2020年12月15日
「さらば昴」を考える・・・・。
「昴」はヒット曲であり評価も高い楽曲で、谷村新司氏の代表作でもある・・・。
目を閉じて 何も見えず 悲しくて目を開ければ
荒野に向かう道より 他に見えるものはなし
ああ 砕け散る宿命の星たちよ
せめて密やかに この身を照らせよ
我は行く 蒼白き頬のままで
我は行く さらば昴よ
呼吸をすれば胸の中 凩は吠き続ける
されど我が胸は熱く 夢を追い続けるなり
ああ さんざめく 名も無き星たちよ
せめて鮮やかに その身を終われよ
我も行く 心の命ずるままに
我も行く さらば昴よ
ああ いつの日か誰かがこの道を
ああ いつの日か誰かがこの道を
我は行く 蒼白き頬のままで
我は行く さらば昴よ
我は行く さらば昴よ
この「昴」に書かれた詩は一見謎な部分もあり、その曲の発表以来多くの解釈を皆さま見聞きしたかもしれませんね・・・。
作詞作曲をした谷村新司氏によれば・・・、「プレアデスの意識ある存在からの啓示」・・・とか言うトンデモな発言もありますが、そんな作り話を真に受ける私ではない。(日本語の「昴」は地球から443光年離れたところに在るプレアデス開散星団を示す言葉)
「さらば昴」と言うフレーズが先ず最初にインスピレーションとして突然浮かんできたと谷村氏言っていますが、まあそれはままあり得ることとしてもね・・・・。
また、石川啄木の歌に酷似している部分については、谷村氏は啄木の歌は学生時代に読んだというより食べたとおっしゃる・・・・。
そしてそれが消化されて詩や曲となって出てきたとか言ってます・・・じゃあこの「昴」という詩はウンコということでしょうか?・・・笑。
呼吸(いき)すれば、
胸の中(うち)にて鳴る音あり。
凩(こがらし)よりもさびしきその音!
― ― ― ― ― ― ― ―
眼閉づれど、
心にうかぶ何もなし。
さびしくも、また、眼をあけるかな。
上の歌は石川啄木が書いた最後の二首でありますから、死の直前の作品に外なりません・・・・。
この「昴」と言う曲がヒットし、後になって、谷村氏はプレアデスからの意識在る存在からの語りかけのことや、更に20年も後に「蒼白き頬のままで」の意味について触れています。蒼白き頬はヒンドゥー教のシバ神の蒼い顔のことだとおっしゃる・・・orz。
所詮後付けのお話ですから、取って付けたような話ですし、宇宙からの脳への直接の通信とかは何?・・・・笑。
所で・・・、御存じの方も多いはずですが、石川啄木は「スバル」という文学雑誌の創刊号の発行人です。
谷村新司氏の作詞になる「昴」の詩の中には啄木の辞世の歌ともいえる2首の歌が明らかに埋め込まれていて、更に啄木はそれらの歌を書いた直後にこの世を去っているわけで、言うなれば「さらばスバル」を地で行ったわけですよ。
谷村氏が何を言おうと勝手ですが、そのことと無関係な説明をしても、「はあ?」と言う印象しか私には感じません。「なんだそりゃ?」と言う印象ですね。
だから、「蒼白き頬のままで」と言うフレーズは、まさに死にゆく人間の顔色のイメージでしょう?
ああ 砕け散る宿命の星たちよ せめて密やかに この身を照らせよ
こういう表現も、星を擬人化していて、死にゆく石川啄木の最後の二首の歌を示して、そこに光を当てようしている様ですが「この身」ならば「荒野に向かう道より 他に見えるものはなし」と言っている人のことを指し示すことになるから、プレアデス(スバル)よ、この私(啄木)をすこしだけその光で照らしておくれ、と言う意味になる。
後に「その身を終われよ」と言っている名も無き星とスバルは違う星で、星々もまた死んでゆくことを示して人との共通点を歌っている。
それだけではなく、この「昴」の詩全体を見てみれば、結核に倒れ、若くしてこの世を去ってゆく啄木の最後の輝きの様と宇宙の星々の運命とを対比的に捉えて、啄木の心持を想像して書かれた詩であると私は確信している。
それなのに、なぜ谷村氏があえてバレバレの頓珍漢な出まかせを言うのか?
詩は盗作では?と言う批判を否定したいのか?・・・まあ、「今、まさに死にゆく石川啄木をモチーフにした詩です。」なんて、恐れ多くて普通言えないわな~・・・、ストレートに言うには石川啄木が文芸人として巨人であり過ぎるという事もあるのでしょう・・・。
追伸:私は「昴」と言う楽曲が嫌いではありませんし、アリスや谷村新司氏を特に嫌ってもいませんでした。
「昴」は楽曲としてそれだけをみれば、大陸的な雰囲気を醸すメロディーと詩のマッチングも良いと思います。
ですから、谷村新司氏は「昴」の詩が石川啄木の歌に影響を受けていると言う事を認めた上で、他に何も語るべきではなかったと思います・・・・。
「言葉多ければ虚しさが増す。」(聖書より)・・・とか言いますね。
石川啄木の最後の歌とその歌の書かれた状況に敬意を示すべきであり、作詞のヒントとして存在した事柄を、一度自分の中に知識として取り込んだものが出てくる場合は真似や盗作ではないと強弁する姿勢は石川啄木への敬意を著しく欠いている。
更にプレアデスは財の星であり、つまり「昴」は物質文明を意味しているとか、「蒼白き頬」とはシバ神の顔の色であり、シバ神が破壊と再生の神であるところから、それらを合わせて「さらば昴」の意味は物質文明の呪縛を破壊し別れを告げるという意味だとか、等の発言もある。
そもそもこの詩は、啓示的に頭の中に降りてきたものだと言い、何故か解らないけれど宇宙の何物かによるテレパシーでの通信があるとか、他でも、尤もらしく聞こえる理由を後付けして行こうという言い訳の手法そのものはたいそう見苦しいもので、それらを書いた本を発行してしまったという(「谷村新司の不思議すぎる話」)、そこまでの自己弁護を聞くと本当に悲しくなるから・・・「昴」と言う楽曲のファンである私にすれば、ぜひそういう心根を改めて、石川啄木への敬意を先ず表して欲しいと思う。
「言葉多ければ尚墓穴を掘るが如し」これ、私が今日作った言葉です・・・笑。
ブログ一覧 |
思う事 | 日記
Posted at
2020/12/15 21:00:26
今、あなたにおすすめ