2017年10月21日
最近、すぐに切れるドライバーの起こす恫喝や妨害行為が問題になっている・・・。
怒りの表現は人によっていろいろとあろうけれど、どう見ても本来不可避なものではないと思う。
何に対して怒るか?なぜ怒るか、どのように怒りを表現するかも、千差万別でお国柄といった地域差もあり、個人差も非常に大きいのだ。
そのことから、「怒り」とは、人間の持っている生存本能と関係が全く無いとは言わないが、生まれながらに備わった先天的気質と言うより、生後に育まれた環境因子によるもので、自己の精神構造と人間的な成熟度に最も影響される感受と反応の表現形態と言うことが出来るだろうと思う。
人間としての成熟度に多く依存することであり、そのときの自分の心持ちを如何表現すべきかと言う事について、己の嗜好や習慣にも左右される自己表現方法のひとつと言えるし、その表現の強度は、怒って見せる本人が調節可能なのであり、いわば芝居をしていることに限りなく近いものであろう。
怒りと、怒りの表現は決して同一のものではなく、怒りに繋がる原因も、それを感受した人の人としての成熟度によっては笑いに繋がることもあるぐらいのことなのだ。
そうして考えてみると気づくのだが、怒る人は他人を責める事で自分のストレスを解消しようとするように見えなくも無いが如何だろう?
つまり、自分の意にそぐわない何事かがそこにある時も、冷静且公平な思考と状況判断で事の真相を見抜き、それがその時解決すべき問題であるなら、他人をむやみに叱責せず、その時とその後を鑑みて策を講じるのが成熟した人間の行いと言うものではないだろうか。
早い話が、すぐに怒り出す人と言うのは、我侭で独善的であり狭量にして他人の心を思い計ることが出来ず、自分の心を上手く制御できない人間の特徴と言えるのではないだろうか。
世の中の風潮として、人の怒りと言うものは、有る程度仕方ないもので、怒っても当然なこと、怒られても仕方ないこと・・・と言ったことがあると認知されているところもあり、そのほうが人間的だとさえ言われることもある位だから、怒ることは即罪悪ではないし、直ちに非難に晒されるということも無かったりする。
また、既存の人間関係の中で上位の者が下位の者に対して怒るのと、その逆の時では、結果に大きな差が生じることは皆暗黙のうちに承知しているようにも見えるから、怒ってみせる事が出来るのは立場のより強い側に偏っていることも事実であり、立場の弱い側はその不公平の怒りをこらえなくてはならないことも多いのである。
いろいろと考えてみると、「怒り」とは、心に生じた攻撃性の感情であり、「怒る」という表現行為は、己の身と心に起きたストレスを解消する手段として存在するものと、他者を強く諭す、或いは従わせる目的があろうが、最も愚劣なことは、他者を威圧し、畏怖あるいは呆れさせるという方法で自分の我を通す目的に使われることだ。
人の、怒りを如何表現するか?と言う部分の習得は、この世界に誕生してからの生育環境に恐らく100%依存していて、その多くは身近な親兄弟の有様から自然と学ぶことになるはずです。
気が短く瞬間湯沸かし器のような反応をする親に育てられれば、その子供は、そういう親の対応を無意識のうちに取り入れて、いつしか同じような調子、強さで怒りを表現したりするようになり易いだろう。
反対に、さまざまな時に感情的にならず、冷静に真相を知る努力をして子を静かに諭すような親に育まれていれば怒りを爆発させると言うことを殆ど知らずに成長する人も居て、きっと親に似て温和な印象の人間が出来上がる可能性が高いと思える。
「三つ子の魂百までも・・・・」そんな諺が脳裏に浮かびます・・・・・。
もし、私のこうした考えが誤りでないとすれば、怒り易い人が多い国ではそれを改めるのはなかなか大変なことだろうと感じる。
つまり、親子にまたがる伝承によって培われる気性のような性格は、幼少期の生育環境に因るのだとしたら、何世代にも渡る親たちの知的な成熟度が原因になると言うことであり、学校教育などで修正できる部分は少ないかもしれないからだ・・・。
要するに国を挙げて、国民の知的な意識レベルを引き上げる努力をするほかに方法は無く、それは取りも直さず、志の高い統治者が質の高い政治を数世代に渡って安定して続けることでしか実現させられないことかも知れず、民の意識の成熟度というのは、その国としての伝統的なレベルを映す鏡と言うことなのだ。
先ずは、怒りに身を任すことは恥ずべき未熟と知らねばならない・・・・。私はそんな風に思うのです。
Posted at 2017/10/22 00:07:28 | |
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