2015年07月18日
あり得ないことが、(10)
ばかなことをした自分にちょっとばかり自己嫌悪を感じたのを拭い去るためにコーヒーを飲みながらタバコをふかして一息入れた後、また語学学習と語彙の習得のことを考え始めた。ある程度素地がある者相手の講習なら語彙の強化なんてことはこちらが考えなくても良いのかも知れないが、中級以下のクラスでは何らかの方法で語彙を強化することは必須だった。その方法も忍耐が必要な正攻法で記憶していく以外には良い方法は思いつかなかった。
翌日出社すると周囲や上司にそれとなくこの件を投げかけてみたが、やはり思ったようにみな語彙を増やすために何らかの対策の必要性を認めながら同時に商品としての営業性つまり売り易さも考えておくべきだと申し立てた。
「確かに遠回りでもそれが上達の一番確実な方法であることは誰も認めるところではあるんだけど商品性としては一歩も二歩も下がってしまう。つまり花がないんだな。単語学習と言うやつは。だからどこもその点は目を瞑って受講者の努力に期待してということでお茶を濁してしまう。本当ならビジネス英会話とか商業英会話とか貿易英会話とかそんなものは存在しないのであってきちんと語学力をつけていれば幾つかの業務に関する特殊な単語だけを覚えておけばそれで十分なわけだ。大体英語がきちんと出来ない者にある特殊な会話や単語を教えても意味がないわけで要はこの商売は語学の学習にネイティブに習うだの外国で英語を覚えようだの効果のほどはともかくいろいろと夢や花を持たせて売り込んでいるんだからな。学習の効果は二の次で要は自分が外人相手に滑らかに英語を話しているところを想像させる、そういう夢と花を売る商売なんだよ。そして結果は受講者の努力に委ねることに尽きるんだ。そういういい加減なところがあるのがこの商売なんだ。だから効果と夢花の部分をうまく調和させていかないとな。その辺はよく分かってもらっているんだろうけど。」
課長様は現実を踏まえた極めて妥当かつ現実的な意見を披瀝した。
「確かにそれはそうだと思いますけどそれを何とか夢も花もそして効果もあるものを考えるのが私たちの仕事だと思いますけど。」
よせば良いのにまた余計なことを言ってしまったと言葉を口に出してから反省した。
「それではそれも合わせてひとつ考えてみてくれ。夢も花もそして効果もある英語学習プログラムを。」
ちょっと冷たく言い放たれた手前僕も引っ込みがつかなくなって「分かりました。」と言って自分の部屋に戻った。僕は何となくインターネットで単語学習の項目を検索しながら、しばらく時を過ごした。もう何年もずい分長いこと佐山芳恵の体に住み着いて佐山芳恵を演じているような気がするが、女になってまだほんの数週間しか経っていなかった。そして困ったことにこの体の持ち主が変わってしまったことを知らない馬の骨氏に自存を脅かされる恐怖の週末がまたやって来ようとしていた。花も夢もありそして効果のある単語学習よりもそれこそ今そこにある危機を避けることが僕には火急の課題だった。花も夢もそして効果もある中年男撃退法なんて講座があれば藁にも縋る気持ちで受講したかも知れない。
突然机の上においた携帯が光り始めた。メールが着信したようだった。僕は体を揺するような動悸を堪えて着信したメールを確認した。やはり馬の骨氏からのメールだった。息を詰めてメールを開くと夢のような文字が目に入った。今週はどうしても拠所ない用事で一緒に過ごせない。せっかくの約束で僕いや佐山芳恵も元気になったようなのに申し訳ないと馬の骨氏は謝罪していた。謝罪なんてとんでもない。感謝状でも上申したいくらいありがたいことだと僕は小躍りした。どんな拠所ない理由なのかは書かれてはいなかったが、それがどんなに拠所なかろうが僕にはどうでもいいことだった。とにかくこれで人間の尊厳の危機に直面しながらぎりぎりの外交交渉を続けるという甚だ忍耐の要る週末を過ごさなくても良いということは僕には慶賀の至りだった。
メールはその後僕の馬の骨氏に対する態度への批判が書き綴られていた。ついこの間僕の腕の中で「あなたのそばを離れたくない。」と言ったお前はどこに言ってしまったんだと馬の骨氏は嘆いていた。どこに行ったのかそんなことはお前よりも僕の方が聞きたい。大体佐山芳恵という女も物事の成り行きを良く考えて言葉を発するものだ。その感情のみに支配された軽はずみな発言で苦痛を味わっている人間がどれほどいると思うのか。しかもあの馬の骨氏にはどうも複数の女性がいるようなうわさもあるんだぞ。それを知ってか知らずか軽率にもほどがあると叱ってやった。
僕はさらっと『あら、お忙しいのね。徒然草の喩えのとおり変わらない週末が巡ってくるかどうかは分からないけどとにかく週末はまた来るのよ。』というこれもまた読み方によっては宣戦布告とも取れるメールを組むとさっさと送信してしまった。予想したとおりああだこうだというメールが送られてきた。外見は佐山芳恵かもしれないが、女子更衣室では手当たり次第周りにいる女性に抱きつきたくなってしまうし、自分の、自分のというには若干異論もあるが、とにかく自分が使っている体の一部を見てさえどきどきしてしまうような純粋の男に何と言って来てもそれは徒労と言う以外の何物でもないことを馬の骨氏は良く知るべきだ。
しかし自分で言うのもなんだが、男と女なんてものはずい分ややこしくしかも危うい関係をこれまたずい分とエネルギーを消費しながら維持しているのだとつくづく知らされた。これに関しては男であった時に自分自身も経験しているのだし他人様のことをとやかく言える立場でもないが、こんなに何度もメールを送ってくるだけでもずい分な労力だろう。今回は特殊事情なのだろうしその点は馬の骨氏に同情すべき点がないでもないが、それにしても嫌だといっているのだからさらりと方向転換できないものなのか。お互いに上着を着替えるように相手を変えるような年でもないのだろうが、それにしても客観的な検討を加えてみれば馬の骨氏にしてもその気になれば別の相手が見つからないような男ではないし実際に複数の女性とのうわさもあるのだからそちらの方との関係維持に力を注ぐべきではないだろうか。この先どこまで佐山芳恵で生きなくてはいけないのかそれは分からないが、この関係が修復されて再び馬の骨氏の腕の中でまどろむことはあり得ないということは明確な事実だ。それを理解してきれいに身を引いていただきたいというのが僕の本音だった。
そう言えば女の体になって慌てふためいて性欲なんか意識する間がなかったかというとそうでもない。何しろ男子禁制の場所に出入り勝手放題、見たい放題、そして触り放題、ちょっとこれは問題があるが、とにかく女の体に男の意識で性欲を感じまくっていた。ただ女の体の感覚を試すことには多いに躊躇いがあった。男相手なんて以ての外だし女を相手にすることは僕自身はかまわないが、世間体が問題だった。その手の女を探す方法はあるのだろうけどわざわざそこまでする気も起きなかった。自分でという方法もあるのだろうけど何となく人様の体という意識もあり、またその手のことは特に男の場合とさほどの差もないだろうという意識もないではなかったが、それよりも無闇に刺激をして佐山芳恵の潜在意識を呼び起こして馬の骨氏を呼び寄せたりすると極めて困ったことになるというのも躊躇う理由の一つだった。そんなこんなでこの週末はゆっくりと惰眠をむさぼることにして夜更けのベッドに横になった。
ブログ一覧 |
小説 | 日記
Posted at
2015/07/18 11:45:41
今、あなたにおすすめ