2015年12月13日
戦争になだれ込んだ軍部の狂気と言うが、狂気は軍部だけだったのか。
軍のなかの腐ったリンゴ
このところずっと船戸与一さんの『満州国演義』や辺見庸さんの『1★9★3★7』を読んでいたせいだろうか。先の戦争のことが妙に気にかかる。
前にふれたが、私は20年前、太平洋戦争に至る経緯を調べたことがある。陸軍の元エリート参謀たちに話を聞いて回った。そのとき痛感したのは、軍隊とは、正気と狂気の間をさまよう集団だということだった。
もし彼らが正気を保っていたら、あんなに広大な中国を制圧しようとしたり、圧倒的な国力の米国に戦いを挑んだりしただろうか。狂気が軍隊を覆っていたからこそ、日本は無謀な戦争に突き進んだのだろう。
問題は何が軍隊を狂わせたのか、である。それがはなはだ莫としていて、つかみどころがない。日本には、ナチスドイツの反ユダヤ主義のような明確な意志もなければ、ヒトラーのような独裁者も見当たらない。
満州事変―日中戦争の勃発―太平洋戦争へと戦線が拡大していく過程の首謀者は、その時々で顔ぶれが猫の目のように変わる。かの、悪名高い東条英機(日米開戦時の首相兼陸相)ですら、時勢に押し流される小舟のような存在でしかない。
そんなことをあれこれ考えるうち、ふと思いつき、20年前のメモを天井裏から引っ張り出した。取材に応じた元参謀たちはもうこの世にいない。メモは彼らの最晩年の声を伝える貴重な資料だった。
降り積もったほこりを払いながらメモを読むと、ある元参謀は彼らを狂わせたものを「もやもやとしたもの」と言い、別の元参謀は「精神的奇形児を生む陸軍教」と言っている。
陸軍教って? と思いながらさらにメモを読み進むうち、彼らの回想のなかに必ず登場する男が一人いるのに気づいた。
辻政信。「作戦の神様」と呼ばれた陸軍のエリート参謀(敗戦時の階級は大佐)である。
「絶対悪」が服を着て座っていた
辻は戦後、『潜行三千里』というベストセラーをものして国会議員になった。だが議員在任中の1961年、東南アジアへ向かい、ラオスで失跡した。その後の行方は今も知れない。
国会議員時代の辻に会った作家の半藤一利さんは、その時の印象を『ノモンハンの夏』(文藝春秋刊)に書いている。
眼光炯々、荒法師を思わせる相貌だが、笑うと驚くほど無邪気で、なんの疑いも抱きたくなくなるような笑顔になった、として半藤さんはこう語る。
〈議員会館の一室ではじめて対面したとき、およそ現実の人の世には存在することはないとずっと考えていた「絶対悪」が、背広姿でふわふわとしたソファに坐っているのを眼前に見るの想いを抱いたものであった〉
絶対悪――辻を表すのにこんなに的確な言葉はない。彼は多くの人々を地獄に引きずり込んだ。彼こそ陸軍教の権化だった。
私がそう思うわけを実例を挙げながら説明したい。1942年2月、日本軍が占領した直後のシンガポールで起きた出来事である。
日本軍は「敵性華僑」(日本支配に抵抗する中国系住民)の掃討作戦を発動した。その先頭に立ったのが、軍司令部の作戦参謀をつとめる辻だった。
軍は、18歳以上50歳までの男性華僑は指定場所に集合するよう布告を出した。シンガポールに当時いた18歳以上の華僑は約20万人。彼らを駆り集めて「敵性華僑」を見分けるのはほぼ不可能だったが、辻の指導を受けた警備隊は強行した。
シンガポール川東岸の検問所の分隊長は、辻に「現在までの容疑者検挙は70名」と報告すると、「何をぐずぐずしてるんだ。もっと能率よくやらんか。俺はシンガポールの人口を半分に減らそうと思ってるんだ。そのつもりで、もっとしっかりやれ」と怒鳴られたという。
シンガポール駅前広場には避難民数千人がいた。その地域を管轄する中尉は辻に「殺ってしまえ」と言われたため、上司の少佐に相談した。少佐は「残忍な辻がやりそうなことだ。彼は君らに命令する権限なんかありゃせん。その住民らは即刻退散させよ」と命じたので数千人の命が救われたという。
しかし、5ヵ所の検問で「敵性」とマークされた華僑はトラックで海岸や山林に、あるいは艀で海上に運ばれ、機関銃でなぎ倒された。犠牲者は4万人とも6000人とも言われている。
華僑虐殺から2ヵ月後、辻はフィリッピン戦線でも残忍さを発揮する。ルソン島のバターン半島に追い詰められた約7万人の米軍が投降し、数十km離れたサンフェルナンドへの移動を始めた矢先のことである。
現地の日本軍部隊に「日本軍は降伏に全面的承諾を与えていない。まだ正式に捕虜として容認されていないから、投降者は一律に射殺すべし」との大本営命令が電話で伝えられた。
連隊長が愕然として「口頭命令では実行しかねるから、正規の筆記命令で伝達せられたい」と答えると、筆記命令はついに来なかった。辻が仕掛けた口頭の偽命令だったらしい。
