇祭の一つとして有名な「鞍馬の火祭」は当社の例祭で、毎年10月22日夜に行われます。祭神勧請の際、篝火を焚いてお迎えしたという故事に因んで、氏子等が大小様々の松明を担いで鞍馬街道に参詣する祭りです。
義経公供養塔〔東光坊跡〕です。
東光坊は牛若丸が鞍馬寺に在寺した際、文武の修行に励んだ場所です。東光坊跡に昭和15(1940)年、義経公の供養塔が建てられました。
霊宝殿は、奥の院の入口近くにあります。1Fが自然科学展示室となっており、鞍馬山の動植物に関する展示がされています。2Fが国宝寺宝展覧室、3Fが国宝仏像奉安室となっていて、鞍馬寺の寺宝が展示してあります。2Fには與謝野寛・晶子夫妻関係資料を紹介する「與謝野記念室」もあります。
訪れたときは「百の義経展」というテーマ展示が2Fでされていました。
奥の院への参道途中にある
不動堂は、天台宗を開く以前の最澄が籠もった祈願所と伝えられています。このあたりは僧正ガ谷と呼ばれ、義経が鞍馬天狗から兵法を教わった場所だと言われています。
不動堂の向かい側には、
義経堂があります。源義経は文治5(1189)年、平泉で落命しましたが、御魂は、幼少時代を過ごした鞍馬山に戻ったと信じられています。
神格化された遮那王尊として義経堂に祀られています。
僧正ガ谷不動堂から奥の院魔王殿に向かう参道に
木の根道があります。
この一帯は岩盤が固いため、杉の木の根は地の表面を這っています。
少し歩きにくいですが、珍しい風景です。
奥の院魔王殿は、鞍馬寺の中でも特に聖地とされています。
神が降臨する場所として上古の人々が巨石を築き、感謝と祈りを捧げる祭祀を行った磐座(いわくら)と考えられています。
写真は拝殿です。奥には本殿があります。
貴船神社は、伝説によると第18代の反正天皇の御代(1600年程前)に玉依姫(神武天皇の母)が浪花の津(大阪湾)に黄色い船に乗って淀川、鴨川をさかのぼって水源の地・奥宮辺りの川のそばから水の湧き出るところに船を留め、そこに御社殿を建てたのが始まりといわれています。
白鳳6年(1300年程前)には社殿を造り替え、天喜3(1055)年に現在地に遷座しました。元の鎮座地は奥宮になっています。
水の神様ですが、縁結びの神様と知られ、若い女性で賑わっています。
貴船神社中宮結社(ゆいのやしろ)は、神武天皇の曽祖父にあたられる瓊々杵命(ににぎのみこと)が、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を娶らんとする時、父の大山祇命(おおやまつみのみこと)が姉の磐長姫命も共におすすめしましたが、瓊々杵命は木花咲耶姫命だけを望まれたため、磐長姫命は大いに恥じ、「吾ここに留まりて人々に良縁を授けよう」といわれ、御鎮座したと伝えられています。
古くより縁結びの神、「恋を祈る神」としての信仰が篤く、平安時代の女流歌人・和泉式部が切ない心情を歌になくして祈願したという話は有名です。
昔はすすきなどの細長い草を、今は「結び文」を神前に結びつけて祈願する習わしがあります。
境内には和泉式部の歌碑もあります。
貴船神社奥宮は、貴船神社が当初創建された場所にあり、祭神も本宮と同様、雨や水をつかさどる神、高竈神です。
社伝によれば、反正天皇の時代(5世紀初め頃)に玉依姫(神武天皇の母)が黄船に乗って浪速から淀川、鴨川、貴船川をさかのぼって当地に上陸しましたがそこに祠を営んで水神を祀ったのが始まりです。地名や社名の起源をこの「黄船」にもとめる説もあります。
境内の本殿横には、この伝説にまつわる船形石があり、これを積み囲んだ小石を持ち帰ると航海安全につながるとされました。天喜3年(1055) に貴船神社本宮を現在の地に移しましたが、奥宮としてこの地も大事にされました。
また、本殿下には巨大な龍穴(縦穴)があり、文久年間(19世紀中頃)の本殿修理の際に大工が誤ってノミをこの中に落としたところ、一天にわかにかき曇り、風が吹きすさんでノミを空中に吹き上げたといいます。
鞍馬・貴船散歩はここまでです。帰りは旧京北町へ。
山國神社の御祭神は大己貴命(大国主命)です。
第五十代桓武天皇による平安遷都に当たり大内裏御造営の木材を山国の郷より徴せられ 此の郷を御杣料地として定め、本殿を造営され、祭主として和気清麿呂公が奉仕されました。
以来、大嘗祭の悠紀、主基の御殿御造営の用材を調達する事が恒例となりました。第六十七代三条天皇の長和5(1016)年 神位正一位を贈られ御祈願所として菊花の御紋章を賜り、春日、加茂、御霊、日吉の四社を建立して五社明神としました。
源平の乱、 元弘の乱において破却されましたが、応永6(1399)年社殿を復旧し綸旨を賜りました。この時、足利義満から丸に二引の徴章を奉納され、それ以来この紋章を当神社の紋章としています。明治6(1873)年郷社に、明治33(1900)年に府社に列格されました。延喜式内の古くからの社です。
幕末期にこの山国の地、かつての丹波国桑田郡山国郷では農兵隊(山国隊)が結成され戊辰戦争を戦ったことでも知られています。山國神社では10月第二日曜日の還幸祭には、維新勤王山國隊が行進します。
明智光秀ゆかりの
周山城です。京北十景の1つに数えられ、城山として親しまれている山城の遺構は、天正年間(1570年代)丹波平定を命じられた明智光秀が築城した周山城の跡と伝えられています。若狭より京都への押さえを目的とした城で、山頂部は主郭を中心に東西南北の尾根上に曲輪を造成しています。主郭東側には低い石塁で囲い込まれた通路があり、石塁上に土塀を巡らせていたことが考えられています。また、虎口や井戸の跡、建物の存在を示す瓦片は織豊期に使用されたことを示しており、現存する総石垣の遺構は壮大です。また、西尾根部分には土の城跡があり、支城として存在していました。天正9(1581)年8月、光秀は津田宗及と十五夜の月見を楽しみ、本能寺の変後の天正12(1584)年2月には羽柴秀吉が赴いています。
4~50分程度登城口から歩くと主郭部です。少し雨上がりだと登りにくい箇所があります。
遺構が良く残り、織豊期の築城技術の特徴を残しています。
最後は、南丹市・旧園部町の
園部城〔園部陣屋〕へ行きました。園部城は、元和5(1619)年小出吉親が築城しました。小藩であったので陣屋扱いだったようです。その後、明治維新まで小出氏が居城としました。
最後の園部藩主、小出英尚は、明治政府より園部陣屋をより堅固な園部城として整備する許可を得て、慶応4(1868)年1月から明治2(1869)年8月にかけて、櫓門、巽櫓の他、小麦山山頂に三層の櫓を築きました。
明治5(1872)年、その殆どが取り壊されましたが、現在は、園部高校の敷地に城門と巽櫓が残っています。
とにかく雨が残念な一日でした。鞍馬寺の霊宝殿で宝物を見ていると、雨はほぼ止みましたが、それでも降ったり止んだり。殆どがハイキングの一日だったので少し残念でした。