
※この記事は2016/7に上げたモノの改訂版です。
悲惨な敗戦から僅か20数年で急成長した日本、その繁栄に酔いしれる人々は豊かになった経済の中、“3種の神器”と言われたその一つである車=CARに対する思い入れは相当なモノがあり60年代中頃から憧れ→現実へと庶民に車が“道具”として本格的に浸透したのが70年代でした。
70年には大阪にて万国博覧会が華々しく開催、私もこの時の盛り上がりは子供ながら強く感じ今でもその日本の盛り上がる雰囲気と明るさはハッキリと記憶しております!
10年間、前半は60年代から引き継ぐ留まるところがない成長を果たす車業界、しかしこの10年は60年代のようにイケイケどんどんという時代ではなく予想を上回る自動車台数に比例して様々な問題が発生、2回に渡るOILショック、社会問題となった公害に対し世界一厳しい排ガス規制の励行等、60年代の“産めよ増やせよ”と右肩上がりの発展という訳には行かず各メーカー、直面した課題に足踏みを余技なくされ一時は日本のモータリゼーションに暗雲が立ち込め暗く、展望がない時期もありました…
しかしそんな問題に全身全霊で立ち向かい課題を乗り越えた事が技術水準を高め後半には世界一クリーンで高性能な日本車は世界各国で注目を集める存在となり次世代(80年代)には貿易摩擦という問題まで起こる程の威力を持つモノとなりました。
逆境から世界一までという60年代にも引けを取らない70年代の日本車、私が知る50年の歴史の中で色んな意味で激動だったこの時代のクルマ、早速振り返ってみましょう!
定義としては一度でも乗用車を生産した国産メーカーが対象、従ってこれの経験がないUDトラックス(日産ディーゼル)は除きますし二輪オンリー(川崎重工、ヤマハ発動機)も同様。
また乗用メーカーであっても60年代以前、前後に倒産、吸収、消滅しているメーカー(プリンス、オオタ、NJ、オカムラ、愛知機械等)や60年代に乗用撤退したメーカー(日野)も対象外、ベースモデルが他社となる光岡も同様ですので宜しくお願いします!
※長文になるので前編/後編に分けています。
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(トヨタ)
60年代に安定の人気を果たしたトヨタ、既にシュア1位、50%に届くシュア等で盤石な地位を築いたのが70年代でした。
初代パブリカで国民車構想に応えこれを発展させたカローラでマイカーブームを牽引、そのカローラを更に育て世界戦略車に成長させ莫大な利益をもたらすモノとし国内ではどこの家庭にもカローラがある、それが当たり前の光景でもありました。
↓69年から国内販売No1の座を明け渡さないドル箱に成長したカローラ!
そして60年代に学んだワイドレンジ、ワイドバリェーションによるユーザーニーズに的確に応える布陣で車種ラインナップを更に充実、幅広いクラスに万編なくランナップする事による“グレードアップ”戦略をし敷設、パブリカのユーザーをカローラに、カローラのユーザーは更にその上のクラスに誘導、成長するのみと信じられていた時代にマッチするこの作戦は大成果を得、現在に見られる1強時代の基礎を築いたのが70年代のトヨタでした!
これに合わせ割賦販売(ローン)の普及にも積極的に取り組み若年層にも気軽にクルマを持てる環境を整備、ソフト、ハード面からクルマを欲しい!という欲求に応える努力は相当なモノで“販売のトヨタ”の名に恥じない展開をします。
このグレードアップ作戦により様々な新車種もリリース、カローラ〜コロナ間を産めるカリーナ、そしてこれをベースとする新ジャンルのスペシャリティーであるセリカ等のリリースは1億総中流意識、若年層に訴求するリーズナブルなスポーツモデルの提供は時代にマッチ、トヨタファンを大幅に拡大しました。
↓若いファミリー層に大きな支持を受けた初代カリーナ
↓カリーナをベースにスポーティ要素を加味、安価でスポーツカーの走りを提供したセリカ!