同じ内容の命令が他の部隊にも伝えられた。指揮官が命令を拒絶し「私を軍法会議にかけてください」と言うと、1時間後に「先ほどの電話命令は取り消す」と連絡があったという。
バターン西海岸を担当した師団参謀長は、辻から、道路に列をなす米兵たちを「殺したらどうか」と勧告され、拒否した。辻は「参謀長は腰が弱い」と罵り、師団長に同じことを進言したが「バカ、そんなことができるか」と一喝されたという。
1943年秋のビルマ戦線では、辻は英人兵士の人肉試食事件を起こしたとして、後に元上官から「人間として私は許せない」という非難も浴びている。
このほか、無残な敗北に終わったノモンハン事件(1939年)での独断専行など、辻の乱行は枚挙にいとまがない。数え切れぬほどの兵士が、彼の無謀な作戦の犠牲になった。それでも陸軍上層部は辻をかばい、彼を罰しようとしなかった。
なぜだろう? その謎を追っていくと、軍を覆い尽くした狂気の正体が見えてくる。
陸軍の士官教育は12歳から幼年学校に入校させ徹底的な陸軍軍人教育を行った。これが非常に偏った独善的な陸軍至上主義の思考を生む結果になったと言う。当時の陸軍の怪しげなところは軍を動かしているのが軍上層部の陸軍大臣や軍司令官ではなく大佐、中佐と言った軍中級幹部でそこを動かさないと軍が動かないところだったと言う。
三国同盟締結是か非かについて議論を重ねた五省会議でも一旦会議で合意した事項を、「持ち帰ったら受け入れられないと言うので合意はなかったことにしてくれ」と陸軍大臣が合意を白紙に戻すこともしばしばだったと言うが、そうした国のトップ会談の結果を受け入れなかったのは陸軍の中級幹部たちだったと言う。
こうした中級幹部は、「軍の総意」と言う言葉を使って組閣にまで干渉したので軍上層部の人事も自分たちの言うことを聞きそうな人物を据えていたようだ。辻と言う人物は陸軍の俊才だったようだが、こうした陸軍の怪しげな部分を代表するような人物であちこちで勝手に命令書を偽造して軍を動かしていたようだ。
海軍は命令系統は正常だったが、上層部には事なかれ主義者が多く、責任を負うのを極度に嫌い、「対米戦が出来ないと言えば陸軍に予算を取られてしまう」という極めて自己保身的な思想で、「和戦の決定は総理に一任」として戦争回避の最後の切り札であった海軍の義務を放棄してしまった。
軍と言う組織は戦争がなく世の中が平和であると予算も削減されるし、組織も縮小させられるのでポストも増えず出世は望めない。石原莞爾が満州国を建国して出世したことをきっかけに軍内部で、「独断先行しても結果オーライであれば認めてもらえる」という風潮が出来上がって統制が取れなくなったと言う。
もっとも戦後は軍部、特に陸軍が非難の矢面に立たされているが、外務省なども松岡外務大臣などを中心に対英米超強硬路線に染まっていたようだし、国民も、「戦争が出来ないなどと言ったら国中で暴動が起きる」と陸軍が恐れていたように対米戦回避など口にも出来ないような雰囲気が出来上がっていたと言うので戦争に向かう大きな流れが出来上がっていたのだろう。
そうした世論形成にはマスコミが大きな役割を果たしていたことは言うまでもない。軍部が、軍部がと言うが、狂気に支配されていたのは日本全体で、要するに国を挙げて対米英戦へとなだれ込んで行ったのだろう。
辻と言う軍人があれこれ勝手な行動をしながら処罰もされなかったのは陸軍の中でそれをよしとする風潮が出来上がっていたからだろう。だから辻と言う人物は決して当時の陸軍で「腐ったリンゴ」ではなかったのだろう。
軍隊や警察と言った社会の負の部分を相手に仕事をする者は自身の栄達や世間の称賛を求めて仕事をすべきではないのだろうが、野心と言うのは誰の心にも巣食う小悪魔なのかもしれない。
陸軍にも常識のある理性派が大勢いたと言うが、そうした人物は中央から遠ざけられていたようだ。もしも当時米国と和解して対米戦を回避できたとしたら、戦後の朝鮮戦争は間違いなく日本が正面に立って戦わざるを得なかっただろう。またベトナム戦争にも参戦せざるを得なかっただろうし、米ソの冷戦にももっと深くかかわらざるを得なかっただろう。もっとも日本が国民政府を支援して中国の共産化を防止していたら現在の世界地図は大きく変わっていたかもしれない。
それにしても人間と言う生き物は何とも戦いが好きな生き物だと改めて考えさせられる。せめて他人を侵さずに生きられないものだろうか。辻政信と言う人物は自分で国を動かすような才能はなく、軍と言う組織を使って独断先行で軍を動かしていた。所詮は幕僚、参謀の器でそれ以上でも以下でもなかったのだろう。
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2015/12/13 13:42:45
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