
今週は溜まっていた代休消化を兼ねて被災地で病気入院中の母親を見舞いに5泊6日ほど気仙沼に行っていました。
親が不在の仮設住宅に最大9連休の予定でしたが出発は春の嵐を避けるために遅らせ、前半は担当医との時間が合わず、後半は未明に出たチリ地震津波注意報の防災無線のサイレンや震度3の地震で震災直後を追体験しているかのようで、春の嵐が叩きつける仮設住宅はとても寝ていられるようなシロモノではなく、すっかり寝不足になって帰ってきました。
当初、向こうの担当医が自分と話をしたいという事で何かあったかと思ったのですが、どうも元々被災前から患っていた糖尿病の投薬管理を本人任せにするのに不安があるという事のようでした。
認知症テストはクリアしているようですが単なる物忘れではないような気がします。
最初は退院の迎えに行くつもりでしたが結局滞在期間中に退院許可が下りず時間を持て余してしまいましたので目的を決めずに土産物を買ったりと数日は気仙沼市内をぶらついてきました。
先ずはかつて自分が住んでいた鹿折地区で津波によって内陸に打ち上げられた青い漁船があった近くの仮設商店街「復幸マルシェ」に店を出している同級生を訪ねました。
こちらは「かさ上げ」で間もなく移転する事が決まっています。
気仙沼でも被害が多く殆どの家屋が流出、焼失した鹿折地区は最後まで残っていた漁船も解体され、沿岸部は工場地帯にするため家屋の基礎を撤去して土地のかさ上げがようやく始まった所でした。
そこの地盤が整ったらその後ろにある「復幸マルシェ」のあたりの地盤整備が始まる訳です。
移転先は決まったようですが、結局は移転先も仮設店舗です。
そんな彼ですが、へこたれずに被災を免れた内陸地域の開拓も視野に入れているようでした。
もっとも一人では店を切り盛りしながら新店舗を開拓するのはほぼ無理です。
彼に必要なのは資金よりも店を手伝ってくれる仲間でしょう。
今のところ、店の客だった子が学校を卒業したりして手伝ってくれる事もあるようですが、もっと店舗運営の経験と知識が豊富な人物の協力が必要でしょう。
次に南町紫市場で寿司屋をやっている同級生を訪ねました。
先の鹿折地区が気仙沼のベッドタウンだとしたら、南町があるあたりが魚市場や船着場がある、いわゆる「気仙沼」らしい所に隣接し多くの店舗があった所です。
そこの商店街が集まった仮設店舗は近隣地区を見てもかなり大きい規模で、気仙沼ってこんなにいろいろな店があったのかと再認識させられ、それらを回るだけでも充分に一日楽しめます。
震災後、ここに彼らが寿司屋を出店したのは早くから知っていたのですが縁が深い鹿折方面で手一杯で「気仙沼市内」を散策できたのは実は今回が初めてでした。
時間がお昼時になってしまったので仕事の邪魔になってはいけないと思いあまり話しかけませんでしたが、手が空いた時に互いにこれまでの事やこれからの事を少し話しました。
この地区もかさ上げされるため、仮設商店街は解散するそうです。
その後、再集合するのかなど具体的な話は未定のようです。
この店には土木作業に従事している人も食べに来るようでよく話がでるようですが、とにかく市の計画が遅く、実際の作業はもっと早く出来るのに、という事でした。
役所の方も全国から応援の人材が来ていますが慢性的な人手不足な上に計画の青写真を描ける人材が辞めてしまったため、なかなか計画が進まないようです。
自分が宿泊した仮設住宅でもまだ出て行く先も未定だという人が何人も居ました。
阪神大震災では三年で仮設住宅を出られた人が半数だったそうですが、今回の東日本大震災では全仮設入居者の八割が仮設住宅に住んでおり、土地を線引きしなおしたりする難しさが現れています。
更に建築資材や人件費の高騰が復興事業だけでなく全国的な国土強靭化計画や東京オリンピック関連の開発事業によって今後ますます拍車が掛かることが予想され、移転先が決まっていても頭が痛い問題です。
この日、さらに空いた時間を利用して隣接の陸前高田市へ足を伸ばしました。
気仙沼には無くなった映画館に行ったり、高田松原に遊びに行ったりした所ですが、当時の面影を残すのは「奇跡の一本松」として知られる松が一本残るだけでした。
当初は復興の希望として期待されていましたが、海水を浴びたために枯れてしまうと、モニュメントとして保存される事になり、その費用が一億五千万円もかかり、しかも最初は一本松の堂々とした枝振りとは別物になってしまい作り直したという事で全国から批判の声があがりました。
しかし、その批判も「そんな事のために寄付や復興税を取られるのはおかしい」とか「そんな金があるなら被災者に配れ」という的外れなものが多いように思います。
一億五千万円が妥当かどうかはともかく、その費用の多くはこの保存プロジェクトに賛同した方の寄付金が充てられています。
気仙沼では打ち上げられた漁船を解体してしまうと「観光客」は1/10になったそうです。
三年も経っていつまでも「震災観光」に頼ることは出来ませんが、少なくともその地に起こった事を語り継ぐも何かは必要ではないかと思っています。
七万本の松林を知らない人には単に松のレプリカが一本あるだけにしか見えませんが、やはりこの目でみて見たいと思っていました。
しかし沿岸部のどこもそうであるように、土砂を積んだ復興事業に従事するダンプカーが往来しており、かつての「被災地」も工事現場の只中にあるような、なかなか観光にはオススメしにくい状況になっています。
なじみのあるはずの高田松原も津波や復興工事ですっかり地形が変わっていてすぐには分かりませんでした。
それにも増して驚いたのは東浜街道から市街地が一望できる場所に出ると隣接の山から海岸のかさ上げ地まで土砂運搬専用の巨大ベルトコンベアが設置されており、工場萌えのようなスペクタクルで今やこちらの方が見物に感じられるのはなんとも皮肉な話です。
土地を削った高台に住民が移転し、その土砂で元の町をかさ上げして商業施設などに利用する計画だそうで、工事が遅々として進まない気仙沼とは大きな違いを見せていました。

しかし、その工事も地権者との交渉がまとまっておらず、このままではベルトコンベア稼動から数ヶ月で工事が止まってしまうそうです。
やはりここでも地権者と交渉する市の担当者が圧倒的に不足しているようです。
復興に時間をかける、時間が掛かるのは仕方ないですが、問題はその時間の掛け方でしょう。
住民と行政が話を詰めるのに時間が掛かっているなら分かりますが、単に人手不足というのではお話になりません。
「三年もあって何をやっていたんだ」
被災地を回るとそんな怒りの声をあちこちで聞きます。
そんな事情を知ってか知らずか、一本松はそのコンベアの傍らに追いやられて海風に立っていました。