70年代初頭は60年代から引き継ぐスポーツカーブームにもきめ細かく対応、その筆頭がセリカでトヨタ2000GTや1600GT、マークⅡ2000GSSから継承する高性能DOHCエンジンをメインにしながらベースを大量生産するカリーナにする事から安価での提供を可能(このようなモデルをスペシャリティカーと命名)とし若い世代に大人気を博します、また、従来モデルであるコロナ、そしてカリーナもスポーティなHTモデルやDOHCモデルを配置、大衆車であるカローラやスプリンターにもレビン/トレノとしてDOHCモデルを設定、セリカをメインに日産にやや遅れたイメージだった部分をにモータースポーツ積極的によりトヨタ=スポーツイメージを高めました。
↓大衆車にDOHC、絶大なインパクトだったスプリンタートレノ
こうしたスポーツ路線も73年に発生した第一次OILショック、そして75年に施行された排ガス規制によりトヨタに限らずにこうした傾向は沈静化、新たな時代のトレンドを模索する機会を止む無く与えられます。
トヨタはこの時期脇目を振らずに施したラインナップ拡大とスポーツ路線への傾倒戦略のツケが廻り他社がいち早く省燃費、低公害にシフトした事に遅れを取り苦しみますがその風穴を高級車やRVに見い出し従来から定評ある我が国を代表する高級車に成長したクラウン、そしてハイオーナーカーであったマークⅡをよりクラウンに寄せた戦略にキャラ変更し富裕層に訴求、また、ライフスタイルの変化に合わせ多人数乗車のワゴンや4WDモデルを70年末期までにラインナップに加えます。
これらは従来の商用車をベースにして乗用、若しくはそれに準じた仕様に仕立ててオーナードライバーに訴求し成功を収めました。
↓コロナのスポーティバージョンを決別しクラウン路線の高級化を果たした3代目マークⅡ
↓新たなファミリーカー、そしてレジャーベースとして発売したタウンエースワゴン!
このように時代が前半と後半では大きく様変わりした自動車業界、特に後半は手隙であった環境対策、燃費対策で他車に遅れを取りやや勢いを失速したトヨタでしたがこの苦い経験が80年代の巻き返しと90年代の絶対地位の確立の基盤になったと言えるでしょう。
※他のトヨタ70年代発売の新型車(継続モデル=モデルチェンジは除く)
・ライトエース(70y)・パブリカスターレット(73y)・タウンエース(76y)・チェイサー(77y)・セリカXX(78y)
(日産)
“技術の日産”で60年代を歩んできた日産、トヨタとは一線を画す先進的技術とそれを如実に示すモータースポーツでの活躍から腕に覚えのあるクルマ好き、ドライブ好き等に好まれていました。
その日産の個性を基に70年代の日産はワイドレンジ、グレードアップで支持を拡大し僅かに先を行くトヨタ1点に照準を定めた展開を試みます。
しかしその手法はトヨタの後追い政策、成功しているトヨタの作法を追いかけ車種編成を拡大充実、トヨタのラインナップに全て対抗させるラインナップを敷き徹底抗戦を本格化させました。
しかしファンの支持するスポーツ路線もより充実、長年オープンスポーツとして伝統あるフェアレディを69年にクローズドボディとしたZシリーズにスカイラインGTRから24V DOHCエンジンを換装したZ432、輸出用2.4Lエンジンを搭載するスーパースポーツとなる240Z等が人気、他にマツダが市販化したロータリーエンジンにも着目、これを自車開発し試作に成功し高性能エンジンの新たな可能性も模索、トヨタのDOHC攻勢に切り札として期待されました。
↓オープンからクローズドスポーツに変貌したフェアレディは70年代に大飛躍!
