2016年02月03日
あり得ないことが、(48)
夕方散歩がてらに二人で買い物に出かけて夕食の材料を買って戻った。食事の支度は大体僕の担当だったので二人で買い物に出かけるのは久しぶりだった。大方数日分の材料を買い込んで後は足りないものがある時に買い足していたが、あまり込み入ったものや品数は作らなかった。野菜類を中心にせいぜい二、三品がいいところだった。それでも女土方は美味しいと言って食べてくれていた。
この日はブロッコリーやアスパラガスといった青野菜とキノコ類にベーコンを入れたパスタに果物という取り合わせだったが、材料を特売の安いものばかり選ぶので女土方に笑われてしまった。
僕は元来家事が嫌いではない。男だった時から食事の支度や片付けや洗濯などは丁度いい気分転換程度に思っていた。家族がいてその面倒をすべて見るというのではいい加減嫌になるかもしれないが、独りだけの身の始末なら好きなようにやればいいのだからさほどの負担でもないし、第一自分が生活する場所が片付くと言うのは気持ちのいいことだ。
食事は一、二品しか作らずしかも同じものが三回くらい続いても平気という食物鈍感症なので支度や片付けにさほど時間を必要としない。そのかわり自分の場所で自分の好きなように食事をしないと気がすまないというイヌッコロのような性格なのでちょっとの手間がかかっても自炊をしていた。
洗濯なんてちょろいものであれは機械が洗ってくれるんだから人間は干せば良いだけだ。金を掛ければ乾燥させてくれるやつもある。最も僕は洗濯機に入るものなら何でも一緒くたに洗ってしまうので嫌がる者は顔をしかめるかも知れない。でもどれもこれも自分のものなのだから構わないだろう。
アイロン掛けはちょっと修練を必要としたが、洗濯屋に出かけた時に彼らの技術を盗み取って来た。これも「いやあ、ワイシャツの袖をきれいにアイロン掛けるのが難しくてさ。」なんて呟けばすぐに秘技を教えてくれる便利な洗濯屋が近所にいたからだ。ただし女のブラウスはひらひらとひれの様なものがついていたり折り返しがあったりブラウスなのに下にパンティのようなものがついていたり複雑怪奇としか言いようがない。後天性の女の僕としては出来るだけ男物に近いのを選ばざるを得なかった。
女土方も食事にはあまり構わなかったが、どちらかと言えば薄味好みで小食だった。僕の作る料理は彼女にはやや量が多すぎるようだった。そしてこれは女の性なのかもしれないが、度々外食をしたがった。それでも僕が作ったものは何でも喜んでよく食べてくれた。
洗濯はさすがに先天性の女だけあって後天的な女の僕とは違って丁寧だった。それでも余程の物以外はみんな一緒に洗っていた。大体洗濯機にぶち込めないものは洗濯屋の世話になればよかった。そのためのプロで普通の人間が洗濯機にぶち込めないものをきれいに仕上げる技術を有するところにその存在価値もあるんだろう。
掃除などはどちらも似たり寄ったりだったが、二人とも決して杜撰な性格ではなかったから室内はほどほどに片付いて乱雑な印象はなかった。ただ僕の方が何でも物を捨てるのが女土方よりもずっと好きだった。
いらないものや使えないものを貯め込んでも何もならないというのが僕の主義だったが、最近は捨てるにもいろいろ条件があったり金がかかったりして一筋縄ではいかない。その辺に投げ出したり燃やしたりすると犯罪になってしまう。決められた時間に決められた場所に持って行くか有料の業者に処分を任せるかしか方法がないが、働いている身には時間が自由にならず捨てるのも一苦労だ。もっとも身の回りを溢れ返るほどの物に囲まれて生活してそれを何とも思わないことからして何か異常なのかも知れないが。
その晩食事も終えて僕はインターネット、女土方はテレビとそれぞれに寛いでいると女土方が突然テレビの音量を落とした。
「ねえ」
女土方は僕に話しかけて来た。
「何」
「あなたはいいわね。自分の生き方や考えをしっかり持っていて。あなたみたいな人は何があっても強いわ。私もそうなりたいな。」
僕は女土方の言葉に首を傾げてしまった。女土方も僕に負けず劣らず自分の考え方をしっかり持って自分の生き方を生きていると思っていたからだった。
「あなただってそうじゃない。十分すぎるほどしっかり生きているように思えるけど。」
「私なんかだめよ。他人に影響されないようにいつも距離を取っているの。そうでないと流されてしまいそう。今回沖縄に行ってそれがよく分かったわ。あなたは森田さんと正面から向き合って自分の生き方を主張したけれど私はトラブルにならないように後ろに下がって距離を取ってしまったわ。でもそれじゃあ問題を解決できないのよね、引きずるばかりで。」
「前に出るのも下がるのもそれぞれ意味があるし取るべき手段の一つじゃないの。あの時はあなたのことを言われて腹を立ててあんなことをしてしまったけどただ前に出ることばかりが折りこうなやり方じゃないと思うわ。下がって距離をとるのも立派な生き方だし一つの作戦だと思うわ。」
女土方は静かに首を横に振った。
「私が思うのはね、その後のことよ。あなたは状況の変化に敏感に対応して少なくとも仕事では森田さんと共同歩調を取る方向に態度を変えたわ。あんなに対立していたのにあなたは森田さんの良いところもしっかりと把握していたわ。私も分かっているの、あの人は情緒的だけれど根は悪い人ではないことを。でもね、あの感情の迸りに面と向かう勇気が出ないのよ。だからあなたの様に強くなりたいと思うわ。ついこの間までのあなたって年の割には幼さが残るような女性だったのにどうしてそんなに変わったのかしらね。何度も言うけど本当に不思議だわ。」
『何度も言うけどそれは人間が全く替わったからです。』
さすがにそうは言えないので僕は黙って笑っていた。
「あなたは穏健慎重派、私は積極果敢派、丁度良い取り合わせじゃないの、私達。」
女土方は微笑みながらゆっくり頷いた。何時も職場では淡々として表情を変えない女土方だったが、僕はたまに見せるこの女の笑顔がとても好きだった。
「自分の生き方が持てるってことはそれだけ強く生きられるってことだと思うわ。私もあなたのようにしっかりと自分を持って強く生きることが出来る様にがんばるわ。」
女土方はまたテレビの方を向いた。画面では通信販売の商品が次から次へと映し出されていた。生き方を持つ、信念を持つということが強いと考えている人間はそれなりに自分の思うところや生き方を持っている人間だから言えることだし、僕たちはそういう類に属している人種には違いなかった。
しかし、この時僕達は世の中にはそういうものを全く持ち合わせていない人種が存在していることも知らなかったし、近い将来、自分達とは全く違う価値観を身に纏って思いもかけない行動で我々を翻弄する最強最悪の敵に出くわそうとは夢にも思ってはいなかった。
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Posted at
2016/02/03 23:41:21
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