2016年01月04日
あり得ないことが、(42)
名護市を過ぎると大きな町らしい町はなくなって集落が点在する田舎町ばかりになった。街中は本土とそう変わりはなかったが、郊外に出ると明らかに本土つまり日本とは違う文化がここには存在することを認識させる生活があった。
僕は時々国道を外れては裏道に入り込んで車を停めた。見てもすぐに記憶から消えてしまう名所旧跡を見て歩くよりもこうしてその土地の生活のにおいがする裏通りの普通の街並みを見て歩くのが好きだった。美ら海水族館や今帰仁城を見て辺戸岬に近づいた頃、女土方がやっと閉じていた口を開いた。
「本当に今晩は社長と一緒に森田さんと付き合うの。」
女土方はとても不満そうだった。
「成り行きでそういうことになっちゃったんだから今更仕方ないでしょう。そんなに長い時間じゃないだろうし、まさかお兄さんの社長の前ではさすがの北の政所様も逆上もしないでしょうし。面倒だけど仕方ないわ。」
「あなたはあの人に興味があるんじゃないの。『お姉さま、きれいね。』とか言って。普通はあんなことしないわ。わざわざあんなことを。」
ほとんど感情を露わにしない冷静な女土方は北の政所様に嫉妬しているようだった。そう言えば出会った頃に『ビアンの世界でいい相手に巡り会うのはとても難しい。』と言っていた女土方の悲しそうな表情を思い出した。でもわざわざパンツまで下げて叩いたのは怒りで男の本性がむき出しになっただけで他にこれと言った理由はなかった。しかしこればかりは説明してみても混乱の度を深めるだけで言い訳にもならないので黙っておくことにした。
「あなたのことを変態とか言われて腹が立ったから向こうが手を出してくるように仕向けただけよ。まんまとこっちの挑発に乗って手を出してきたでしょう。パンツまで下げて叩いたのはその場の勢いと顔を叩かれた怒りよ。他には理由はないわ。
ねえ、あなたも今晩一緒に出てよ。お願いだから。あなたはあの人を嫌いと言うけどそれはそれなりに分からないでもないわ。きっといろいろ嫌なことがあったんだろうと思うから。でも心底悪い人はそんなにいないわ。目の前で言いたいことを言ってやれば良いじゃない。」
「あなたはあの人の意地の悪さを知らないからそんなことを言うのよ。本当に口では言えないほど陰湿なのよ。」
女土方はきっと大分北の政所様の嫌がらせに苦労したんだろう。それ以上話そうともしないで顔を逸らせて外の方を向いてしまった。
「私が一緒だから大丈夫よ。あなたに何かしようとしたらまたお尻を叩いてやるわ。ねえあなたのことは私が必ず守ってあげるから一緒に行って。私も一人じゃ心細いわ。」
これで女土方は渋々今夜同席することを承知した。心細いは女土方に対する殺し文句だった。女土方にも人情姉御的なところがあることを僕はきちんと把握していた。
「今のあなたには心細いと言う言葉は似合わないけどお互いに支え合うという約束だものね。仕方ないわ。」
僕達は海岸線から離れて安波ダムの方へと車を走らせた。ほとんど車の走らない山道だったが道路そのものはしっかりと舗装がされていた。何か珍しい生き物でも出てきそうだったが、山鳩やカラスといったどこにでもいる生き物以外は見えなかった。それでも熱帯の樹木と本土のような温帯の樹木の入り混じった山の景色は珍しかった。
小一時間でまた東シナ海側の海岸線に出た。途中大宜味村というところにある芭蕉布会館に立ち寄った。ざくりとした涼しげで素朴な手触りの布に惹かれて女土方と一緒にテーブルクロスや印鑑ケースなど何点かを買い込んだ。特に女土方は芭蕉布に魅せられたようで熱心に製作工程を眺めたりいろいろと質問をしたりしていた。僕はそこにいた猫に興味を惹かれて芭蕉布そっちのけで猫とじゃれていた。その後名護の市街に立寄ってホテルに戻ったのはもう夕方の六時に近かった。
一息入れてから社長の携帯に電話をすると意外なことに社長は会見場所をこのホテルの客室と伝えてきた。どうも社長は自腹を切ってホテルに新しく一部屋を借りたようだった。ホテルのラウンジやレストランを使って人目に留まるよりも賢明なことかも知れなかった。何と言っても今一番注目のホットな組み合わせなんだろうから人目につくところでは黒山の人だかりになってしまうかもしれない。
