
※この記事は2016/7に上げたモノの改訂版です。
1960年代、日本にとっては激動の年代、交通インフラの急激な発展、東京オリンピック(1964)開催など日本はイケイケどんどんの時代でしたのでモータリゼーションも活性化、各メーカーがまだ拙い技術ながら他車を追い越せ!欧州車に追いつけ!と自動車ファンとして端で見ていてもワクワクとトキメキを持たずにいられませんでした。
そんな時代の各社モデルの振り返り、後編はホンダ〜ダイハツまでを取り上げてみたいと思います。
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(ホンダ)
今や業界2位とも言われるホンダですが4輪市場に参入という意味では最も後発メーカーです。
1946年(昭和21年)、敗戦直後の静岡・浜松で産声を上げたホンダ(本田技研工業)はまず発電機を改造した2stエンジンを自転車に搭載して発売、これが後の“カブ号”と言われた補助エンジン付き自転車→原動機付自転車として大ヒット、この経緯から二輪車に進出し40〜50年代では国際2輪レースでも実績を残し2輪界では世界を含め大手と言われるようになりました。
この経験から卓越したレーシングエンジンの技術を引っ提げて4輪進出を果たしたのが1963年(昭和38年)、当初はその“レーシングエンジン”に相応しいスポーツカーでの参入を目論見ながらも諸般の事情からそれは敵わず「T360」と言う軽トラックにてデビュー、まだまだ当時、業務、作業性に優れる商用車がメインの時代でしたので一部マニアにしか認められないスポーツカーでの参戦を諦め一定の需要が見込める軽トラを第一号とし、かつ360cc軽自動車のスポーツカー認可が降りなかったという側面もありました。
↓4輪初参入は軽トラのT360
第一号のT360、見かけは立派な軽トラながら心臓は当初デビュー1号を目論むS360用に開発した360ccDOHC30psというハイパワーエンジンをそのまま搭載、奇しくもレーシングエンジンとして開発されたDOHCは日本での初お目見えは何と軽トラ!だった訳です。
熟成した2輪技術から造られた360cc2気筒30psDOHC搭載というスーパートラックはエンジン特性と使用用途の乖離から商業的には評価されないながらもDOHCエンジンを語る上で非常に重要、歴史的にも外せない名車?迷車?として語り継がれていますね。
何はともあれT360で4輪デビューを果たしたホンダはT360の失敗も肥やしにして次々にユーザーニーズに合致したモデルをリリース、軽スポーツは敵わぬ夢となりながらもS360の精神を受け継ぐS500(63y)、これのバージョンアップのS600(64y)やS800(65y)発売し2輪イメージからの流れでスポーツ好きマニアに高い支持を受けました。
↓Sシリーズの頂点であるS800!
しかしホンダの秀逸な点は得意のスポーツモデルだけには終わらず一般大衆に訴求しまだ本命は商用車が務めるこの時代ですので積極的に商用モデルもリリース、L700/800、P700/800(バントラックモデル 65y)で足場を固めた上で今ではホンダNo1の名車と言われるN360を67yに発売、これまでスバル360、ミニカ、キャロルで安定していた軽自動車市場に革命を起こしたと言われるN360は非力、我慢車と言われたこのカテゴリーでは正に異端児、30psを超えるハイパワー、利点は大きいながらも技術の稚拙さでなかなか量産化されなかったFF機構を武器に軽自動車の常識を超えたN360は爆発的なヒットを飛ばしホンダの今日を築く立役者になりました。
↓軽自動車の革命児N360は大ヒット!
N360には商用版のLN360(バン)、よりパワーのある輸出モデル→国内版となる普通車登録N600Eというバリェーションも話題、発売後はツインキャブのスポーツ仕様やサンルーフ仕様などワイドバリェーションを展開、何よりもこれだけ話題のN360は非常に廉価で庶民の心を捉えたのが大きかったです。
N360の成功で一気に4輪界のスーパースター化したホンダ、高い技術力と名将(社長)本田宗一郎氏の創意工夫が花開いた、そんな60年代でした!