また日産らしく将来のファミリーカーの王道となる小型FF技術を実現、既にスバルやホンダが市販化しながら一般にまだ理解が乏しく技術的にも成熟していないFFのチェリーを市販化し先進性を示しました。
チェリーは商業的には時期尚早な部分もあり成功したとは言えないながら後のパルサー、そしてサニーのFF化に対するFFパイロットモデルとして日産にとって大きな役割を果たし80年代の小型FF化の波にトヨタに先んじて掴む事に成功、当時は大きなセールスアピールで注目を集めました。
↓大メーカーとしてはFF初参入を果たしたチェリー
カローラにリードされたサニーは日産らしい軽量ボディとスポーティさを初代から継承した2〜4代目モデルの時代、カローラにはない小気味良さを生かしクーペボディでレースでも大活躍しますが後半はDOHCを搭載してきたレビントレノに押されながらも存在感は安定、神話を築いたスカイラインの4代目“ケンメリ”やHTブームの頂点となる日本初のセンターピラーレスの4HTを高級車セドリック/グロリアに追加、クラウンの敵失もありましたが50年代にお互いが発売し切磋琢磨、代表的高級車として認知されていたクラウンvsセドリックの闘いに於いて初のシュアNo1をセドリックが獲るという偉業も果たしました。
↓廉価スポーツとしてメインの大衆車訴求よりも支持された2代目サニー
↓230型セドグロはクラウンを上回る人気を獲得!
70年にトヨタセリカ、三菱ギャランGTO、マツダサバンナにより開拓されたスペシャリティカー市場には日産は上述のREで参入を目論んでいましたが73年のOILショックで大打撃を受けたマツダの惨状を見て計画が頓挫、これに向けて開発されていた新型シルビアは止む無く既存のレシプロエンジンでデビューする事になりインパクトは激減、スポーツブーム衰退と合わせ75年にデビューした2代目は燦々たる有り様ながら79年の3代目では新時代のパーソナルスペシャリティとして歴史あるセリカ人気を超える支持を得てこのジャンルで初成功を果たしました!
↓クラスを超えた高級感と都会的お洒落さがセリカを超える人気獲得に成功した3代目シルビア
国際ラリーでの活躍から名車とされた510以来は高級化肥大路線でじり貧に落ちっていたブルーバードでしたが79年、FRセダンとしてはこれ以上ない秀逸さを披露する910型が登場、絶大な人気を誇っていたスーパースター・ジュリーを起用したCM効果もあり発売と共に大ヒット!一時はトヨタ(コロナ)、三菱(ギャランΣ)の後塵を仰いだブルの復活起爆剤となりました。
↓ジュリーの“お前の時代だ”の言葉通り70年代末期に絶大な支持を得た910型ブルーバード
トヨタ程の混乱にはならずともやはり悪夢のOIlショック、そして排ガス規制に苦悶した日産、またトヨタに追いつけ意識が強すぎ70年代前半は各モデルが大型化、豪華路線に傾倒しファンを減らす要因にもなりましたが後半に至ってはこれらの路線を見直し従来の日産にあった走りを愉しむモデルを次々にリリース、国産初のターボエンジン搭載も大きな発展となりこれを継承した80年代はターボモデルのラインナップ拡大から“ターボブーム”に火をつけこれがやがて第2次スポーツカーブームを呼び込むなど70〜80年代にかけて自動車業界に及ぼす日産の影響は多大な功績を残したと言えるでしょう!
※他の日産70年代発売の新型車(継続モデル=モデルチェンジは除く)
・シビリアン(71y)・バイオレット(73y)・キャラバン(76y)・オースター/スタンザ(77y)・パルサー(78y)・ガゼール(79y)
(三菱)
69年のコルトギャランやミニカ70の大ヒットを受けいすゞを抜き去りマツダと第三勢力の座を争うまでになった三菱、REのインパクトに前半はやや劣勢ながらも70年、三菱自工発足と共に目を見張るような発展を成しOILショック打撃のマツダを中盤以降抜き去り特に76年にリリースされたギャランΣ/Λの大ヒットによりNo3の座を安定させました。
70年代は一番この三菱が発展した年代、それまでトラックメーカーが片手間で乗用車を造ってるとややもすれば受け取られる印象だったのを横綱2社を脅かす存在となりました!
