2015年09月08日
あり得ないことが、(27)
最初の頃、一番困ったのは化粧と下着と長い髪、そして生理の処理だったが、すぐに化粧は必要最小限と割り切った。下着はとにかく男物とは違って種類が豊富なので選び方によっては扱い易い物を手にすることはそんなに難しいことではなかった。髪の手入れもほどほどに短くしてしまえば負担はかなり軽減された。
しかし生理だけはこれはもうそういうものと諦める以外にはなかった。子供を生むなんてことは死刑判決を受けるようなものだし、第一もしも子供が出来るような行為をするくらいなら本当に死刑にしてもらっても良いように思えるくらいのものだから生理なんぞなくなってくれればそれでも一向に構わないのだが、こればかりは受け継いだこの体の資質と時間の経過に運命を委ねる以外にはなかった。
これ以外に落とし穴はスカートを穿いた時の足や裾の始末と胸に対する男女の意識の違いだった。裾の不始末で下着を人様にさらけ出すのは男でも恥とするところだが、裾の始末は最初の頃はずいぶん乱暴だったらしい。そういう点では僕にも責任の一端はあるとはいえ位置と角度によっては秘めたる場所が丸見えになるような茶筒みたいで値段ばかり高いスカートなどという衣類はさっさと見切りをつけてこの頃はパンツの類一辺倒にすることにした。
やむを得ずにスカートを纏う場合は時代錯誤と思われようと出来るだけ幅に余裕のある丈の長いものを愛用した。何も生脚さらけ出して男を惹きつける必要など何一つないのだから。
最後に一つだけ、これは対外的にかなり困ることがあるのだが、それは胸に対する男と女の意識や思い入れの違いだった。基本的に男には自分の胸に対して特段の思い入れなどない。マッチョ愛好家には厚い胸板は男らしさを示すシンボルだろうし、僕自身過去に骨折後の筋力トレーニングというやむを得ない事情で一時期ウエイトトレーニングに精を出した時期もあったのだが、自分の胸が厚くなったからと言ってその胸に思い入れもなければ誇りもなかった。
確かに胸や肩に筋肉が盛り上がっていると薄着になった時に格好はいいのだろうが、それだけが男のシンボルでもあるまいし見方によっては胸の筋肉なぞを誇示した日には逆に変態扱いでもされかねない。それに男の胸なんか人様の前にむき出しでさらけ出すのが普通なので一応乳房なんかがついていようがあまり気にならずに暑い時やリラックスしたい時などついシャツのボタンを外し過ぎて胸をはだけてしまう。
剥き出しというわけではなくブラをしているからどうと言うこともない。それでも男どもはそんな僕を見て喜ぶのだろうが、周囲の男も女も変に誤解する奴も少なくないし他人様を喜ばせるようなものでもないので意識して気をつけるようにしている。それでも本物の女性のように胸を母性のシンボルとして崇拝するような思いは俄か女には生まれては来ないだろう。いずれにしてもあまり変に目立ってはいろいろと困ることもあるので出来るだけ大人しく目立たないように生活することを心がけた。
いろいろな問題を抱えながらも女としての生活は徐々に落ち着いたものになっていった。私生活の無駄は彩となることも少なくないが、仕事はあくまで合理的にというのが僕の信条だった。客観的に判断して出来ないことは出来ない、無理なことは無理と割り切って生きることが出来た。そんなところがこの奇妙な生活を乗り切る原動力だったのかも知れない。
心の内の葛藤とは関係なく実生活は慌しく進んでいた。新しい語学コースの立ち上げは具体的なカリキュラムの構成や教材の準備、オプションの設定、講師の選定と交渉、それにコスト計算、販売価格の設定などそれぞれの分野に分かれて具体的な詰めの作業に進んでいた。僕の立場はサブコーディネーターだったが、実質的には計画の提案者としてチーフコーディネーターとさほど変わらない業務を負担させられていた。
帰宅は深夜になることもしばしばだったし休日出勤も当たり前だった。女土方はそんな僕の生活を心配していたが、僕自身元々仕事は嫌いではなかったし、考えたことが具体的な形になることにはそれなりに面白さを感じていたから忙しさは苦にはならなかった。ただ仕事が峠を過ぎた頃から右の下腹部に痛みを感じ出した。最初は月のものの直前だったので痛みはそのせいかとも思っていたが、それが終わっても痛みは取れないどころか徐々にひどくなってデスクに座っているのも苦痛になってきた。
こんなことは経験したことがなかったので僕は当然これが婦人科系の病気と思いネットで婦人科医学系ページを検索してみたが思い当たるような症状は見当たらなかった。場所が右の下腹部ということなのでもしかしたら右の卵巣辺りかとめぼしをつけたが、一体どこの病院に行ったらいいものか見当もつかず苦痛に耐える日が続いた。
そしてある週末、どうにも耐えられなくなって女土方に相談したが、その時は熱っぽくて頭が朦朧としているような状態だった。
「どうしてもっと早く相談しないのよ。何かのことがあったらどうするつもりなの。」
