10日から14日まで気仙沼に行っていました。
母が入院していた登米市の病院の主治医から点滴を受け付けなくなっており余命一週間との連絡があり、急きょ休暇届を出して気仙沼に向かったのですが最終的な手段として首や足の太い血管から直接投薬する方法が残されているという事でそれを試してもらうようにお願いしていました。
週末までに仕事の方を片付けて土曜の午前中に気仙沼に向かいました。
東北道で病院に近い築館ICまで行きます。
北上するにつれて空は晴れますが、風が強くなってきます。
気温はもう初夏というくらいでしたが高速道路での燃費は22.5km/L。
病院に着くと相変わらずインフルエンザ予防の面会制限が続いています。
電話で聞いていたように点滴で入れた水分を体が受け付けず、手足がパンパンに腫れていました。
前に飼っていた猫も自宅で皮下輸液してましたが最期は手足が腫れてしまって、そこから長くなかったので医師が言って来たように余命一週間といった感じに見えました。
とりあえず親類などにもう長くないようですと見て来た状況を電話で報告して気仙沼に向かいます。
明けて日曜日。
この日は3月11日で東日本大震災発生から7年目という事で気仙沼も朝から防災無線で案内があったり特別な感じの一日でした。
自分も体調が今一つ回復していないので気仙沼の自宅で一日を過ごします。
夜は気仙沼湾でライトアップしているのが自宅からも見えました。
治りかけの風邪がぶり返してきたので薬局で薬を買って来ます。
翌月曜日。
この日は医師との面談があるので登米市の病院に向かいます。
説明によると病院として出来ることは全てやった。
太い血管からの投薬で一週間ほど熱は落ち着き、血液から検出された雑菌も検出されていないという事でした。
ただ、発熱を繰り返して栄養を入れられていないので相当消耗しているので、いつ亡くなってもおかしくないし、それは数か月後になるかもしれない、なんとも申し上げられないとの事でした。
とりあえず、もう長くないようなら面会して合わせたい人が居るので、その人達だけでも面会できるようにできないかお願いしたのと、熱が落ち着いているので気仙沼に近い志津川の病院に転院する話を進めてもらうようにお願いして帰って来ました。
母の方は話しかけると返事をする代わりに「はぁ~~」っと長い溜息をついて、その息の長さから「ご苦労さん」とか言いたいんだろうなと、やはり長くないと思わせる感じでした。
どうする事もできないという暗澹たる気持ちで気仙沼に帰ります。
その足で心配している親戚に回って状況を説明してきます。
自分が風邪気味なのと夕食前なので早々に退散します。
翌火曜日。
この日は、お墓の相談で寺を回ります。
事前には電話で住職に話をして気仙沼の親戚からも話をしてもらったりしたのですが、やはり性質上、直接出向いて挨拶する必要があるかと思いますので親戚と寺で待ち合せます。
普通であれば、菩提寺というのがあって、自分が亡くなった後の墓があったりするのですが、母の場合、離婚後苗字を旧姓に戻していなかったので、直接入れる墓というのがありません。
筋からすれば先月亡くなった伯父と同じ墓に入る事になるのですが、生前の叔父と母は仲違いしたままだったのと、母が倒れる前に他家ですが大叔母の墓に入りたいという希望を聞いていたのでそれが可能かどうか確認する必要がありました。
電話では大叔母の墓の寺の住職は新しく檀家を取る予定は無いので別の墓を建てることはできないが既にある墓に納骨する事は、反対者がいなければ問題ないという事でした。
自分が知る限り、反対していたのは先月亡くなった伯父だけなので、一応要件はクリアしています。
ただ納骨だけで葬儀や戒名(法名)はお断りします、という事だったので、今度はそれを受けてくれるお寺を探さなくてはなりません。
母が入会していた葬儀社の互助会があったのでそちらに問い合わせると、特に住職の斡旋などはやっていないので葬儀を引き受けてくれる住職を決めてください、という事でした。
親戚などに相談してやはり伯父の葬儀をやってくれたお寺にお願いするしかないという事で、事前に話を聞いてもらったところ、引き受けるけど、先方のお寺が埋葬許可証を受け取らないと困った事になるのでそれは確認して欲しいという事でした。
とりあえず、このお寺の住職に挨拶に伺います。
住職にこちらの状況を説明すると普通の葬儀と同じだからお引き受けしますが、お墓の事は確認してください、という事でした。
同伴の親戚と、では納骨を引き受けてくれると言っているお寺に行こうという事で、そちらの寺で待ち合せます。
寺に着くと丁度電話で話をした住職が居たので、同じ話をして、やはり電話の話のように反対者が無ければ納骨はお受けしますが葬儀はお断りします、という事でした。
面倒くさいですが、なんとか話はまとまったかな、という事で親戚と別れていよいよ葬儀社に葬儀の相談に行こうかとすると登米市の病院から電話が掛かって来て、転院の件、急きょ明日、明後日でどうでしょうか、という事でした。
母の容態が安定しているので葬儀社と打ち合わせしたら東京に戻る予定だったのですが、明日転院という事でお願いして葬儀社の方は回る時間が無いので行かない事にしました。
その前に、大叔母に報告がてらお彼岸前ですが花を供えてきました。