※他のホンダ60年代発売の新型車(継続モデル=モデルチェンジは除く)
・TN360(67y)・ホンダ1300 77/99(69y)
(富士重工)
スバル=富士重工の自動車ブランドとして名乗りを上げたのが1954年のスバルP-1(試作)これに続いて発売されたのが国民車スバル360(58y)でした。
元々富士重は旧中島飛行機という会社で戦中には戦闘機をメインとするメーカー、戦後の財閥解体により富士産業に改名、上述のP-1や360の自動車部門に平和産業の転換を掛け側面ではスクーター(ラビット)、民生用飛行機、バスボディや塵芥車他の幅広い事業で地盤を固めました。
元飛行機屋の意地と技術力、そして創意工夫により国民車構想に呼応するカタチで発売されたスバル360はまだ国産車が未成熟な50年代に驚くべき水準で人気を獲得、50年代ではまだまだ庶民には高嶺の花だった“クルマ”というモノを維持費/購入が廉価である軽自動車というカテゴリーに合わせたのも成功の秘訣、飛行機技術からなる軽量モノコックボディの採用、空冷2stので軽くパワーのあるエンジン、小さいながらも大人4人を収め実用に耐える頑強さが後のスバル発展の基礎を築きました。
この好評さから高速時代に対応するかのように市販初の普通車参入版であるスバル450もリリース(65y)されましたがこれは中途半端な排気量である事から支持は得られませんでした。
↓360の思想で普通車市場参入のスバル450!
好評スバル360は50年代でに一気に販売を増やし足元を固めますが60年代になるとスバルに続け!とばかりに三菱からミニカ、マツダキャロル等のライバルも増加し苦戦を強いられるようになり、67yのホンダN360により設計の古いスバル360の役目は終わりに向かいましたがその後1970年まで現役を続け軽ベストセラーとして君臨、後年〜現在でっはスバル、いや、国産傑作車として名車の一つに数えられているのはご承知の通り!
スバル360の成功を元にし66yには独自の技術とアイディアを固めたスバル1000で1Lカーブームに沸く大衆車市場に参入、まだ他社が技術力、生産性で問題を抱えかつ日本車がアメリカコピーで発展してきた経緯もありFRが当然の時代に異端児であるFF機構を採用したスバル1000、限定的にその技術力やスバルの思想に感銘を受けた所謂”スバリスト”と言われる熱心なスバルファンに支持を獲得、以後発展モデルであるff-1、1300G→レオーネと1000を基本としたモデルしか乗らない!という頑固なファン層を築きました。
↓後年のレガシィ、インプレッサ人気の元にはこのスバル1000にアリ!
50年代で庶民の味方となったスバル、60年代は頑なな思想とクルマ造りからやや専門的、拘りのある層に傾倒気味ではありましたが少数でもそう簡単には離れない頑ななファンを掴み確実な基礎を築いた年代だったと言えるでしょう。
※他のスバル60年代発売の新型車(継続モデル=モデルチェンジは除く)
・サンバー(61y)
(日野自動車)
現在はトヨタの傘下に収まり中・大型車専門のトラックメーカーとしてシュア1位(トラック部門)を堅持するメーカー、歴史は古く母体は明治・大正期にまで遡ります。
戦前〜戦中〜戦後と激動の時代に合併→分離から日野自動車となりその時期に成熟させたディーゼルエンジンを基礎にした大型トラック・トレーラーの大手メーカーとなりました。
あくまで大型車メーカーとして発展してきました日野ですが民生産業の代表であった乗用車部門にも1953年(昭和28年)には参入、仏・ルノー公団からルノー4CVをノックダウン生産を開始し乗用車を学んだ末、61年にはこれを下敷きとした自社開発したコンテッサ900を発売、ルノー同様のRR等基本は継承、頑強な造りと信頼性でまだまだ国道ならぬ酷道が殆どだった時代に主にタクシーなどでは重宝されました。
コンテッサは62年にコンテッサ900スプリントというショーモデルが発表され絶賛、ジョバンニ・ミケロッティの手による美しいデザインは世界的評価を受け一気に日野が周知される事となりこれの市販型が64年のフルチェンジで新型となったコンテッサ1300、スプリント同様にミケロッテティの美しいデザインは4セダンとクーペをラインナップ、400cc拡大された新開発GR100型OHVエンジンは高速型特性で空力がいいクーペはモータースポーツでも用いられました!
