2016年08月05日
豊臣秀頼に生き残る道はあったか。(番外編)
秀吉君が死んだ後の豊臣氏に生き残る道はあったのかと思うとまずなかったと言うのが正直なところだと思う。秀吉君は晩年は自分の権力の向上ばかりに意を用いて政権の安定を図らなかった。
元々、親族も少なく、譜代の家臣もいない政権基盤の弱い豊臣政権だから石田、大谷、加藤、福島、浅野などの子飼いを固めて大きな領地を与え、家康タヌキに備えるか、元気なうちに何でもいいから難癖をつけても家康タヌキをつぶしておくかすべきだっただろう。
秀吉君が権力志向が強かったのは頭の中に常に超すに超せない信長さんがいたからだろう。最も危ない敵に250万石も与えて自分の死後を頼んだのはやはりこれと言う人物がいなかったからだろうか。秀次君に継がせておいたら豊臣はしばらく続いただろうが、秀頼君の出番はなかっただろう。
秀吉君の死後、家康タヌキはせっせと豊臣政権の簒奪を開始する。それに気づいた三成君はこれを止めようと躍起になるが、なんと言っても本家本元の淀さんが世の中を何も見ていないのではどうしようもない。また、側近は凡人ばかりでこれまた頼りにはならない。俗に秀頼君は三成君の子とか言うが、そんなに淀さんと三成君が親しければ歴史は変わっていたはずだ。
豊臣氏が復権する最後のチャンスは関ケ原の戦い、ここで毛利辺りに後見をさせて秀頼君を関ケ原まで押し出して家康タヌキと戦わせるか、せめて影武者と千成瓢箪の馬印だけでも押し出すとかすれば、あの戦いの帰趨は全く変わっただろう。関ケ原の敗戦で宇喜多、小西、石田、大谷などの親豊臣勢力が壊滅してもう豊臣に生き残る道はなくなった。
最後の最後に乾坤一擲、家康タヌキと刺し違える機会は大坂冬の陣でここで大砲の弾くらいでガタガタしないで邪魔な淀さんなどは地下壕にでも幽閉しておいて決戦を寒中の2月末辺りまで引っ張っておいて一気に家康タヌキの本陣に向けて攻撃をかければあるいは首くらいは取れたかもしれない。
徳川方は20万の兵力を野外に留め置いていたが、食料事情など兵站補給は相当に悪かったようだから家康タヌキも和睦を急いだのだろう。しかし、和睦と聞いて豊臣方は誰もが驚いたと言うが、味方が苦しい時は敵も苦しいので戦いでちょっと苦しくなったからと言ってすぐにへこたれていたら勝機などつかめるはずもない。ただ、豊臣方には家康タヌキに内通しているものが大勢いたと言うので相当に秘密保持を厳格にしないとこれも難しいだろう。
最後の最後は夏の陣、もうどうにもならない状況ならとにかく全軍が一丸となって家康タヌキの本陣へ突撃してタヌキの首を取ることだけに専念する。真田勢だけであれだけできたのだから残存全軍が突撃すればタヌキの首くらいは可能だったかもしれない。
ただ、いずれにしても秀頼君本人が陣頭に立つことが絶対条件であるが、結局一度も前線に出なかったと言うからやはり滅びるべくして滅んだのだろう。豊臣滅亡に一番貢献したのは淀さんでこの女がしゃしゃり出なければ、あるいはもっとしっかりと世の中の成り行きを見て秀頼君を一人前の武将として育てていればまた少しは違ったかもしれない。
秀頼君はなかなかの名君だったと言う話もあるが、ここと言う時に一度も前線に立たないと言うことはそれだけで名将の資格に欠ける。おっかさんが止めようが、誰が止めようが、男は命を懸けなくてはならない時がある。一軍の将ともなればましてのこと、それがおっかさんと一緒に城の奥にこもっていたのではやはり豊臣に生き残る目はなかったのだろう。
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2016/08/05 15:38:42
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