2015年10月29日
あり得ないことが、(34)
部屋に帰ると買い込んだ水を口にした。絶食と言ってもまだ半日だったが、何だかもうずい分長い間何も口にしなかったような感じがした。そしてさらりと喉を落ちていく液体の感触が何とも言えずさわやかだった。一気に全部行きたかったが、二口を飲み終えたところで止めておいた。さすがに昨日腸をぶった切られて縫い合わされたばかりのこの身としてはあまり過激なことも出来なかった。頭の中に繋いだ腸の縫い目から水が噴出している絵が浮かんだ。そんなことはなかろうとは思うが、無理は良くないのだろう。その後ベッドに横になっていると看護師が点滴のバッグをワゴンに積んで入って来た。
「佐山さん、午後からまた点滴をお願いします。」
看護師は腕に残置されたチューブに点滴のバッグを繋いだ。ゆっくり滴り落ちる輸液をしばらく見つめていたが、僕は本を手に取るとベッドに横になった。そうしてしばらく本を読んでいたがそのうちに眠ってしまったらしい。目が覚めたら女土方が戻っていてベッドの脇に座っていた。
「目が覚めた。よく休んでいるようだったからそのままにしておいたわ。どう。少しは楽になった。」
女土方は僕を見つめながら微笑んでいた。
「眠っちゃったわ。何時戻ったの。家で少しは休めた。ごめんなさいね、私のことで迷惑をかけて。もう大丈夫よ、今日は家に戻ってゆっくり休んで。」
僕は本気で言ったのだが、女土方は全く取り合おうとはしなかった。
「あなたは早く元気になることだけを考えてくれればいいのよ。今は他の事を考えちゃだめよ。」
この際だからもう余計なことは考えないで世話になろうと思いまた本を手に取った。女土方も本を手にしてページを繰っていたが、視線はほとんど僕の方を向いていた。そしてトイレに立つ他は僕のそばを片時も離れなかった。
僕自身はこれまで他人というものをあまり好意的に受け入れたことがなかった。付き合った女にしても一緒にいればその時は楽しかったが、だからと言って四六時中生活を共にすることは疎ましかった。さすがにそういう自分を我侭と思うことはあったが、それでもそういう態度を改めようとはしなかった。しかし女土方だけは別だった。彼女は僕のテリトリーを熟知しているかのように奥深くまでずかずかと踏み込んでくるような無作法はしなかった。それでいて心の奥まで届くような暖かさを感じさせてくれた。
「ねえ、ちょっと来て。」
僕は甘えた声で女土方を呼んだ。
「どうしたの。」
呼ばれて顔を寄せてきた女土方の首に手を伸ばして自分の方に抱き寄せた。女土方はベッドの脇に膝をついて横になった僕に体を寄せてきた。腕の中の女土方がとても暖かく心地良かった。僕はこれまで孤独を好んで独りで生きてきた。組織に属さず公私とも一人で生きていても不自由はなかったし孤独感やさみしさを感じたこともなかった。周囲には友人もいたしさほどむきにならなくても女は必要な時には何時も手近にいた。中にはかなり真剣に好きになった女もいなくはなかった。それでも最後の一線で踏みとどまったのは自由でありたいと言う僕の強い願望だった。年を取るに従って自他の様々な事情から周囲の人間たちは少しづつ減っていったが、それでも適当にじゃれ合う女は不自由しなかったしインターネットの劇的な普及などで却って付き合いの範囲は広がっていくような有様だった。
しかし女土方との衝撃的な出会いの後、最初は単に興味本位から女土方に近づいて行きお互いに深く触れ合うようになるとこの女の暖かさがゆっくりと僕の心に広がっていった。女土方は普段は自分の生活をきちんと守って無闇に他人の領域に踏み込んでくることもなければ何くれと自分の要求を突きつけてくることもなかった。それでいてこうして何かしら問題が起きれば本当に何のためらいもなく力みもなく自分を犠牲にして尽くしてくれた。
僕はずい分長いこと人と一緒にいて安堵感を感じるようなことはなかったが、女土方の雰囲気は僕にそれまで感じたことのないような穏やかさを与えてくれた。
『いくら強がってみても人間は独りでは生きられないのかも知れない。』
僕は深呼吸をして女土方の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
「ありがとう。あなたが好きよ。」
僕はゆっくりと吐き出す息と一緒にかすれた声で呟いた。
「ねえ、咲子、退院したら一緒に暮らそうか。」
僕は今まで何度か女土方に促されていたことを自分から切り出してみた。僕が女土方のことを「咲子」と名前で呼ぶことも滅多にないことだった。
「いいわよ。でも今は何も考えないで休みなさい。元気になったらその時に考えましょう。」
女土方は僕の提案を軽く捌いて微笑んだ。
「咲子、もう一つお願いがあるの。聞いて。」
「なあに。」
女土方は少し首を傾げた。
「何かを食べて。お願い。あなた、夕べから何も食べていないでしょう。もう私は大丈夫だから何か少しでも食べてきて。何かを買ってここで食べてもいいわ。お願いよ。」
「家で食べてきたから大丈夫よ。」
