
英国エリザベス女王の棺がバッキンガム宮殿に到着されたニュースが流れていました。
まっさくんも1度だけそれも3日のみ(笑)イギリス(ロンドンを含めての一部のみ)を訪れたことがあります。
時代は1990年。バブル真っ盛りの頃。
イギリスは、当時渡欧時期の最終で、観光で訪れました。
1990年から、1992年、1994年、1995年とヨーロッパに色んな意味で行くことが出来た。
当時は、フランス製のルノー5ターボ2などに乗ると思っても無くまた、ヨーロッパの中でもあまり興味があった国でもなく。。(笑)
今もそれほどフランス自体には興味が有るわけでもないのだが。。。
縁あってフランス車を乗っています。(笑)
そんな、まっさくんのヨーロッパ回顧録を綴ってみようかなと。
ヨーロッパと言っても、メインはスイス。
小学生時代、永世中立国と言う言葉を知りその代表格の国がスイスだった。
当時、すごくあこがれの「国」でしたが、その地を訪れるという事なんて思いもしていなかった。
マイサンク製造年1984年の翌年の1985年に鈴鹿のとあるエンジニアリングに入社。
当時コンピューターの走りで、国立の情報処理工学科を出て入社で、部品管理とかの担当だった。
同期は8人(男4人女4人)他の男性同僚は、機械技術科の出身。
入社当時は、周りに比べて何もできなかった人間。
来る日も来る日も部品管理や外回りでのパシリ?みたいな仕事。(笑)
学生時代、水泳部だったという事で、当時会社に室内温水プールを作るほどだった理由で?(笑)社長の一言で入社出来た感じ。(笑)
本当に入社した年に室内温水25m公認プール出来てたからね。
公認プールというのは、このプールで出た記録がちゃんと認定される水泳連盟規格のプールの事。
コースも8レーン有って,凄いプールだった。
85年といったら、当時鈴鹿8時間耐久レースでヤマハからテック21、ケニーロバーツ、平忠彦組が初めて出場した年。(KINGケニーにサインもらいました。(笑))
当時空前のバイクブームで、この8耐の時は鈴鹿の人口が倍になったと言われていたくらい凄かった。
そんな中同期は、サーキットで下っ端ながら8耐のメンバーとして活躍してましたね。
そんな、1年目のまっさくんは、事故はするは、けがはするは。。。。
社屋にレース車両を(オートバイ)を運び入れる時に、車体後方をもっていてチェーンとスプロケットに指が挟まり右中指の爪がめくれ上がり骨が見えるくらいの怪我。
直ぐに誰かが、総務課へ連絡してくれたんですが。。。
総務課~「誰が怪我したの?」
社員~「まっさくんです。」
総務課~「また?~~~~~~~!!!!!!」という響き声が。。。。(笑)
この時ばかりは、この声に結構凹みました。(笑)
そうなってくると、やっぱり結構腐ってくるんですですよね。(笑)
そんな中、後のまっさくんの師匠となる人が声をかけてくれました。
師匠~「お前、ここで何がしたいんや?」
まっさくん~「レースメカニックもやってみたいし、エンジンも組んでみたいし、車体や色んな物を創ってみたいし。。。」
師匠~「メカニックしたいんやったら、工具要るわな?お前もっとるんか?他人の工具で仕事するんか?他人のふんどしで相撲するのと同じやぞ。」
師匠~「それと、同期をうらやましがってるみたいやけど、お前、一番チャンスがある状態が判らんか?」
まっさくん~「。。。。。????状態(笑)」
師匠~「部品整理管理、外回り。。。どんぐらいかかる?」
まっさくん~「遅くても15時くらいまでには終わるかと。。。。」
師匠~「後は遊んどんか~?(怒)」(笑)
師匠~「自分の仕事が終了したら、後はフリーだろう?お前は他の同期と違ってその時間を使えば好きなところで、色んな事を経験できるじゃぁないの?」
「先ずは、明日から自分の仕事が終わったら俺の所へ来い! ただし自分の仕事を適当に終わらして来ていたら叩きだすからな!」
まっさくん、いい師匠に巡りあえました。(笑)
もうね、毎日が楽しく変わっていくわけよ。
ここから給料の大半は工具買い。=Snap-onなわけ。ほぼ一択。(笑)
当時10mmのメガスパが数千円するわけよ。
でも、工具だけは早くから社内で一番保有する状態までになった。
当時、「車」なんて動けば良いくらいにしか思ってなかった。(笑)
又オートバイの知識は持とうとしても、車の知識はこれぽっちも持っていなかった感じ。(笑)
そのために車検が有るんでしょ?みたいな。(笑)
PCのキーボード打つくらいしか出来なかった人間が。。。。
レース用の車体に取り付ける小さなアルミの「ステー」1個を作るのに手でやすり掛けをするんだけど、横で師匠が同じ道具を使って時間半分以下でまっさくんの作った「物」より数段精度の良いものを作る。
だけどまっさくんが作ったショボい「物」でも使ってくれる。。。
以前のまっさくんなら凹んで終わりなのですが、同じ道具でなぜにこうも違いが出来るのか?