60年代より積極的に参加していたラリー参戦も継続、コルト→ギャラン→ランサーに継承、タフで玄人好みのスポーツモデルも一気に取り揃えコルトギャランをベースにした70年のギャランGTO、71年のギャランクーペFTOはスペシャリティカーブームの先陣をトヨタセリカと共に築きました。
↓セリカと人気を2分したギャランGTO、国産初のダックテ―ルがからなる“Hip up cope”が注目されました!
↓レビントレノ、サニーGXを怒涛する実力はラリーで鍛えたギャラン16LからフィートバックしたライトウェイトスポーツのギャランFTO
従来型コルトギャランは73年にコロナ/ブルーバードクラスの2L級セダンに格上げ、また、ホンダによって仕掛けられた軽ハイパワー市場にも参戦、軽スペシャリティのミニGTO、ミニカスキッパーは軽自動車のイメージを一新するスポーティなスタイリングがスズキのフロンテクーペと並び現在でも称賛されています。
↓ミニGTOの軽スペシャリティ、ミニカスキッパー
75年に施行が決まった排ガス規制にもいち早く取り組み73年にはこの規制に対するパイロット版である2代目ギャランにMCA(三菱クリーンエアシステム)モデルを設定、トヨタ日産が数多くリリースしたエンジンを規制適合に向け青色吐息の時期に元飛行機屋のエンジン技術力の高さで挑みパワー低下を最小限とし規制初期に最後まで排ガスの濃いツインキャブモデルも維持していた事からこれらモデルが大手からほぼ消える中、大きな存在感を示しました。
2代目で肥大化の豪華路線に振ったメイン車種ギャランは失敗、コロナ/ブルーバードの軍門にあえなく下りましたが76年のFMCで3代目となるギャランΣ、そしてGTOとギャランHTの統合版であるギャランΛはそれまでの国産セダン、HTにないスタイリッシュさが大きな人気を呼びセダンのΣに至っては排ガス規制で評価を落とすライバルを上回る販売成績を残し大手を慌てさせた事がその2大勢力が絶対!と思われていた時代で第三勢力のモデルが革命を起こしたと言っても過言ではなかったです。
↓従来のセダンにはないスタイリッシュさでクラスNo1の売り上げを記録したギャランΣ
↓国産初の角型4灯ライト、1本バーステアリング他斬新なエクステリアで話題を呼んだギャランΛ
他にもギャランのグレードUPを補う新車種であるランサー(73y)はカローラサニーに真っ向から勝負する大衆車市場に投入するファミリーモデルながらギャランから引き継ぐラリーでの活躍が当時も今も有名、ファミリーカーとしては苦戦でありながらもラリー好きの記憶には鮮明に残る名車となっていますし後のランタボ、VR-4やランサーエボリューションが国際ラリーで活躍する下地を作ったと言えるでしょう。
↓内外のラリーで大活躍した初代ランサーラリー仕様
FTOの進化版でありかつランサーのクーペモデルであったランサーセレステ(75y)は流行のHBクーペでありこれも若年層に人気を呼び三菱の70年代は順調に発展、78年のFF戦略車ミラージュの発売を契機に2番目となるカープラザ店を発足させ大手に学び双子車政策も実施するなど大きく花開いた時代でした。
会社発足と同時に目を見張る充実を見せた三菱、大手とは異なる頑強、高品質のイメージは日本車にはなかったシャープなステアリング性能とロングストロークを特徴とするトルクフルでパンチのあるエンジンが独特な個性で大手2社では飽き足らないファンを獲得、三菱にとっての青春期で一番元気な年代であったと言えるでしょう!