↓ミケロッティデザインの2代目コンテッテサはその美しいスタイルで一定以上の人気!
日野はコンテッサ以外で当時乗用車よりも需要が見込める商用小型車にも参入、60年にコンマース(キャブオーバーバン、バス他)、61年にはブリスカ(ボントラ)をリリース、共にルノー4CVやコンテッサのパワーソースを流用しながらコンテッサではRR方式としたのをFR(ブリスカ)、コンスーマでは日本初のアンダーフロア+FFを採用し先進性に注目を集めています。
↓時代的に需要の高いボントラ市場にも参入したブリスカ!
50〜60年代初頭には上記のように庶民性が高くかつ先進的な小型車を開発していた日野ですが66年にトヨタ傘下入り後は元来のトラックメーカーに立ち返りコンテッサは67年、コンスーマは生産性と非力に苦しみ傘下入り以前の62年、ブリスカはそのままトヨタブリスカと移行しますが68年にトヨタ製ハイラックスに後を譲り生廃、全ての小型車から手を引く事となり(一部4ナンバー小型トラックを除く)以後、トラックメーカーとして歩み今日に至っています!
(スズキ)
スズキは元々はトヨタ同様に自動織機のメーカーとして発足、自動車界への参入は1952年の2輪からであり4輪に関しては55年の軽自動車スズライトが初、その後2輪と軽で着実に成長し60年代を迎えています。
60年代に入り50年代に発売したスズライト(SS:セダンSL/SD:バンSP:トラック)を基本にSSをスズライトフロンテ(62y)→フロンテ360(67y)、SL/SDをスズライトTL、SPをスズライトキャリィ→キャリィ(58〜67y)にそれぞれ発展させ軽自動車随一の広い車型を備える軽自動車専業メーカーとしての地位を確立しました。
67年に発売されたフロンテ360は従来のスズライトの思想を一転、それまでFF方式に拘り生産性が悪くコストも掛かるという短所を解消しRR方式にしたところで廉価と大量生産を実現、既にスバル36やキャロル、ミニカという古参が陣取りしかも同時期に発売されたホンダN360との競合もありましたが軽乗用初の2st3気筒エンジンの搭載は大きく話題となりました。
理論上4st6気筒のバランスとスムーズさを持つこの3気筒エンジンはホンダ同様、2輪のレーシングエンジンから学ぶ2st3気筒、この後スズキの売りとなり各車に搭載されてゆく事になります。
↓RR方式、軽初の2st3気筒エンジンで注目を集めたフロンテ360!
軽自動車メーカーとしての地盤を固める一方で1Lマイカーブームの前夜祭である800cc市場に65年、フロンテ800にて参戦、ライバルには見れない先進のスズライト時代に学んだFF方式で訴求しますが既にトヨタパブリカ、ダイハツコンパーノベルリーナ、マツダファミリアによる盤石な体制が築かれていた事に加え66年からはこれの発展→より激戦区となる1Lカーが続々発売され企業力が低いフロンテ800は埋没、69年には大失敗を認め製廃、以後これに懲り暫くスズキは軽専業メーカーに立ち返りますがその意地を示し1973〜2006年、34年間軽自動車シュアNo1という偉業も成し遂げています!
↓65年には早くも小型車市場に参戦したフロンテ800!
自動車界参入がホンダに次いで遅いスズキでしたが60年代の攻勢は今に続く軽No1の自信と手応えを得た年代、軽自動車という限られた枠内でいかにコストを掛けずに可能な限りの最良なクルマ造りを学んだ年代だったと言えます!
