いまから20年近く前に、多摩川のほとりに住んでいました。
東京の西の山の麓に住む前のことです。
この場所に引っ越した、当時は北米に駐在する前提で進めていたプロジェクトがなかなか進捗せず、暫定的に住んでいた多摩地区の駅前の繁華街のマンションから、自然のある場所を求めて引っ越してきました。
まだ前職に就く前の別の業界の時でしたが、30代前半から中盤に差し掛かり、ある意味一つの人生の転機だったのかも知れません。
この写真は当時通勤していた駅と当時の自宅近くの風景。
シアトル周辺に北米支社を立ち上げて、ゆくゆくは当時親しかった女性と生活しようというプランがなくなった感じなので、日本に腰を落ち着けるのかなと思い、住みやすい所、自然のあるところに引っ越しました。
この写真の対岸の端の向こう辺りに当時の私の住まいがありました。
この写真で言えば、対岸の写真が切れているあたりに、一戸建ての住まいを借りて1人で住んでいました。
英国では
3階建て+屋根裏の家に間借りして大家さんと2名で住んでいたので、仮住まいで借りていた東京近郊の街の駅前のワンルームマンションには長く住む気がしませんでした。
当時住んでいた岸のあたりから上流を見た写真。
戸建ての平屋で、1階の窓を開けると多摩川が見渡せました。
英国で4年ほど住んでいた場所の近くには
こんな公園があり、日本でも広い景色が見渡せる場所に住んでみたかったのです。
家の横の川べりにはサイクリングロードや散歩道がありました。
春には桜並木が美しかったなぁ。
桜並木や公園や球戯場やリクリエーション施設に来る車で、季節の良い土日の週末には近隣の公営駐車場は駐車待ちの車で列ができていました。
自宅の居間の窓を開けて2,3分でこのような風景でした。
この写真の左側に当時私が住んでいた一戸建ての借家がありました。
夏の深夜はやんちゃな若者が河原で禁止されている花火をして騒いだりして、注意しても聞かない場合は、近所のいかつい兄ちゃんと追い掛け回したりw
2時3時頃の真夜中に大騒ぎするんですよ、その手の連中はw
このような堰では釣りをする人も多く見かけました。
最寄りの駅近くから上流を見た光景。
当時は新宿にある会社に勤めていました。
アメリカ出張がない時は、フレキシブルタイムで朝11時から出社していました。
秋から春先までの空気が澄んでいる期間は、河原から富士山がよく見えました。
この河原のあばら家に移り住んだ2年目に、当時勤めていたゲーム会社を辞め、いまの業界に転職しました。
前の業界では、ビルゲイツさんや孫正義さん、テトリスの作者のバジトノフ氏と会ったりして(いずれも一度きりの機会でしたが)、後から思えば有意義な体験を沢山させて頂きました。有難う御座いました。
住まいの横の多摩川沿いからは、
冬にはほぼ毎日、晴天の日は富士山が大きく見えました。
なお、ここにある写真はすべてネットから拝借しました。
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先日、以前の住まいの山の麓の住まいを再訪する途中に、その前に住んでいたこの川沿いの場所を10数年ぶりに訪問しました。
私が30代中半から40代前半まで住んでいた場所。
30代中後半に今の業界に入って以前の会社の欧州市場を開拓するようになってからは、アメリカ訪問時代よりより自宅に帰れなくなり、多い時は2ヶ月に1回、2週間ずつ以上欧州各地を行商していました。
それ以外の時は、国内の北は岩手から南は鹿児島まで、毎月1回顧客巡回をしていました。
その頃から自宅には月に数日しか帰らなくなって、後から振り返ると、プライベートの時間がほとんど皆無になっていきました。
その頃、いまの業界に入った頃に親しくなった人とも、3年近く多忙なすれ違いが続き、疎遠になってしまいました。
その後も、月に数日しか休めなかったため、数年後の正月休暇明けに過労で倒れて入院したり、個人的な時間が皆無で仕事だけの人生になって行った気がします。
いま振り返ればこの頃も私の人生の転機だったような気がします。
それから15年以上の間、私はプライベート皆無の仕事だけの生活になってしまいました。
思い起こしてみれば、この場所は、いまから45年近く前のユーミンの名曲の場所でした。
右には競馬場、左にビール工場。そのビール工場から数分で多摩川の河川敷になります。
中学生の時に聞いていたユーミンの歌、その歌詞の舞台にその20年後に住むようになるとは、大阪出身の私には想像がつくわけもありませんでした。
(その7年後には、ユーミンの地元の自治体に、10数年後には海の見える午後の自治体に、、)
ビール工場の左には中央卸売市場があり、その中には時々TVで紹介されるマグロの大盛り丼のお店があります。
この場所には7年くらい居住しましたが、結局競馬場には一度も行かず(興味はありましたが)、ビール工場には友人が来た時に1度だけ見学に、卸売市場にも1度だけマグロ丼を食べに行っただけでした。
そんな河川敷の横に建っていた三丁目の夕日のような昭和感のある古い戸建て賃貸群。
そんな建物も、競馬場の馬主だった大家さんのおばあさんがなくなられて、大家さんの住まいと共に立ち退きの対象になり、引っ越すことになりました。
そのあばら家に住み始めたころに数年間親しかった人が旧帝大医学部の准教授になっていることを知りました。あれから20年余り。月日の経つのは早いです。
立ち退きの後、今は河岸の道路と公園になっています。
私の30代中盤に差し掛かる頃から40歳前半に渡って住んでいた思い出の場所でした。