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2018年02月12日 イイね!

東北道 冬の荒天の東北路

三連休の前半は気仙沼に行っていました。

これまで母が入院している病院の洗濯物や消耗品補充は車で1時間半くらいの所に住んでいる従姉にお願いしていたのですが、従姉の父、つまり伯父が先週亡くなったばかりですので、病院の用事はこちらでやる事にしました。

金曜の仕事上がりで東京を出発します。

下道がどうなっているか分からないので今回も東北道から仙台で三陸道にスイッチします。

交通量は三連休の入り口なのでちょっと多いようで、こういう時は注意が必要です。

ETC休日割引きになるように有料道路を出るのが日付を跨いで土曜になるように出発時間や巡航速度を調整しましたが、途中から濃霧に見舞われます。


50km/hで走るのも怖いくらいですが、遅いと今度は後続車に追突されそうですのでなるべく急ぎます。

三陸道の二車線区間までは良かったのですが、一車線区間になってから80km/h規制のところ60km/hも出ていない車に延々抑えられます。

霧も晴れて路面も凍っていないのでもう少し出して欲しい所です。

結局、三陸道を降りて気仙沼に向かう一般道でもこの車に抑えられて気仙沼到着は深夜2時。

追いつかれている時点で後続車の方が速いので譲ればよい物を、なぜかこの車、センターラインを割ったりして全く譲ってくれませんでしたので、急いではいませんが速度が一定じゃなかったり挙動を見てるとずっと絡んでいると危ない予感がしたので多少リスキーですが対向車が途切れたカーブでアウト側から先に行かせてもらいました。

高速燃費は三陸道までは85km/h、そこから霧までは80km/h巡行での燃費は22.4km/L。


土曜日。

先週、伯父が亡くなった伯母と葬儀のアドバイスをしてもらった親戚に挨拶に行きます。
病院はインフルエンザ予防で面会できないので急ぎの用事も無いし、東京に戻る時に寄る事にします。

まず「本家」に行くと、家人はほぼ外出しており、伯母さん一人で留守番でした。

ここのハトコ(?)が親戚の行事を取り仕切っていた亡くなった伯父に代わって行事を取りまとめていましたので大抵の事は「本家」に聞けばわかると言うか、自分らには分からない事をやってもらっています。

伯父が救急搬送された日とか昔の事とか、そういった話を聞いた後伯母の方に向かいます。

伯父の家に行くと叔母がストーブに灯油を給油する所でした。
部屋に上がると、伯父がいつも座っていた座椅子もそのままで今にもトイレか買い物からひょっこり帰って来そうなそんな雰囲気でした。

伯母からも当日の様子とか亡くなった日の事とか聞きました。

伯父が倒れてから家族はもちろん、親戚や近所の人が出入りして、気を張っていたのがそろそろ緩んで疲れも出る頃なので、夕方には退散して再び「本家」へ。

外出していた家人も帰って来ており、そのまま晩御飯をご馳走になってきました。

孫も結婚して戻ってきており、三世代が一つのテーブルを囲むにぎわった晩御飯でした。

伯母の方は一人で晩御飯を食べているんだかどうだか、非常に寂しい時間を過ごしていると思います。
もっともこちらも親を一人で置いておけないという事で伯父の件が落ち着いたら従姉が連れていく事になっていますので、あちらに行けば孫娘も同居しているので三世帯同居になります。

伯母本人は嫁いでから半世紀以上も暮らしてきた家から離れるのは嫌な様子でしたが、逆にこの家に居たら何を見ても思い出してしまうので、慣れない土地ではあっても環境を変えるのが良いかと思います。

本家での夕食後は小学校の閉校時に卒業生全員に配られたアルバムを見ながら誰がどうのという時間を時間を過ごします。

当然、ウチの母親も載っていて旧制学校から現在の学校になった時の第一回生という事で卒業生の一番最初の項に載っていました。

母の母は早くに亡くなったので終戦後はいろんな家に出されていたそうで、本当に苦労を背負い込む人だな、と思いながら帰って来ました。

気仙沼に購入した自宅はいろいろ揃えて住む体裁になってきましたが五部屋ある所に独りで帰って来るとやはり寂しいものがあります。

親戚の夕食の賑わいにすっかり中てられて、嫁は要らないけど可愛くて懐いてくれる子供や孫は欲しいなぁと。誰かくれませんかね?
母が亡くなったら自分の生命保険の受取人とか誰にしたらいいのやら。