(ダイハツ)
このメーカーも歴史は古く量産メーカーとしては最古の部類、明治時代にガス内燃機関を手がけたところからスタート、自動車参入はこれまた古く1930年(昭和5年)、戦後まで庶民の足として親しまれた3輪トラックが最初、60年代までこの分野では第一人者としてライバルのマツダと争いました。
51年のビー以外は時代もあり基本商用車主体でリリース、空前のヒット作である3輪のミゼットを4輪化したハイゼット(60y)を皮切りに続々と4輪モデルの発売を開始、50年代後半〜60年代になり4輪化の波が押し寄せると共に徐々に4輪にシフト、ハイゼットを皮切りにニューライン/同キャブ(63y)、58年デビューの4輪トラックのベスタから変わるV100/V200(64y)等がありこの頃から意外に知られていませんがディーゼルエンジンにも注力、国鉄のディーデゼル機関車への納入実績などの側面もあり同社のトラックなどにも他車に先駆けて搭載されていました。
本格的商用車に参入したのは1963年(昭和38年)のコンパーノベルリーナ、当初は確実な需要が見込めるバンモデル(コンパーノ)でデビュー、好評から乗用化してビー以来の久々の乗用参入でした。
↓本格乗用参入のコンパーノベルリーナ!
伊・カロッツェリアが基本デザインを担当したコンパーノベルリーナはイタリアン調のモダンなスタイルが受け人気を獲得、国民車構想に応え既に700〜800cc級小型車ではトヨタパブリカや三菱500/コルト600が存在するもその洒落たスタイル、仕上げでコンパーノスパイダーは発売直後にはTOPの人気を獲得、ダイハツのメイン車種として発展、バン/セダンに加えオープンモデルのスパイダーやベルリーナのスポーツバージョンコンパーノ1000GT、そしてピックアップとワイドバリェーションを展開、1Lマイカーブームの前夜に広く庶民に愛されるクルマでした!
↓スポーツカーブームに先駆けて発売されたコンパーノスパイダー!
しかしダイハツは67年にトヨタ傘下入りとなり軽〜大型車のフルラインをグループ会社にて達成したいトヨタの意向に伴い商用/乗用とも自社開発としては小型車市場から撤退、ダイハツは軽専業、大型は日野と役割分担する事となり1970年のコンパーノベルリーナ4ドアセダンを最後に暫く小型からは退く事になります。
余った生産設備でトヨタ車の受託生産やダイハツブランドのトヨタ製車輌(コンソルテ-パブリカ、ライトエース/ダイナ-デルタ)等は行うも70年以降は完全軽自動車メーカーとなったダイハツはその後軽の開発に注力、オリジナル(自社製)は66年に発売済の軽乗用(バン、ピックアップの商用も設定)のフェローとハイゼットのラインアップとなっています。
↓後年ダイハツの主力となる軽乗用第一号であったフェロー!
フェローは軽乗用としては後発の部類、オーソドックスなFR機構と相変わらずのデザインセンスの良さから一定の支持は受けるもスバル、三菱、マツダ、スズキ、ホンダの牙城は崩せず苦戦、特に大阪のメーカーであった為西では好評ながら東日本での浸透が弱くこれの拡販に70年代は驀進する事になってゆきました。
明治から続く老舗も戦後急成長した大樹に飲み込まれ60年代後半からは自主性が弱まったダイハツですが日本車の創成期〜青春期には偉大で確実な足跡を残したと言えるでしょう、60年代半ば迄で普通車市場の火は事実上消えましたが確かな功績を遺した、そんな60年代だったと感じます!
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前編後編に渡りご紹介した60年代の国産10社、如何でしたか?
各社の各モデルには個人の主観で思い入れはそれぞれだと思いますが日本のモータリゼーションのスタート地点であるこの年代を文章から感じ取って頂けると幸いです!
長文読破、お疲れサマでした<(_ _)>
19××〜あの頃?1970年代(前編)に続く
※アップ時期未定(^^;