この日は、「八重の桜」で話題の
新島旧邸(新島襄旧邸)を訪れました。
新島旧邸は同志社の創立者、新島襄と妻・八重の私邸です。明治11(1878)年9月に竣工したと伝えられています。
設計は築の際には、同志社英学校で教師を務めたアメリカン・ボード宣教師で医者の、W.テイラーの助言のもとに、新島自身が行ったと伝えられています。
この敷地には、幕末まで禁裡幕府の御用大工棟梁中井家の屋敷があり、明治初年中井屋敷を堂上華族高松保実が所有していました。明治8(1875)年11月29日、新島襄は、この高松邸の半分を賃借して、生徒8名で同志社英学校を開校しました。すなわち、ここが同志社発祥の地です。翌年、学校は旧薩摩藩邸に移りますが、その後、新島は高松邸を購入し、自宅を建築しました。これが、今の新島旧邸です。
新島旧邸は、木造2階建ての和洋折衷というより、和風建築に洋風の手法を取り込んだ造りの建物です。外観はコロニアル様式を取り入れながら、すべて真壁造り。
当時としては画期的な、セントラル・ヒーティングを設置して冬は暖かく、夏は快適に過ごすために床を少し高くして風通しをよくし、また、夏の暑さを避けるため、屋根の庇を深くしてあります。建があったといわれています。彼の意見をもとに、京都の大工によって建てられました。内部はフローリングで、椅子やテーブルが並ぶ洋風の趣の居間、応接間があり、土間のないダイニング・キッチンが特色です。しかし、すべてが洋風で統一されているわけではありません。窓の上の障子欄間、部屋の間仕切りの襖、箱階段など、和風の手法を取り入れています。トイレは板張りですが、洋式トイレの形態です。
付属屋と門は旧邸と同時期のものですが、これらは伝統的な様式で建てられています。また、旧邸に残る家具57点はこの建物が住宅として使われていたときのもので、簡素な屋内意匠とよく調和しており、なかでも国産の洋家具は明治時代初期における家具技術を示す資料としても価値が高いものです。
昭和60(1985)年、京都市指定有形文化財に指定され、平成4(1992)年の全面解体保存修理工事終了以後は一般に公開されています。
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近くには
法成寺跡があります。
法成寺は,藤原道長(966~1027)が建立した寺です。
寛仁3(1019)年、出家した藤原道長は自邸、土御門殿と東京極大路をはさんだ東で、鴨川の西に九体阿弥陀堂の建立を発願し、翌年に楽慶供養、以降十年ほどかけて金堂・薬師堂・釈迦堂・五重塔など壮麗無比な諸堂が出現しました。
平安京外の東一帯に位置することから、「北東院」とも呼ばれ、鴨川から臨むその姿は宇治川から見える平等院のモデルともいわれています。
康平元(1058)年悉く焼失しましたが,息子頼通は直ちに再建に着手し、孫師実(1042~1101)に引き継がれました。
度重なる火災や地震に遭い、そのつど再建されてきましたが、14世紀前半にはかなりすたれ(「徒然草」)、残っていた無量寿院(阿弥陀堂)の炎上をもって鎌倉末期に消滅しました。
ここには寺跡を示す「従是東北法成寺址」の石碑があります。発掘調査では法成寺跡の遺構は見つかっていませんが、鴨沂高校や京都御苑内から平安時代中期の緑釉瓦が出土しています。
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そして、少しだけ京都御苑を散歩しました。
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閑院宮邸跡です。
閑院宮家は伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家と並ぶ四親王家の一つで、宝永7(1710)年に東山天皇の皇子直仁親王を始祖として創立されました。
京都御苑の公家町南西部に屋敷を構えました。創建当初の建物は天明の大火(1788年)で焼失し、その後再建されていますが、現在の建物との関係など詳しいことはわかっていません。
明治2(1869)年の東京遷都に伴い、閑院宮が東京に移られてからは、華族会館や裁判所として一時使用され、御苑の整備が一段落した明治16(1883)年、宮内省京都支庁が設置されています。
第二次世界大戦後の昭和24(1949)年、京都御苑が国民公園となってからは、厚生省、のちに環境庁の京都御苑管理事務所などに使用されていました。平成18(2006)年3月に改修工事を終え、京都御苑の自然と歴史についての写真・絵図・展示品・解説を備えた収納展示室と庭園などを公開しています。
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宗像神社は宗像三女神、即ち多気理姫命、市岐嶋姫命、多岐津姫命を主祭神として祀ります。
宗像三女神は別名「道主貴」といい、これは全ての道を司る神の尊称です。道の神(交通・運送の神)、また海の神(出産、生産、産業・文化の神)として信仰されています。
この地はもと小一条殿(文徳天皇皇后明子の里、藤原忠平の邸宅)といい、平安の御代、清和天皇のご誕生の地です。
社伝によれば、平安京遷都の翌年、延暦14(795)年、桓武天皇の命により、藤原冬嗣が筑紫より勧請し、創建したと伝えられています。
その後、歴代皇室の御尊信篤く、応仁の乱の兵火で社殿ことごとく焼失した後、再建されました。現在の社殿は江戸期安政年間に再建されたものです。
明治維新までは花山院家の邸地となり、本社もその邸内にありましたが、邸宅が廃せられて後は社殿のみ残りました。境内には樹齢600年といわれる京都御苑最長老の楠の巨木があり、桜の老木は御所の紫宸殿の左近の桜を拝領したものです。また「葉書」の語源となったともいわれる「多羅葉」の樹が社殿正面にあります。境内社として花山稲荷社・京都観光神社・小将井社・繁栄稲荷社・金比羅宮があります。
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鷹司邸跡です。
鷹司家は、鎌倉時代中頃、近衛家からわかれた五摂家の一つです。江戸時代中期には閑院宮家の皇子淳宮が鷹司家を継ぎました(鷹司輔平)。孫の政通は幕末期30年以上も関白を務め、九条尚忠へ譲った後も、内覧、太閤として朝廷で重要な役割を担いました。政通夫人は水戸藩主徳川斉昭の姉で、外国情報を早く知り得たといいます。
元治元(1864)年の禁門の変では、長州藩士が邸内に入り、屋敷に放たれた火は、長州藩邸の火などとともにどんどん焼けと称する京都大火につながりました。
長州藩の久坂玄瑞や寺島忠三郎が、鷹司邸内で自刃しています。
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凝華洞跡です。
凝華洞は、江戸時代第111代後西天皇退位後の仙洞御所があったところといわれています。
元治元(1864)年禁門の変の頃、京都守護職に任じられていた会津藩主松平容保は病を患い、朝廷の配慮もありここを仮宿舎にしました。
丘の上の松の横には東本願寺が寄進した灯籠が建ち南には池がありました。
その後、大正大礼前の改良で池は埋められ、灯籠は九条池畔に移され、戦時中の金属供出により今は台座だけが残っています。
現在は大きなイチョウが残るのみです。
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Posted at 2013/05/14 00:16:39 | |
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