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2020年12月12日

元寇で戦った九州の侍達に「ありがとう」を言う


663年の白村江の戦いで百済と日本の連合軍は唐と新羅の連合軍に敗れてしまい、百済の王は高句麗へと逃れたが、王族や貴族たちの殆どは海を渡って日本へと逃れたというから中流階級の者たちの多くも日本を目指して亡命したと思っても良いのではないだろうか?。

それ以降、大和朝廷は新羅や唐による日本への攻撃が有るのではないかと考え、壱岐、対馬などに防衛する兵士を3年交代で駐屯させるようになったのが、いわゆる防人と呼ばれる武人たちで、主に関東地方の武士によって務められた。

大陸からの侵攻は大和朝廷にとっては大きな不安材料であったために敷かれた制度だったが、明らかな侵攻はないまま250年あまりの歳月とともに防人制度は有名無実なものへと衰退していった。

その後、元寇が始まる1274年、クビライの晩年までは平穏に過ぎていたが、同時代のマルコポーロによる「東方見聞録」に書かれていたように当時の日本は黄金の国と言われていて、豊かな富の島国と解されていたこともあるはずだし、高麗人の趙彝(ちょうい)の進言もあって対立する宋の攻略のために日本を従国にして包囲網を築こうとしたとも言われる。

実際にクビライは6度、使者を大和朝廷に対し送るなどして、元の従国になることを促し、さもなくな武力で滅ぼすと脅しをかけていました
その脅しに対し鎌倉幕府は返事をしないという方法で拒否を続けたためもあって、クビライは武力で大和朝廷を征服することを決意し、高麗の元宗に命じて日本を攻める船と兵員等を準備させ、1274年10月3日現在の韓国の馬山を出港しました。総勢4万人とも言われ、兵士だけでも3万人以上が900隻の船で日本を攻撃に向かったわけです。それが1回目の蒙古襲来、文永の役でした。

蒙古軍と漢軍、高麗軍の連合軍は対馬を襲い、続いて壱岐も壊滅させて九州本土に迫りました。対馬と壱岐を守っていた武士は果敢に戦いましたが100倍以上の敵兵力の前にほぼ全滅させられたのでした。

北九州に元の連合軍は10月の16日から17日にかけて接近し、博多湾に上陸して陸上戦になった10月20日、北九州に集結した御家人たちの部隊との交戦は10時間に及ぶが徐々に集団的戦法と火薬を使った「てつはう」や毒を塗った矢を雨あられと降らす戦法で戦う元軍に圧倒されるようになって劣勢となり後退するが、夜間に元軍の戦艦を襲って戦果を挙げた御家人もいた。

元側から見て、元寇における武士の様子を「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」と伝えている。

現代風に訳すと以下の様であろうと思うが如何だろう。

兵器には弓・刀・鎧があるが、矛は無い。騎兵は密集し連携している。
鎧は金や珠玉を付けて装いを凝らした精緻なもので、それを着用しているものが大勢いる。
刀は長くて極めて鋭く作られており、鞘に入れて持ち歩いている。
ただ、弓は木で作られており、矢は長いが遠くまでは飛ばない。
兵士たちはみな勇敢であり、死をも恐れないようだ。


そして翌朝になると元の戦艦など900隻に及ぶ艦隊は忽然と博多湾から消えていなくなったのでした。

元、漢、高麗連合軍が丸一日の全面的戦闘の末、優勢であったにもかかわらず陸上の陣地を放棄し船に戻ることの意味は何であるか?博多湾から消えた3万の兵士と900隻の船団に一体何があったのか?

霊的な説明が我が国の記録に残ってはいるが、恐らく元、漢、高麗軍を率いる敵将は冷静に見て、元の連合軍は優勢であるとは言え、日本の武士の強さを初めて知って、死をも恐れぬ勇敢さを以て単騎でも切り込んでくる武士が次々に現れ、さらに増強されると読んだため、勝ち目がない事を悟っての退却であったと言えるでしょう。

『元史』には日本侵攻の困難性について「たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、我が軍に後援はない。万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛んで渡ることはできない」とあり、軍議における戦況認識にあるように、日本側が大軍を擁しており、集団で四方より元軍に攻撃を仕掛けてくること、戦況が不利になった場合、渡海が困難なため元軍の下に援軍が直ちに到着できないことを日本侵攻の困難理由に挙げている。

とあることからも、自分たちが大群で襲えば恐れをなして降伏するのではないかと言う淡い期待は霧散し、自軍も痛手を負ったことでの敗走と言えるでしょう。

そして元連合軍は未明に博多湾を脱して撤退するものの、その後壱岐付近で暴風に船団は翻弄され、多くの軍船は壊れ兵士も溺れ死ぬなどして、一万数千人が海の藻屑と消えたのです。壱岐や対馬、北九州にはたくさんの船の残骸が打ち寄せられ、海岸を埋め尽くすほどの死者が漂着したそうです。

確かに神風のような暴風に元、漢、高麗連合軍は壊滅的損害を受けたのでしょうが、それも日本に勝てないと悟って撤退した後に起こったことでしかありません・・・。

つまり日本の侍が彼らの想像とは異なり、極めて勇敢で強かったことが解り、一日戦って、この後日本の武士は次々と増強されることを考えれば、自軍の援軍は伝令だけでも数か月かかるかも知れない異郷への遠征であることを冷静に判断したという事なのです。

日本国を守った九州の侍達に私は感謝の気持ちを強く表したいと常日頃思っています。

ありがとう九州の武士九州男児よ日本を元寇から守ったのはまさに貴方達だ!!


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Posted at 2020/12/13 19:44:57

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この記事へのコメント

2020年12月13日 20:00
こんばんわ〜🎶

歴史大好きです。
福岡の北部に「水城」という土塁のようなものが今も残っています。
高速からも、電車からも、見えます。
ちょうど昨日、通りましたよ✨
昔から国の守りを堅めるのは大変な事なんだな〜と思いました。
コメントへの返答
2020年12月13日 20:09
こんばんは~・・・・。

日本の教育がこの蒙古襲来の史実を正確に教えないことは、何故でしょうね・・・・。

まあ、GHQの梵書なのでしょうが、いかに中国人や朝鮮人が危険な人種であったかという事を言うようなことになる為、戦後の日本ではそこを強く書けなくなったという事かともいます。

私は右翼的と思われるかも知れませんが、自国の歴史を正当に評価しようとしているだけす。

自国を自国で守ろうという事が右翼と言うなら、どうすれば良いと言うのか聞いてみたいものですね?


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