女土方は容易に腰を上げようとはしなかったが、僕が何度も繰り返して頼むと黙って頷いて「分かったわ。そうさせてもらうわ。」と微笑んだ。そして体を起こして僕の腕をそっとベッドに戻そうとして「あっ」と声を上げた。あまり腕を動かしたので点滴の針が血管を外れて腕に青黒い大きな皮下出血を作っていた。すぐにブザーを鳴らして女医に刺し換えてもらったが「あまり腕を動かしてはだめよ。」と注意されたことには二人で大笑いだった。
夕方遅くになって女土方は食事に出て行った。「すぐに帰る。」と言い残していったので本当に軽食だけですぐに帰るのだろうと思っているとずい分長いこと戻らなかった。その間に午後の回診があり傷の消毒とパッチの交換が行われた。腹を切ったのだから痛くないといえばうそになるが、体を動かせば痛みが走るもののじっとしている分には特に強い痛みは感じなかった。早々に通じもあったし傷ついた体は順調に回復しているようだった。
女は痛みに鈍感というから痛みを感じないのかと思うが、僕自身けっこう痛みには強かった。でも一昔前とは違って医者もずい分優しい。「治療なのだから痛みは我慢しろ」などとは決して言わない。痛みは出来るだけ軽減してくれようと努力する。しかもいろいろ忙しいだろうにとこっちが恐縮してしまうほど細かなことまできちんと説明もしてくれる。僕は自分で分かることは特に聞かなかったが、何度も診察室に出入りしては細々と本当に必要かなと思うようなことまでくどくど聞いている患者も少なくなかった。医者も楽な商売ではないな。口には出さなくとも僕のように心の中で毒づく患者もいることだし。
女土方は二時間以上も過ぎてからやっと戻って来た。
「何か美味しいものを食べて来た。」
今日最後の点滴バッグを腕につないでもらったばかりの僕はベッドに横になったまま女土方を迎えた。
「この近くであなたのところのチーフに会ったわ。病院の名前を聞いて様子を見に来たようよ。私も見舞いに行ったけど『点滴をして眠っている』と言われたと話したら帰ったわ。それでしばらく話を聞かされて遅くなったの。ごめんなさいね。でも何だかんだといろいろ聞かれたわ。あなたのことを。あなたに良い病院がないかと聞かれたから紹介したと答えておいたわ。病名は腹膜炎と言っておいたから合わせてね。」
「私たちがどういう関係か疑っているのかな。はっきり言ってあげれば。お互いに愛し合っているって。別に悪いことじゃないんだから。」
「そういうことでもないようだけど。それよりもあなたがずい分変わってしまったってそのことを聞きたかったようよ。それは私も時々つくづく思うけどね。私にとっては都合よく変わってくれたんだからそれはそれでいいんだけど。」
「人間何かのきっかけでがらりと変わることもあるのかもしれないわ。でも私は私だから。たとえどんなに変わったとしても。」
こういう言い方は取り様によってはいろいろな意味に取れるのだろうが、その意味では極めて客観的に真実を述べたと言っても間違いではない。まさしく人間が替わってしまったのだから。
「チーフはね、あなたがこれまでとは比較にならないくらい能力が上がって会社の仕事にも積極的になったと言っていたわ。だから変わったこと自体は彼にとっては好都合のようだけど変化があまりにも劇的過ぎると首を傾げていたわ。私だけじゃなく会社にも都合よく変わったってことね。
それでね、今度社内旅行があるでしょう。その時に是非ゆっくり話してみたいと言っていたわ。でもあなたが元気になって参加出来ればの話だけどね。」
「社内旅行って。そうなの。」
女土方は怪訝な顔をした。
「そうなのって、あなた、毎年行っているじゃないの。大好きなカラオケでいつも盛り上がっていて。今年も歌うの。でも今年はお預けかも知れないわね。」
そうか、佐山芳恵はカラオケなんてあんな馬鹿らしいものが好きなのか。大体カラオケなんて誰が考えたか知らないが、自己陶酔に浸りきって歌っているやつはいいだろう。でもうまくもない歌を聴かなければいけない者の迷惑を考えたことがあるのだろうか。喧しい、話は出来ない、その上歌の節々で拍手を要求され、あんなものを野放しにしておくことそれ自体が文化を滅ぼすようなものだと僕は思うのだが、それで楽しんでリフレッシュできるならそれはそれでいいと思う。ただ歌え歌えと無理強いは是非やめて欲しい。
まあカラオケ談義はまた後でするとして僕はこれまで会社というところに勤めたことがなかったので社内旅行などというものは言葉では知っていたが、その実態は何も知らなかった。毎日一緒に仕事をしている者達がわざわざ休みに集まって宿泊付きで出かけるというこの何とも日本的な集団順応型の行動の何が一体面白いのかというのが正直な感想だった。
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Posted at
2015/10/29 20:54:51
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