日曜日。

東京に戻るべく、荷物を車に積み込もうとすると突風と共に雨や雪が降ってきます。
雨の合間に荷物を積み込んで、火の始末と水道の水抜きをしたら出発します。

雨は断続的に降ったり止んだリで工事車両が行き交っている気仙沼の道路は泥だからです。


途中で、病院から言われた消耗品をドラッグストアで購入していきます。

登米市に入った所で例の黒いアヴェンタドールとすれ違いました。(ドラレコには残ってませんでした)
同級生らも気仙沼で何度も遭遇しているようですが、自分は登米市で遭遇する方が多いのでやはり登米の車両ではないかと思います。

もし気仙沼から仙台に行くなら三陸道が便利ですからね。
もっとも、どういった理由で登米市と気仙沼市を行き来しているのかは分かりません。


病院で面会受付に日用品届を申請して東京で洗濯してきたものと一緒にナースステーションに渡して帰って来ます。
インフルエンザは先週よりも拡大しているので今回も面会は叶わず。

先週のうちに主治医から電話で報告があり、胃ろうが逆流して肺炎になっているので胃ろうを打ち切るとの事。
その後は点滴での栄養補給になりますが、そうなると余命はあと数か月との見立てでした。

もっとも伯父の時も医者があと2、3日と言ったその日に亡くなってしまったので母も急に亡くなるという事はあるかもしれませんし半年くらい生きるかもしれません。

これは積極的にコントロールしないなら運任せという事になります。

日本では家族や医者は寝たきりになっても延命させる事を優先しますが、海外では意識があるうちに患者の希望があれば栄養を止めて「自然死」を選択する事も多いそうです。

医者からの連絡を受けて登米市内の病院よりは少しでも気仙沼に近い所という事で南三陸町の療養病院に転院の希望を出しておきました。

もっとも、ここも順番待ちなのと海外のようなターミナルケアをやるというより亡くなるまで寝かしつけておくだけの所なのでしょうけど、亡くなるにしても登米よりは葬儀をやる気仙沼に近い方が何かと良いかと思います。

以前に一時入っていた陸前高田の療養病院では県が違うので手続き等も面倒でしたので宮城県内でれば基本的に同一の手続きで済むかと思います。何よりあそこは親戚や見舞客の評判が良くありませんでした。

ただあの病院に入っていた時に一番意識が覚醒していて会話できたり、一節くらい歌ったりもしていたそうです。
あと夢か幻か、「幽霊」を見たとか言っていました。


気仙沼にはそういう役割りの病院が無いのが大きな問題で困った困ったばかりで誰もそこを修正しようとしないのが流石イエスマンばかりの田舎議会といった所。

登米市の病院から東北道に向かうとどうも雲行きが怪しくなります。


日没前になんとか交通の難所である国見峠を超えたいと思っていたのですが、吹雪のようになってきてそのまま国見峠で日没を迎えます。


流れも自主的に60km/h程度になっています。

ようやく吹雪を抜けて関東に入った所で今度は事故渋滞です。


10キロ50分とか書いてあって萎えますが、帰らない訳にはいかないのでその渋滞の隊列に加わります。

事故処理自体は終わっているようですが、事故現場と思しき箇所を通過しても一向に速度回復しません。そのまま行くと、どうも連鎖事故が起きたようで今度は車線規制も出ていました。


結局、渋滞を抜けるのに50分も掛かり、吹雪と連鎖事故渋滞で燃費どころではありませんでしたが、高速燃費は22.1km/Lと荒れた展開にしてはまぁまぁでした。


給油、洗車して駐車場にFitを戻したのは深夜0時近くになってしまい、今回はかなり疲れました。

東京の生活も崩壊しつつあり、三連休の最終日である今日は一日ダラダラして過ごそうと思います。
Posted at 2018/02/12 14:28:17 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2018年02月05日 イイね!