転院当日はバタバタしてしまうのは経験済みなので今日のうちに入院費の清算や転院時の着替えを届けに登米市に向かい、退院手続きを済ませて使わない私物を持って帰って来ました。
翌水曜日。
転院先の病院には朝10時に到着して欲しいという事で登米市の病院は9時出発になるので気仙沼は朝7時に出ないと間に合いません。
早朝に目が覚めてしまい目不足ですが寝過ごさずに出発できました。
結局、気仙沼の親戚も付き添いで来てしまいました。
登米市の病院を出発して三陸道の登米ICから南三陸の最寄りの病院ICで降ります。
病院の名称や住所がカーナビで出なかったのですが、介護保険施設の申し込みで何度か来た場所の途中の病院でした。
この病院は東日本大震災で被災したのですが、今の高台に再建されたもので高度な治療は出来ませんが地域に無くなっていた地域総合医療を期待されています。
台湾の皆さん、ありがとうございます。
病院は新しいだけあって設備も最新で、ネームプレートも紙やテープにマジック書きではなくディスプレイ画面表示になっています。
増築に増築を重ね老朽化著しい気仙沼の多くの病院とは全く違い、広いのもありますが明り取りの窓が多くあるので病院内が明るく見えます。
それに加え、スタッフも熱心な感じで親類などの評判も良く、自分もこれまで見た病院や介護保険施設の中でも最も良い印象です。
病室が決まったので、面会制限で会えなかった母の幼馴染という人達に電話すると、今さっき退院してきた登米市の病院に着いたところだとの事でした。
事前に連絡してしまうと早朝からご足労いただく事になりかねないので病室が決まったら知らせようと思っていたのですが行き違いになってしまいました。
とりあえず昨日急に転院が決まった事を詫び、こちらに来てもらう事にしました。
病院の方は入院手続きの他に家族からの聞き取りなどもありまだまだ時間が掛かります。
付き添いで来てもらっている義伯母と従姉、親戚に食べ物や飲み物を買ってきて、待ってもらっている間に食べてもらい、聞き取りに応じていると丁度担当医が居るので面談する事になりました。
前の病院で受けた説明、やる事はやって余命一週間だが治療がうまくいって容態は安定したのでいつまで生きるかわからないといった話をしました。
担当医は申し送りを見ながら不明な点を聞いてきますが、やはり文書だけだときちんと伝わっていない事も多いようでした。
ただこの医師は前の病院で胃ろうも点滴も受け付けなくなったという部分について、鼻腔から小腸に直接栄養を入れることもできるので、本当に胃ろうを受け付けないのか検査してみたい、という話でした。
本人の状態が改善する可能性があるならもちろん反対する処ではありませんのでお願いしました。
そうこうしているうちに先程連絡した母の幼馴染という人達が到着したので病室に行ってもらいました。
残った親類と待合所で病院とか震災とかそんな話をしていると、「喋ったよ!」と幼馴染が戻ってきました。
親類一同「え~!!」と仰天。
なんせ誰が話しかけてもここ数週間「はぁ~~」とため息でしか返事をしなかったのに喋ったとは?
いつもしているように「おはよう」と話しかけると「おはよう」と返したそうです。
そして「良くなって美味しい物食べに行こうね」と言うと「おいしいものってなに?」と言ったそうです。
美人さんだねというと少し笑ったようでした。
母が物心つく前からですから、自分よりもはるかに長い付き合いの人達はやはり母にとって力を与える特別な存在なのでしょう。
それだけでも前の病院から移して面会させられた甲斐があったというものです。
少し近くなったとはいえ遠路はるばる気仙沼から来てくれた母の幼馴染にお礼を言い、朝から来ていた親戚も帰ると言うので見送って、医師の作成した書類を待っていたのですが、後日になるという事なので自分も病院を後にします。
こういう事ならもっと早く転院させておくと言うか最初からこの病院に入院させればよかったという念と、ようやく面会させてやることが出来たという気持ちで三陸道から常磐道経由で東京を目指します。
東京到着予定は20時。
最後の力を振り絞って喋った可能性も無くはないですが、これで良い方向に向かうと良いな、とこれまでのような暗澹たる帰路とは違い、少し希望の光が見えたような気がして運転していると、追い越していった車から飛んできた何かが「バシ!」とフロントガラスにヒットしたのが見えました。
最初は埃が付着したのかな、と思ってよくよく見るとひびが入って割れていました。
はぁ~、一年くらい前にやはり常磐道で追い越していった車からの飛び石でフロントガラスを交換したばかりでしたが、また同じような事になってしまい、先ほどまでに少し明るかった気持ちもどんよりです。
さっきまで一車線区間での後続車との距離関係や燃費を考えて巡航速度を考えていたのとか一気にどうでもよくなってしまいました。
何かが好転しはじめると何かが足を引っ張るのは自分の人生で常について回る性です。
まぁ浮かれて調子にのるなよと車が災禍を引き受けてくれたものと気を取り直して東京を目指します。
どうでも良くなった高速燃費は24.5km/Lでした。
いつものように給油後、洗車して駐車場に戻します。
洗車してガラスが綺麗になったらヒビは少し目立たなくなりました。