1893年11月3日、トリノ西部のCortanzeの町で、11人兄弟の10番目としてBattista Farinaが生まれました・・
(Alfa Romeo 6C, 1935)
12歳の時から兄Giovanniが経営する整備工場で働き始め、そこで車への興味に目覚めます・・
11人兄弟の10番目でちび助(Pinin)と呼ばれたBattistaは、兄の会社で22歳まで10年働き、ボディデザインを始めました・・
(Cistalia 202, 1945)
1930年5月3日、36歳のBattistaは、TrinoにCarrozzeria Pinin Farinaを設立し、デザインと新車のボディー制作を始めました・・
(Cistalia 202, 1945)
第二次世界大戦前のカロッツェリア・ピニン・ファリーナは、ランチアやアルファ・ロメオ、キャデラックやロールス・ロイス向けにスペシャルなボディーを制作していました。
1939年、第二次大戦が始まると、従業員400人で月産150台を制作していた工場は、自動車の製造を止めざるを得なくなりました。
連合軍との戦争中は、救急車やサーチライト車を作っていましたが、空襲によって工場が破壊されてしまいました。
(Batisttaと息子Sergio)
1951年、BatisttaはEnzo Ferrariと会合を持ちます。お互いに自分の本拠地に招待しましたが、結局MonzaとTrinoの中間の街で会い、意気投合してTorinoに帰還したBattistaは、息子Sergioにこう言います。
「今日からお前がフェラーリの面倒をすべて見るんだ。」
(Ferrari 212 Inter)
1951年、フェラーリとの初めての車、212 Interを発表します・・
それ以来、2012年、Sergioの死の時まで、すべてのFerrariプロジェクトはSergioが仕切ります・・
1950年代の初めには、12歳からBattistaが10年間働いて技術を学んだ兄Giovanniの工房は、いまや格段に大きくなった弟のPinin(ちびすけ)の会社に吸収されます・・
1954年から55年にかけて、狭くなった工房を拡大するために、トリノ郊外に工場用地を購入します。
1956年の新工場発足時には1025台の生産が可能になり、フル操業した1959年には年間4000台の生産規模になりました・・
新工場がスタートした1956年、Carozzeria Pinin Farina創業者のBattistaは、大きな決断をします・・
つづく・・
Posted at 2019/02/09 01:33:10 | |
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カロッツェリア | 日記