気仙沼行 叔父の死去、葬儀

年末からほぼ毎週末、気仙沼に行っていたので今週は久しぶりに東京でゆっくり過ごそう、そんな風に考えていました。

母の面倒をみてもらっている従姉とはショートメールで日に何回か容態や病院の消耗品購入などでやりとりしていました。

1月30日の昼にショートメールが来ていました。いつもは従姉が仕事を終えた夕方に来るのでおかしいな、と思いながらも昼休みに確認すると叔父、つまり母の兄が大動脈瘤破裂で仙台の病院に救急搬送されたという事でした。

循環器系の権威が居るという病院です。

叔父は数年前から大動脈瘤があったのですが、手術はできないという事で手が施せない状態でした。
それなのに、あの大雪の日に雪かきをしていて倒れたのだそうです。

1月31日。
叔父は気仙沼の市立病院に戻される事になりました。循環器系の権威が匙を投げたという事で、意識はしっかりしていますが手の施しようがなく、もう助ける手段が無いそうです。

生憎、2月から別の部署に異動になる初日なので休みを取る訳にもいかず、週末に気仙沼に行くことにしていました。

2月2日。
そろそろ仕事を切り上げようと思っていた頃、従姉から容態が思わしくなく個室治療になったとの連絡があり、急いで帰宅して車に荷物を積み込み終わった時、「今、天国へ旅立ちました」とのメッセージが入りました。

意識はあると書いてあり、大変な時に電話するのも躊躇われたのでショートメッセージだけで連絡していたのですが、容態が急変したようでした。

通信、交通が不便な時代ならともかく、これだけ密に連絡をもらっていたのに間に合わず、申し訳ない気持ちでした。とりあえずこちらで他の親戚に連絡してから気仙沼に向かいました。


前回同様、常磐道で行こうと思っていたのですが考え事をしていていつもの東北道に乗ってしまいました。
三郷JCTの渋滞と常磐道の一車線区間を迂回したと考え直し、仙台付近で仙台東部道路に乗りかえ、三陸道で気仙沼に向かいます。

とても寒く東北道は85km/h、三陸道は90km/hでの燃費は21.2km/L。


三陸道は気仙沼の二つくらい手前の津谷ICまで開通していますのでそこから下道になります。
途中から降り始めた雨はやがてボタン雪と大雨が混じったようになり視界不良でした。


そのまま東北道で行っていたら、岩手県内陸から気仙沼に入るので大変な事になっているだろうな、と思います。
後で聞くと同じ頃、そのルートで荷物を取って来た従姉の家族はやはり大変な状況だったそうです。

深夜二時に気仙沼に到着。荷物を降ろして寝ます。

叔父の遺体は病院から市内の斎場に運ばれたそうです。

2月3日。
昨晩からの雨が残っていましたが、明け方、「パーン!バリバリ」という雷が至近距離に落ちる音で起こされました。夢かと思ったのですが、山に残響音が響いているのがまだ聞こえます。

不思議な事に雷はその一回だけで、後で集まった親類に聞いても誰も聞いていませんでした。
叔父が起こしに来たのか?不思議な雷鳴でした。

納棺が13時になったので、他の親戚とは12時頃集まるとの事でしたが、一足先に行ってみました。

震災後に亡くなった同級生の墓が近くの寺にあり、道は分かりますが斎場に入った事はありませんでした。

斎場の人に遺体安置の部屋を聞いて行ってみると叔父が寝かされているだけで、誰も居ませんでした。

線香を上げてしばらく叔父と二人で居りましたがやがて従姉がやってきました。
連絡をもらっていたのに間に合わなかった事を謝ると「急だったからね」と言ってくれました。

詳しい病状は叔父には伏せていたようですが、家族は覚悟はしていて、叔父本人もよく「順番からしたら(母より)俺の方が先だから」とか「次、倒れたら俺は終わりだから」と言っていましたので分かっていたのかもしれません。

そうですよね、ともそんな事ないですとも言いにくく毎回う~ん、となっていたのですが、それもあって、なるべく叔父の方には顔を出すようにしていました。

小さい頃、東京や神奈川で育った自分には故郷と言う物がなく、親戚の集まりや旅行があると車で気仙沼から迎えに来てくれる「気仙沼のおんちゃん」で、この人の話を聞いて東北弁を聞き取れるようになりました。

もっとも、叔父は若い頃は東京でも働いていたので若干標準語ナイズドの東北弁だったので聞き取りやすかったのかもしれません。
それより上の世代の「ズーズー弁」については一部は聞き取れませんので。