「次こそは!!!」って感じになる。(笑)
当時は、材料で「鉄」も頻繁に使用していました。
2ストローク用のチャンバーなんかも、師匠が作るわけよ。
材質SPCC、厚み0.8mmの鉄板から扇型を展開して円錐形の物をつなぎ合わせて作っていく。
未だ当時は図面展開できるプログラムなんてないから、数式理解して900mmx1800mmの鉄板に、大きなコンパスで描いていく。
sin,cos,tanθ使って。(笑)
当時は、ガス溶接。
まっさくんは、当然過去にもやったことが無い。
そんな状態から、習得していった感じ。
師匠の言葉から、野球で言えばショートみたいな感じ?
自分のポジションを守りつつ、セカンドもサードも外野もカバーするみたいな?(笑)
溶接の「よ」の字も出来なかったのが、87年には
Zero-Z50Mの製作を担当させてもらえるようになり、
89年には8耐メカニックで6位入賞も経験出来た。
1990年にスイスへ行く事が出来たのは、師匠に出会えた事が出来たから。
でもね、聞けば教えてくれる人ではなかった。
教えてくれない!ではないのよ。
自分の考えを持って聞かないと答えをくれない。
正しい間違いはどうでもいい。考えているかどうか。
間違った答えをもっていった時の方が師匠は嬉しそう。
過去に自分も同じ考えで間違えたから。(笑)
そういった経験がやはり大事と考えるから、安易に答えはくれない人でした。
スイスに行く1年前の1989年は、メカニックとして全日本ジュニア250ccクラス(A級の一つ下のクラス)のメカニックを担当。
8耐が終わったころ、スイスのチームからの日本人メカニックを貸してほしいという依頼が社内募集された。
経緯としては、当時RC30(VFR750R)がホンダとしてスパーバイクとして使用されていましたが、当時は未だ、TT-F1レギュレーションで、独自のフレーム製作が可能でした。
それが当時Zero VX-7でした。
当時バブル期でもありスイスのチームが1台購入し、またサテライトチームもいるのでサポートして欲しいとの事の様でした。
スイスのチームのオーナーの奥様が日本人で、社長夫婦とお知り合いだったことから話が始まったようです。
社内募集なので他に誰が手を挙げていたかは知りませんが、まっさくんなりに89年のジュニア250cc年間チャンピオンが獲れたら行かせて欲しいと条件を提示。
又これが、鈴鹿はホームグランドで年間3戦中3戦ポールポジション、ポールツーフィニッシュで圧倒的に強かったのですが、中々他のサーキットで攻めあぐね、最終戦まで3人のチャンピオン争い。
当時最終戦、西仙台サーキット決勝前フリー走行で転倒!。
緊急修理のいつもなら絶対乗れないダメージの車両で、2位入賞で2ポイント差で年間総合チャンピオンを獲得したのが思い起こされます。
そんなこんなで、スイスに行く事が決まったのですが、開けて90年にに入ってもいつ出発とか何も無し。。。(笑)
車体は送り出して、RC30のENG.分解組み立てを理解する為、しばらくENG.課で勉強と、89年は250cc担当で8耐のみかかわっていた為このクラスのセッティングも勉強している中、シーズンが始まろうとする3月21日に急遽出発と相成ったのでありました。
又、師匠も、まっさくんがスイスへ旅だった同時期に、独立するんだな。
続く。