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2016年04月10日 イイね!

普遍的「正しさ」など殆ど無いと私は考えている。

国家間において争いなどをしなくなるには互いに理解を深め、可能な限り同一の価値観を持たねば難しいかもしれない・・・。

すべての人々が共通の価値観に到達するためには、人類は宗教を一つの歴史的な思想ととらえるか、さもなくば、捨てねばならないことになるだろう。

なぜなら、宗教のような精神的染色は、あたかもOSのフォーマットを行うように基本的思考の基盤となる重要な部分を深く心に沈着させてしまい、一度染色を受ければ、その概念からほとんど抜け出られなくなる恐れが大きいからに他ならない。

うまく表現できないが、ほぼ不可逆な精神的基盤教育を行うこと自体が犯罪的であり、非人道的行為であると言って差し支えないと私は考えている。

つまり、どの宗教のどんな教えが人間にとって災いとなるとかいう問題ではなく、宗教とは無関係であったとしても、教育する側のスタンスとして必要なことは、どんな教えも常に誤りを含んでいて、絶対的なものなど無いという前提に立つ教育をしなくてはならないということだ。
したがって、この時点でほとんどの宗教による教育は諦めねばならなくなるだろう。

そもそも、人の行動というものは自分の心の中で、自分と自分の子孫が優位に生きられるような本能的な反応と、宗教心のように、先達に教えられた正義を尊ぶ論理的行動が相互に自分を支配して決められていると言って差し支えないだろうから、何が正義かという部分で人類が価値観を共有していなくては、衝突も起きるし、解り合うこともままならないはずなのだ。

生物にとって己や己の子孫がより優位に生存できるようにふるまうことを禁じることは出来ないし、実際本能的に人は身勝手で利己的な判断で行動するが、同時に自分一人があまりに利己的にふるまえば同族の集団の中でさえ嫌われ、或いは恐れられて、集団から排斥され一人では生きづらくなることにもなる。それが歯止めとなって人は少し論理的になって不利が己に及ばないように自分を制御することになるか、あるいは己の強さに賭けて集団のすべてを支配する方法で己の我を通すかのどちらかになりがちだ。

原始の時代と現代をそうして比べてみると、ほとんど変わりもなく人類はその点でほとんど進歩していないことが判るだろう。

個人は社会と取引とも言い得る契約を始め、やがてそれは法という形にまで成熟して行くことになるのだが、それでも人間の心は生物の本能に多く支配されていて、何人もそこから完全に脱することは宿命的に出来ないのも事実ではないかと思う。

更に脱宗教ということが人類にとってどれほど困難なことか、私の想像をはるかに超えるものであろうと思う。

それを思えば、今の日本人の多くが無神論者の仲間に組み入れられるという事実は一つの可能性を示すものであると言えるかもしれないが、この国は戦争に敗れたことで、それまで信じていた精神文化の多くを失ったことによって今のマインドに至っていることを考慮しなくてはならないだろう。

今ここで、宗教的教育をこの地球から消滅させる手立てについて語るのは、大きな徒労にも思えるので別の機会に譲るが、今日ここで言っておくべきことを書いてみよう。

人にとって正しいこと、正義とはどこから生まれてくるものだろうか、少し考えてみてもらいたいのです。

実はこの「正義」という観念こそが戦争などの起きる大きな原因になっていると私は感じています。

なぜならここまで書いたように、「正義」という観念は学習によって得る後天的なもので、多くは先達からの教えによって育まれる偏向している可能性のある価値観念だからです。

それは原始の時代から生命が持っている生存するために反応することの正当性に結局は繋がって行くのだが、生存するための止むを得ない行為とは別の次元であることも理解してください。
ここで私が言う「正義」とは極限的生存権の主張のことではなく、選択の余地のある「べき論」としての正しさの事であります。

人は、〇〇〇すべきであるというような教えであったり、〇〇〇してはならないと言った教えによる何らかの「正しさ」という観念によって心を強くし、何事かを成し遂げる原動力になっていることも有るでしょう。しかし「正しい考えに基づく行為は正しい行為である」と、短絡的に主張し行動するなら、私は地球人類に平和は永遠にやってこないのではないかと思ったのです。

つまり、「正しさ」というものは普遍的では無い。ということは、自分にとっては正しく思えることでも、他の誰かにとってそれは悪しき事、といった事例も起きて、考え方の異なる誰かを傷つける結果になっていることも有るということです。

正しければ、間違った人を傷つけても良いものですか?自分は正しいからと邪悪な存在に見える誰かを叩きのめしてもかまわないでしょうか?

正しさとは自分の意識や観念の中の物であり、普遍的なものではあり得ません。それだけでなく、正しさに対立する側を時に悪と決めつけ、そう呼んでしまえば、悪は裁かれるべきであるし、悪は排除すべきといった考えに傾きやすくなり、正しくないものは罰せられてしかるべきだから、公開処刑のごとく批判されても当然だ。といった感覚に陥り易く、自分が正しいと確信すればするほど相手に対する思いやりを欠いてしまい、相手の心や立場をないがしろにしてしまいがちになります。

国家間で考えれば、正義は我が国にあると確信する時、邪悪に見える敵対する国を軍事的に制圧して従わせることも正当なことにしてしまうのです。

「自分は正しい」という意識は、人の心に力を与えはしますが、その正しさとは自分の心の中のものであって普遍的なものではないのだから、少しだけ見方を変えれば身勝手な思い込みのようなものでしかないと言っても良いのです。
当然のことながら、正しければ正しくない者にダメージを与えても良いという権利が生じるわけではありませんね。

必要なことは、間違っていると思える者と異なっている考えや言い分について互いに話し合い、問題の解決を図ることです。「物事は正しいことと間違ったことの二つしか無い」等ということは殆ど無いではないですか。
自分が正しいと強く思えば思うほど、多くの場合解決はより困難なものになって行くのです。自分は正しいと思い込む程厄介なことは他にありませんね。

身近な諍いも国家間の諍いも同じです。正しい側は何をしても許されるということでは全く無いし、相手は相手の論理では正しいことが殆どなのです。先ずは対峙する者も自分と同格の人間であると言う事を忘れないことです。

今日言うべきことは・・・、「間違っていると思える相手にも敬意を忘れてはならない」ということです。
Posted at 2016/04/10 18:45:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | 哲学 | 日記

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