母とはいろいろあって、特に震災後は不仲になってしまいました。
もっとも双方から話を聞いている自分からしたら「どっちもどっち」の兄妹喧嘩です。

それでも叔父は自分は可愛がってくれて「気仙沼にいる間は自分の家だと思っていいからご飯を食べて泊っていけ」とよく言ってくれましたが、飽くまで別世帯なので、それは辞退していました。

今からして思うと、叔父の長男は高校を出てからは家に寄りつかず、婿に入ってしまい殆ど帰って来なかったようなので寂しかったのかもしれません。

最後に会ったのは先月の親戚回りの時で、やはり泊まっていけ、と言われましたが自炊の用意をしてきたのでと帰ってきました。

家屋の話は何度も聞いていますが昔、駅前にあった家を建て替えると言うので古い家屋を叔父が買い取り、今の場所に移築したものでした。

壁や床は直してあるけど、柱はそのままだから百年くらい経ってる、と言っていたのが印象に残っています。

やがて知らせを受けた親類縁者が駆け付けましたが遺体安置されていた部屋が6畳くらいの控室みたいな部屋で、全員が入れない所に和尚が来て読経して、棺を運び込んでくるものだから狭くて身動きも取れませんでした。
やがて最後の旅支度を親族でしてくれと言うので、足袋の紐を掛けたりしました。

身近な人の死に接したのはこれが初めてでした。
というのも親類は20代、30代に亡くなった人以外は今も70、80代で健在だから、幸か不幸かこれまでこういう事をしたことがありません。

まぁ斎場の人も慣れたもので、いろいろ教えてもらいながらなんとか棺に納めました。

誰か残る、いわゆる「寝ずの番」をするのかと思ったら皆帰ってしまいます。
親族は誰を呼ぶとか、そういう打ち合わせを斎場の人としていました。

自分は家族ではないので何かを決める立場ではないので聞き耳を立ていました。
いずれそう遠くない時に自分もこれをやらなきゃならいですから。

祭壇やら遺影やらも決まり、その日は解散となりました。やっぱり帰るんだ。

もっとも最近は線香を絶やさないように寝ずの番は施設の人任せが殆どだそうです。

昔は医療もお粗末だったので死んだと思った人が息を吹き返す事もあったので、それに備えて誰かが一晩付いている意味もあったそうですが、現代では死亡判定がほぼ決定的となっているのでその必要が無いのと、やはり遺族の負担を減らすという事で長時間かかって燃える線香もあります。

2月4日。
通夜。
地方や宗派によっても違うかと思いますが、朝8時半に集合し火葬場で荼毘に付します。

ところが今、気仙沼の火葬場は改装中で周辺の自治体で分担しています。

年寄りらには「死ぬのも並んで待つようだ」というブラックジョークになっています。

自分たちが向かったのは隣の本吉郡の火葬場。
数日前、叔父の訃報を聞き走ってきた道、そして登米市の母の施設や病院に向かう時に行く道路で向かいます。

遺体が灰になるのに1時間半くらいでしょうか。
あの箸でお骨を摘まんで骨壺に入れるのを親族としてやりましたが、なんだか実感がわきません。

頭では叔父が亡くなって、この骨がそれだと言うのは分かっているんですが。

死と言うのは動物も人間も差が無いと、つまり体が生命を維持できなくなって活動を止めるという現象は同じでも、動物と人間の死が決定的に違うのは、火葬や埋葬に許可が要るとかいうのは置いておいて、やはり残された人々の心というものでしょうか。

ここに集まっている数十人の親戚、殆どは誰だか分かりませんし、数十年ぶりに見かける人も居ますが、それぞれの中に叔父が居て、あーだったこうだったと語らい合っています。

もちろんペットなら買い主は思い出も沢山ありますがそれを共有できる人はごく僅かです。

人一人、数十年生きて来て、これだけの関係ができるという事、それが生きるということなのかもしれません。そんな事を考えながら帰りのバスに揺られます。

お骨を拾う事を最後まで拒んだ叔母は何を思うのか。

斎場に戻って来ると、叔父の通夜会場が設えられていました。
そこに遺影と骨壺を安置し、読経してもらい通夜となります。

知らせを受けた人が次々と弔問にやってきます。

自分はなぜか親類の若いのに混じって受け付け担当。
この年にしてまだ若手で通用するのか単に人手が足りないのか、そういう親戚関係のポジションなのか分かりませんが、来た人に記帳してもらい拝んでもらいました。