※他の三菱70年代発売の新型車(継続モデル=モデルチェンジは除く)
・クライスラー318/チャージャー770(71y)・ギャランΣエテルナ/ギャランΛエテルナ(77y)・フォルテ(78y)
(マツダ)
60年代にREエンジンの市販化に成功し沸きに沸く中で迎えた70年代、初頭はそのREを徹底的に売り込み浸透させる事に注力、軽自動車〜マイクロバスまでオールRE搭載を掲げてスタートしました。
REの高性能を象徴させる目的でリリースしたコスモスポーツでしたが第2弾は68年にREを廉価に普及させる目的もあり大衆車・ファミリーカーであったファミリアに搭載、コスモの10A型エンジンはデチューンされていたとは言え100psのパワー、この時代せいぜい60〜70ps程度の1200ccクラスにいきいなり100psのパワーを持つREファミリアのデビューは衝激、勿論メインは既に2代目となっていたファミリアの800/1000/1200レシプロモデルではありましたがやはりRE版はスポーツカーブームもあって注目されモータースポーツにも参戦するなど高額だったコスモとは較べ物にならない庶民的REモデルとして浸透、マツダが目論むRE角は路線は第一段階はひとまず成功を収めました!
↓夢のREエンジンを普及させたファミリアRE(プレスト)
しかしファミリアREは絶対パワーの大きさに比較してシャーシや足廻り、ハンドリングはベースのレシプロモデルと大差なく非常に脆弱、有り余るREパワーを受け止められない言わば未完成な部分が多く評価が得られませんでした。
これに危機をもったマツダは試作的に発売したルーチェREクーペ(69y)を挟み量産モデルとしては第三弾としてカペラ(70y)、第4弾にサバンナ(71y)を投入、カペラは最上級車ルーチェとファミリア間を埋める新車種、サバンナはファミリアとカペラを埋める同時発売のグランドファミリアの兄弟車種、カペラはベースに1500レシプロ、サバンナはRE専用モデル(グランドファミリアがレシプロ専用)の立ち位置を取りREを各車に添えかつ大手2社を見習うワイドレンジを敷きます。
ただ、ここで成功したのはサバンナのみ、カペラもサバンナもファミリアREから引き継ぐカタチでモータースポーツ参戦を行いますがカペラでは新開発でよりパワーのある12A型REを搭載しながらまたしてもシャシの弱さが仇となり好成績は収められずまた、車格的にも半端なイメージ、コロナやブルより格下ながらカローラサニーよりは上、カリーナや後のバイオレット等のカテゴリーではありましたがまだ特に東では弱小イメージのマツダでしたのでこのクラスの開拓者にはなれず商業的には苦戦します。
↓RE第三弾はカペラ、中級セダンの役割も持ちますが車格が半端でヒット作にはならず。
カペラに次ぐサバンナは常勝スカイラインGT-Rをサーキット王者の座から引きずり降ろした事で有名、ファミリア→カペラで学んだREパワーに対応するシャシを持ちその俊足ぶりはREファンだけには留まらない注目を集めデビュー時の人気はかなりのモノ、反面大人しさ=地味目なグランドファミリアは従来型ファミリアの先行モデルとして特に73年のOILショック以降に発展します。
↓スカG神話を崩壊させたサバンナはスポーツマニアに留まらずその獰猛なイメージから暴走族にもご用達となり数奇な運命を辿るモデルでした。
1973年、マツダにとっては悪夢となる中東の情勢不安からなるOILショックが到来、効率が良く小型でスムーズにパワーを出すREの最大の欠点はレシプロ2サイクルにも通じるOIL/ガソリン垂れ流し的な極悪燃費であったため“夢のエンジン”と持て囃されたREエンジンの存在は地に堕ち国内はもとより海外でもRE戦略を広げていたマツダには返品キャンセル等が相次ぎ倒産も視野に入る大打撃を被りRE普及を達成しかけていたな中、深刻な販売不振に喘ぎます。
