2015年09月09日
あり得ないことが、(28)
女医は女土方に外に出ているように促した。
「ちょっと待って。ここにいてもらってもいいかな、彼女。」
僕は女医に向かって少し雑な言い方で頼んだ。婦人科初体験の僕にしてみれば一人残されるのが少しばかり不安だったので女土方にはそばにいて欲しかった。女医はちょっと考えてから女土方の方を見た。女土方は勿論一も二もなく頷いて同意した。
「じゃあいいわ。伊藤さんはそこに座っていてね。」
女医は診察室の隅においてある椅子を示した。女土方がいるからと言ってそれで何かの状況が変わるわけでもないが、少し安心した僕は下腹部の痛みを堪えるために少し前かがみに歩いて指示された試着室のような更衣室に入った。
脱衣かごには検査着がたたんで置いてあった。それを取り上げるとよくラブホテルなどにあるような前合わせの衣類だったが、違うのは背中がホックで開けられるようになっていることと両脇に大きな切れ込みがあることだった。それもホックで止められてはいたが、診るべきところを診る時にホックを外せば簡単に捲りあげられるようになっていた。
婦人科医師とは言っても僕にとっては異性であることには違いなく、その異性に自分の体の奥まで、またここでも自分のものと言っていいのかどうかという問題はあるものの、いずれにしてもそういう部分を覗き込まれることには大いに抵抗があったが、そんなことを言っていられる場合でもないので覚悟を決めて検査着に着替えていると「失礼します。」という看護師らしい声が聞こえた。それに続いて「ごめんなさいね、急患なの。すぐに内診の準備をしてくれない。」と指示する女医の声が聞こえた。「はい」という声が聞こえた後ちょっと間を置いてから金属の触れ合う音が聞こえ出すと更衣室から出るのが余計に嫌になった。
着替えが終わると僕はバッグからティッシュを取り出して女医がちょっと見せてと言ったところにそっと当てた。女土方の家を出る時にこういうこともあるかと準備はしてきたが、念のためと心を落ち着けるつもりだった。外に出ると「先に採血と尿検査をしましょう。これにおしっこを取って来てね。」と女医に検尿カップを渡された。僕はそれを受け取ってトイレに行こうと歩き始めると女土方が寄り添って心配そうに「大丈夫。」と尋ねた。
「大丈夫よ、心配しないで。一緒にいてくれてありがとう。」
僕は女土方を振り返って微笑んだ。裸になると何だか腹が据わって何でも来るなら来て見ろという気になってきた。ところで男の時は当然のことながら通常の状態であれば検尿も方向を自由に調節できるので苦はなかったが、今回は女の体になって初めてのことなのでどうして検尿コップの中にうまく入れようかとしばし考えてしまった。結局出てくるところにコップをあてがうのがもっとも確実な方法と思いつくまでしばらくトイレで立ち尽くしてしまった。
採尿が終わって検尿カップを女医に渡すと今度は血を抜かれた。大小何本かの試験管に採血が終わるといよいよ内診となった。
「じゃああっちの診察台へね。」
僕は女医に促されて看護師の立っている脇にある診察台に上がった。特殊な嗜好の男性なら、あるいはそうでなくともその手の雑誌で見たことがあるだろうあれだった。
「じゃあ足をその台の上に乗せてください。大丈夫ですか。」
事ここに至ってはもう言いなりになる他はないと覚悟を決めて僕は言われるよりも早く台に腰掛けるとちょっと後ろを押さえながらパッという感じで両足を台の上に乗せると体を倒した。
「じゃあ楽にしていてくださいね。力を抜いてくださいね。」
看護師は優しく、しかし手慣れた事務的な口調でそう言うと丁度みぞおちのあたりにあるカーテンを引いてからハンドルを回し始めたようだった。それとともに足を乗せた台が外側に開いて行きそれとともに自然両足も大きく開いて極めて風通しがよくなった。
大方の男が好奇心を示すことであろうこの診察台に本来の内性器の診察と言う目的のために乗せられて実際に脚まで広げられた男は世界中で僕くらいのものだろう。
「ちょっと冷たいですよ。」
看護師の声が聞こえるとすぐに冷やりとした消毒液を含んだ布のようなものを感じた。これがファッションヘルスか何かならまだ救われるんだろうと思いながらまな板の鯉の心境で看護師の手際よい消毒に身を任せた。消毒が終わるころ女医が入って来た。
「じゃあ佐山さん、始めましょう。力を抜いて楽にしていてくださいね。ちょっと冷たいわよ。」
女医の声が聞こえるとまず潤滑剤のぬるりとした冷たさとともに女医の指が入って来た。
「ああ、・・・」
そんな声を出したらどうなるんだろうなんて思ったが、決して快感の類には思えない感触だった。女医の指は僕の体の奥を探っているように感じた。おそらく子宮口を触診してその閉じ具合で妊娠の有無を確認していたのだろう。
『なんで僕が子宮孔の内診を受けなきゃいけないんだ。』
情けなくて涙が出そうになったが、指を入れられるくらいの不快感は朝飯前だということを次の瞬間に思い知らされた。女医の指が出て行くとガチャガチャと言う金属が触れ合う音が聞こえた後今度はまたぬるりとした冷たさを感じた。そのぬるりがさっきとは比較にならないくらい大量に感じたので何だか嫌な予感がした。
「力を抜いてね。」
女医の声とともに今度はかなり大きな硬いものが入って来てかなり強い力で体を外に押し広げられた。