お返しの品が100近く出たので、けっこうな数の人が来ていたようです。

中にはいつも母の見舞いに来てくれている母の幼馴染も居ました。
叔父とは面識がなかったか特に仲が良かったという事は無かったでしょうけど、義理硬い人達で泣けてきます。

高校の時は応援団に居た事もあるので1時間くらい立ったままでも平気ですが、妙に疲れた日でした。

夜は水道が凍結していると思っていたのが、よくよく調べてみるとフィルターが目詰まりしていただけと判明したので掃除して浄水器を取り付けたり、勢いの弱いシャワーヘッドを大型のものに取り換えたりしていました。

寝る前に大叔母繋がりの人で叔父の事を知っている人に母の近況を兼ねた叔父の訃報のお知らせ
の手紙を書いて寝ます。

2月5日。
葬儀。

11時から葬儀となるので親族は10時半集合。
時間まで昨日のように受付をしていました。

やがて和尚が来て葬儀が始まり、親族から順番に焼香となります。
納棺の日からなんどもやっているので、線香の匂いが鼻についてちょっとおかしな感じです。

元防衛大臣 小野寺五典氏から弔電が来ていたのはびっくり。
勿論本人ではなく地元事務所のスタッフがやってるのですが、そりゃ選挙に勝つ訳だ。

やがて喪主の挨拶の後、孫からのお別れの言葉がありました。

一番可愛がられていた孫娘が涙をこらえ声を詰まらせながら「じいちゃん」との思い出を読み上げると、会場のあちこちから鼻をすする音が聞こえてきます。あれは反則だな。

孫娘は叔父が亡くなる当日は仕事でしたが、虫の知らせか、単に次は土日で繋げて一緒にいられるという事か、休みを取って病院に来ていました。

頼りにしていた娘、つまり従姉も居たので安心したのかそれほど苦しまずに急に息を引き取ったそうです。

それでも叔母が「じいさんもっと話すらい(しなさい)」と言うと三度ほど息を吹き返したそうです。

自分も猫の臨終に声を掛けたら二回ほど息を吹き返しましたが、それ以上は可哀想でできませんでしたので叔父の臨終は見ていませんが、なんとなく想像はつきます。

忌中払いという事で食事が出されますが、味とか覚えていません。

叔母や従姉らには挨拶して母には叔父の事は伏せておきたいと伝え、喪主の長男夫婦にお別れを告げて帰ってきました。

そこから着替えて荷物を車に積み込んで登米市の母親が入院している病院に向かいます。

これまで「比較的家が近い」という事で従姉に母の身の回りの洗濯物や消耗品の補充をお願いしていたのですが、この状況でさすがにそれはできませんので今後は自分が東京から出て来てやる事にします。

で、病院から連絡されていたタオルなんかを持っていきます。そんなのは施設に入る時に10日分もそろえてあるので幾らでもあります。

他にもいろいろ足りないとの事で、事前に分かっていればドラッグストアなんかで買って持参したのですが、今らか東京に帰ろうかという自分には時間がもったいなので病院の売店で購入して揃え持ってきました。

病院はインフルエンザ予防で面会制限という事で病室には入れませんでしたが、廊下から顔だけ見て帰ってきました。

なんでもまた熱を出したそうですが、いちおう入浴を再開したそうです。

心配している親戚の小母に電話して母の様子を伝え、後は叔父の事などを話して東京に向けて出発します。

日没から那須高原まで外気温は氷点下で途中から雪が降り始めます。


85~90km/hで高速燃費は22.4km/L。


道中MP3プレイヤーで好きな曲ばかり入れているのを聞いていますが、今回は一度も歌う事なく帰ってきました。

叔父の葬儀を見てウチは家族葬で行こうと決めました。
Posted at 2018/02/06 01:57:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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「今日車検出してきたけど車検時の法定費用先払い、今は後払いになってた。
一回で済むならそれに越したことはないけど用意してた現金を口座の方に戻しておかないと。」
何シテル?   06/14 22:03
ネコとキャブを愛でるのが趣味の低年式オッサンです。
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