女土方には厳しく叱責を受けたが、彼女はてきぱきと自分が掛かりつけの個人病院に連絡を取って急患として時間外の診療予約を取ってくれた。その病院は夫婦で消化器外科と産科婦人科を開業している医院でなかなかモダンな造りの病院だったが、その時の僕には病院の造り等にかまっている余裕もなかった。
診察室に通されると間もなく僕たちと同年代の女性医師が入って来た。
「伊藤さん、今晩は。どうしたの。」
女医は女土方に向かって微笑んだ。
「先生、診察時間外にすみません。でも私じゃなくてこっちの人なんです。具合が悪いのを我慢して仕事を続けて。」
女土方がそう言うと女医は僕の方を向いた。
「どうしました。」
女医は僕の顔を覗き込むと「あら熱がありそうね。ちょっとごめんなさい。」と僕の額と喉に手を当てた。
「ずい分熱があるわね。ちょっと熱を計ってみて。」
女医は引き出しから体温計を取り出すと僕に差し出した。僕は黙って体温計を受け取るとそのまま脇に差し込んだ。女医は僕に名前や生年月日、既往症などを聞いた後で「それでと、どうなの。」と症状を聞き始めた。僕はここ十日ほど右下腹部の痛みが続き、それもだんだんひどくなっていること、おまけにここ数日は熱っぽかったことなどを伝えた。
「出血は。」
女医に聞かれたが、僕にはその言葉の意味がよく分からなかった。
『出血って鼻血かい。』
そう聞いてやろうかと思ったが、まさか鼻血のことを聞いている様でもなさそうだった。
「えっ、出血ですか。」
僕が聞き直すと女医は「ええ、出血。不整出血、性器から。」とカルテに目を落としながら同じことを繰り返したが、性器という言葉で僕はやっと女医が何を聞いているのか理解が出来た。僕は最後の月のものについて話し、それが周期的なもので異常な出血はないことを説明したが、なんだかそういうことを話すのがとても恥ずかしかった。
「最近セックスは。」
これも極めて答え難い質問だった。僕が佐山芳恵の体で生活するようになってからはセックスなどあるはずもなかったが、その前のことは僕には分からないので何とも答えようもなかったし、女土方とのことや男だった時の僕のことを話しても何の意味もないことになってしまう。それに臨床学的には必要な質問であろうことは察しがつくが、これもまた僕にとっては答えるのが恥ずかしい質問だった。
「覚えている限りありません。」
結局僕にはそう答えるより他に方法がなかったし、これは極めて客観的な回答には違いがなかった。それでも女医はこの極めて客観的な回答に満足しなかったようで念を押すように「最後は何時だったか」と聞いてきた。
「何度聞かれてもそんなこと覚えてないわ。ずっと以前だとは思うけど。」
ちょっと投げやりな言い方でそう答えると女医はカルテから顔を上げて僕の方を見た。
『数ヶ月前まではこの体の本当の持ち主が使っていたから僕には分からないよ。大体僕は男なんだから生理だの不整出血だの訳の分からないことを聞くな。それにお前とならしてやるけど男とセックスなんてする訳がないだろう。医者のくせにくだらないことを聞くな。』
いくら苛立ってもこんなことを言うわけにはいかないので僕はもう一度痛みに耐えながら医者に向かって言ってやった。
「ここ数ヶ月はないわ。その前のことは覚えていないわ。」
「ふうん。」
僕の苛立った様子を見て取ったのか女医は首をかしげながらカルテに何かを書き込んだ。この答えも僕の立場にしてみれば極めて客観的かつ的を得た答えだったが、悲しいかなそれは僕にしか分からなかった。
『もしもお前が何の前触れもなくある朝目が覚めたらいきなり男になっていたらどうするんだ。そんなことになって男の生理のことや何時セックスをしたかなんてことを聞かれたら一体どうして答えるんだ。少しは他人の立場になって考えてみろ。』
ほとんど逆恨みのようなことを心の中で呟いているとその時検温完了を知らせる体温計の電子音が響いた。僕は体温計を取り出して女医に渡す前に自分で表示された体温を確認すると三十八.九度もあった。
「ずい分高いわねえ。」
女医は体温を確認するとカルテに書き込んだ。
「じゃあちょっと見せてね。そこで検査着に着替えて。下着も取ってね。」
『何、ちょっと見せてくれって何を見せるんだ。しかも裸になれなんて。たかが腹痛だろうが。一体どこを見せろというんだ。見せろと言うなら先にお前が見せてみろ。』
突然予想もしなかったことを言われて狼狽している僕を尻目に女医は受話器を取り上げて、「坂本さん、ごめんなさい。急患なの。ちょっと降りて来て手伝ってくれない。」と電話で看護師を呼んで物事を先に進めようとしていた。
「伊藤さんはちょっと外で待ってきてくれる。」
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Posted at
2015/09/08 19:20:53
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