「痛くはないですか。」
女医は僕に声をかけたが、そうかと言って器具を押し入れる手を休めるわけでもなかった。やめてくれと言いたかったが、痛いと言っても止めてくれる訳でもなさそうだから仕方なく黙っていた。それにしても人の体を好き勝手にされて病気とは言え何だか腹が立ってきた。
『慣れない体を弄びやがって。一度お前にもやってやろうか。』
体の中に感じる異物感と自分の体を押し広げようと外に向かって働く力がとても不快で女医に一言文句を言ってやりたかった。その後、また何かが、多分内視鏡だろうが、体の中に入って来て中で動いているようだったが、押し広げられる不快さの方が勝っていてそっちの方は特に強い違和感や不快感はなかった。
「じゃあ終わりますから。」
女医の声が聞こえて自分の体に加えられていた力と違和感が去っていくと心が和んで体の力が抜け、それとともに僕の苦い初体験は終了した。
『力を抜けなんて言っても人間は自分の体に入ってくる異物を排出しようとする本能があるんだよ。医者のくせにそんなことも知らないのか。』
そんな逆恨みのようなことを考えていると看護師が後をタオルで拭って始末をしてくれた。そのタオルの感触が心地良くそれで僕の心も少しは和んだ。
「何も異常はないわね。どうぞ、降りてもいいですよ。妊娠も陰性だし体にも異常はないし。じゃあ佐山さん、今度はそっちのベッドに横になって。」
何が妊娠は陰性だ。当たり前だろう。死刑になる方がまだましと思うような妊娠なんかしているはずがないだろうと言いたかった。しかし佐山芳恵と馬の骨氏とはそういう関係だったのだろうからそれなりに注意はしていたんだろうが、この体を引き継いだ時に妊娠していたとしても不思議はなかった。もしも僕がそんな体を引き継いでいたら一体どうなっただろうと考えると鳥肌が立った。運命はそこまで残酷ではなかったのだなと安堵するというよりも、むしろ自分の運が良かったのではないだろうかと考えてしまうあたりが、こんなことになってもそれなりに生きていける僕の強さ、それともいい加減さというのかも知れなかった。そんなことを考えていて僕ははっと気がついた。もしかしたらこれは盲腸つまり虫垂炎ではないかと。
「これってもしかしたら虫垂炎じゃない。」
思いついたらうれしくなって僕は思わず叫んでしまった。女医は叫んだ僕の顔を見て「佐山さん、虫垂炎はまだなの。」と聞いた。これには僕も困ってしまった。何しろこの体を引き継いでから間がないのでこの体のことを聞かれても全く分からなかった。まして自分の引き継いだ体に手術痕があるかどうか確認するなんて検視のようなことをしたこともないので答えようがなかった。
「どうなの、虫垂炎、手術したことがないの。」
女医は畳み掛けるように尋ねてきた。
「よく分からないわ。」
女医は間違いなく呆けた馬鹿な女だと思っただろうが、僕はまた少し苛立ってその後に『この体はついこの間まで自分のじゃなかったんだからそんなこと分かるわけがないだろう。』とつけ加えてやりたかった。
「ううん、まあいいわ。じゃあそこに横になって。」
女医はもう一度僕を促した。そして横になった僕が着ている検査着をめくり挙げて右の下腹部を確認した。
「手術痕はないようね。じゃあちょっと我慢して。」
女医は僕の骨盤の上辺から骨盤に沿って少しづつ指をずらしながら「痛かったら言ってね。」と断ってお腹を押し始めた。どうも臍の右下辺りにかなりの範囲にわたって痛みがあった。
「もういいわ、ここで少し休んでいて。」
女医は僕を残すと誰かに電話をかけて僕の症状を伝えていた。どうも外科と言う旦那医者らしかった。
「うん、分かったわ。じゃあそうしておくから。」
女医は電話を切るとまた僕のところに戻って来た。
「佐山さん、どうも虫垂炎のようですね。白血球も二万を超えているし、症状が出た時期から考えるとちょっとやっかいかもしれないわ。外科の夫がもうすぐに戻ってくるから少し休んで待っていてくれる。これから点滴で抗生剤と痛み止めを入れるから少しは楽になると思うわ。」
女医の言葉に僕は黙って頷いた。ちょっと厄介なことと言うのは癒着や腹膜炎のことなのだろうけど少し大きく開ければ何とかなるだろうと大して心配はしなかった。ただ手術となるとあちこち弄繰り回されていやな思いもしなくてはいけないだろうし、入院することで仕事に穴を開けてしまうとそんなどうでもいいことを思い悩んでしまった。医者と入れ替わりに女土方がそばにやって来た。そして心配そうに僕を覗き込んだ。
「大丈夫よ、虫垂炎ならちょっと切ればすぐに治るから。」
僕は少しでも女土方を安心させようと彼女に向かって笑みを浮かべてそう言った。女土方は僕の額に手を置いて黙って頷いた。そこに点滴と毛布を持った看護師がやって来た。そして手際よく点滴の支度をして「寒くないですか」と聞きながら僕の下半身に毛布をかけると女医を呼んだ。こうして僕は腕に点滴の針を固定された重病人となってしまった。
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Posted at
2015/09/09 18:18:20
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