しかしRE全面展開が肯定路線だったマツダは72年にFMCした2代目ルーチェもREメインとしており排ガス対策の混乱期でもあり手を打てたのはファミリア(72yからサブネームにプレストが入る)からREを廃止しBigマイナーを実施(73y)にしたりカペラのREを縮小しグランドファミリアと併せてレシプロ版を充実させる等の小手先の政策、これだけでは厳しい状況は抜け出せませんでした。
こうした状況の中、RE推し政策の変更を余儀なくされOILショック〜排ガス規制以降は比較的富裕層に訴求する高級車、スポーツカーに搭載する方針を取ります。
方針変更後の第一弾はそんなREの状況を逆手に取ったコスモの発売(75y)当時ではクラウンセドグロクラスとなる200万に近い価格設定(最上級リミデット)を施す高級パーソナルクーペとしてデビュー、“スポーツ”の名前を消し蘇ったコスモ(コスモスポーツは72年に廃盤)は燃費を気にしないハイソサィティーに訴求する高級車として人気を呼びデビュー時に記録的販売数字を上げマツダの窮地を救うモデルでありました。
↓初代シルビア、117クーペのみだった高級パーソナルクーペとしてデビューしたコスモはマツダ救世主!
このコスモの成功からマツダは78yの2代目カペラではRE搭載を封印、この後77年の3代目ルーチェ(レガート)はマークⅡローレルクラスのハイオーナーカーカテゴリーに参戦させ高級グレードにREを搭載、また78年にはサバンナをFMCし本格的スポーツカーとしてサバンナRX-7がデビュー、コスモルーチェには廉価版でレシプロも与えましたがRX-7は先代から引き継ぐRE専用モデルとされREの情熱を失わない姿勢を示しファンから熱い支持を受けました。
RX-7はOILショック〜排ガス対策以降の環境配慮や社会問題化していた暴走族問題を考慮して各社がスポーツモデルを自粛する暗い時代の中、唯一スポーツカーとして継続していたフェアレディZと共に国産スポーツ復活を告げる歴史的名車となりました。
REだからこそ成り立つFrミッドシップ、各スポーツモデルが排ガス規制で牙を失った中、その特性から規制の影響をうけにくい元気なREパワー、トヨタ2000GT以来のリトラクタブルヘッドライトに代表される誰が見ても“スポーツカー”スタイルは飢えたスポ車ファンに大歓迎を受けこれをきっかけに他車もスポーツモデル復権を察知、第2次スポーツブームに向かってゆくのでした!
↓暗い時代に光明を授けた初代RX-7の歴史的役割は偉大でした!
OILショックで苦しみなが大きな転機を迎えたマツダ、75年以降のラインナップ見直しは業績回復の足がかりとなりOILショック時には三菱に奪われた業界第3位の地位を再び狙う立ち位置に70年代後半に回復しました。
マツダにとって厳しい70年代でしたが逆にREエンジンの価値を見出すきっかけにもなり世界で唯一のRE生産メーカーとして独自のファンを築きモータースポーツでも好成績を収め続け世界から認められるメーカーに飛躍した年代でもありました。
また、REばかり目が行きがちながら業界の潮流にはしっかりと対応、2BOXブームには3代目ファミリアにて対応、省燃費から台頭し始めたディーゼル乗用車にもルーチェに搭載したりとRE以外の努力を怠らず確実にNo3を狙う下固めをしていた70年代後半は充実した時期でもあったと言えるでしょう。
※他のマツダ70年代発売の新型車(継続モデル=モデルチェンジは除く)
・タイタン(71y)・シャンテ(72y)・パークウェイ(72y)・ロードペーサー(75y)
19××〜あの頃?1970年代(後編)に続く
※アップ時期未定(^^;