七時半という約束で電話を切った。そしてシャワーを浴びると身支度を整え始めた。最も身支度を整えるといってもろくな服も持っていないから大した時間もかからなかったが。ところが女土方はこの期に及んで未だに足が前に出ないようだった。どうしても気が進まないようなら一人で行ってもかまわないと思っていたのだが、女土方は一緒に行くと約束したことに拘っているようだった。
「気が進まないのならわたし一人で行くから残っていていいわよ。無理をしなくてもいいわ。私は一人で大丈夫だから。」
女土方は行くとも残るとも言わずに黙っていた。どうも北の政所様には相当にわだかまりがあるようだった。いやなことにあまり刺激を加えてもいけないと思い僕はベランダに出てコーヒーを飲みながら黙ってタバコをふかしていたが、そこに女土方がやって来た。
「タバコをちょうだい。私も行くわよ。あの人には私も一言言ってやりたいことがあるの。」
女土方は珍しく深くタバコを吸い込んでずい分長い間煙を吐き出した。それを何度か繰り返してからタバコの火をもみ消した。
「そろそろ約束の時間ね。ご馳走になりに行こうか。」
女土方はベランダから部屋に戻って行った。そしてテーブルの上のセカンドバッグとキーを取ると出口に向かって歩いて行った。僕は慌ててベランダから戻るとセカンドバッグを引っ手繰るように取り上げて女土方の後を追った。社長が指定した部屋は最上階のツインだった。呼び鈴を鳴らすとすぐに社長が出て来た。
「ああよく来てくれたね。さあどうぞ、どうぞ。」
愛想良く僕達を迎え入れてくれた社長は電話でルームサービスを頼んだ。
「冴子は間もなくここに来ると思う。冴子も驚いていたよ。あなた達が来ることを伝えたら。」
それはそうだろう。昨日あれだけの大騒ぎをしたのにその相手が雁首を揃えてやって来るというのだから驚かない方がおかしい。僕たちはリビングのテーブルに案内されて腰を下ろした。
「さあ先に始めよう。」
社長はビールやワインを運んで来た。何かと言うと大人の世界は酒だが、酒が嫌いな者にとってはノンアルコールでもいいだろうにと恨めしくなる。
「私はお酒がだめなんですが、コーヒーでもいいですか。」
僕は社長に聞いてみた。社長はすぐに電話を取ってアイスコーヒーをたくさん持ってくるようにルームサービスに伝えた。
「まあ取り敢えず最初の乾杯くらいはビールでいいかな。」
社長は缶を開けて渡してくれた。
「麦酒党に言わせればビールを缶のまま飲むなんてとんでもないことだそうであの琥珀色と白い泡を愛でながら飲むのが堪らなく良いのだそうだが、僕はこのまま飲むのが好きでね。ちょっと行儀が悪いけど片付けも簡単だし第一注がれなくて済むじゃないか。まあそんなことはいいからとにかく乾杯だ。何に乾杯かは良く分からないが、まずあなた達の日ごろの努力に敬意を表して。」
社長がそう言って缶を持ち上げた時ドアの呼び鈴が鳴った。
「冴子だ、来たな。」
社長は立ち上がってドアに走った。
「冴子、良く来てくれたな。」
社長は北の政所様を中に入れると背中を押すようにして僕たちのところへと導いて来た。北の政所様はテーブルの前で顔をこわばらせて僕たちを見下ろしていた。
「さあさあ掛けて、掛けて。もう一度乾杯だ。素敵な仲間と穏やかな時間に乾杯だ。」
社長は北の政所様にもビールを渡したが、どうも今のこの瞬間ここにいるのは「穏やかな時間でもなければ素敵な仲間でもなさそうだ」という気がした。北の政所様は社長に促されてお義理のように手に持ったビール缶を持ち上げた。
「おい冴子、お前、佐山さんにお尻を叩かれたらしいな。まだ佐山さんの手形が残っているか。」
社長はとても穏やかに微笑みながら他の者全員が凍りつくような言葉を口にした。案の定北の政所様はこわばった顔を引きつらせた。女土方は下を向いてしまったし僕にしてもどういう顔をすればいいのか分からなかった。
「あなた達は私を笑い者にするためにここに呼んだの。」
北の政所様はトンと音を響かせてビールの缶をテーブルに置いた。これ以上何か言ったら許さないと言う決意が表情ににじみ出ているのが容易に読んで取れた。
ブログ一覧 |
小説 | 日記
Posted at
2016/01/04 22:33:32
今、あなたにおすすめ