2016年03月22日
あり得ないことが、(59)
一方クレヨンは僕たちの血が滲むような努力で自分の部屋が廃棄物処理場から普通の人間が居住する部屋に戻ったのを感謝するでも喜ぶでもなくソファに体を投げ出して天井を向いてiポッドを聞いていた。
僕はまだ収まらない空きっ腹を抱えて女土方が早く来ないかと思いながらお手伝いが点けてくれた畳一畳くらいありそうな液晶テレビを見ていた。
しばらくするとチャイムが来客を告げた。でもここのチャイムは玄関ではなく門のところに誰かが来るとセンサーが反応して鳴る仕掛けなんだそうだ。それを赤外線と可視光のモニターで監視して門の開閉を行うらしい。安全と言えば安全なんだろうが、ずい分大掛かりで金がかかっていそうな仕組みだ。
モニターには女土方のスマートが場違いなほど小ぢんまりと映っていた。門の内側には駐車スペースがあって来客はそこで車を降りてインターホンで来訪の用件を告げて内門を開いてもらうようになっていた。女土方はそこで車を降りて大きなバッグを提げて歩いて来た。応接間で女土方を出迎えて一緒についてきたクレヨンを紹介した。
「あなたが澤本さんね。あなたのことはいろいろと聞いているわ。よろしくね。」
女土方はクレヨンに向かって微笑んだ。その時クレヨンが一瞬身を引いた。女土方は男の僕から見れば美人の部類に入る女だと思う。ただ、この女の笑顔は凄みがあるというか何となく底が知れない怖さがある。普段は無表情でその無表情も冷たいと言わけではないが取り付き難さがあるが、ちょっと微笑んだ顔も何とも言えない迫力がある。心は決して冷たい女でも怖い女でもないのだが、この凄みというか迫力が人をして女土方と呼ばせるのだろう。
脳みそが慢性血行不良で痺れまくっているクレヨンも本能的にそんな女土方の凄みを感じて身を引いたのだろう。こういう痺れまくりには僕のような実力行使派よりも女土方の無言の威圧の方が効き目があるのかもしれない。
「あなたにはあなたなりの生き方があるのかもしれないけど他人に負担をかけるのは良くないわ。どこまで自分の責任で自分の生き方を通せるのか良く考えておかないと。自分の生き方を通すにはその辺のバランスが大事だと思うわ。」
女土方は相変わらず微笑みながらそんなことを言った。全くもっともなことだけどそのバランスがなかなか難しい。そう言われると僕自身も胸を張り辛いところが多々あるかもしれない。しかしそんな高尚なことが野ザルに理解出来るだろうか。大体そんなことが理解出来るなら端からこんな騒動は起こさないんじゃないだろうか。
「別に私のことなんか放っておいてくれればいいのよ。どうしてこんなに皆で私に絡むのよ。それこそ無駄じゃないの。」
クレヨンは口を尖らせた。やっぱりそうだ。こいつはこの程度だろう。
「それはね今はあなたのお父様があなたを守ってくれるでしょうけど何時かは独りになるのよ。それに何時までも若いわけじゃないわ。そうなったらどうして生きていくの。」
「私は今が良ければそれで良いのよ。先のことなんか誰にも分からないでしょう。そんなことを考えてどうなるのよ。」
これは頭の悪いやつの常套手段とも言うべき言い訳だ。確かに先は分からないが、それなりに必要な手当てをしておくのが利口な人間のやり方だろう。ましてそれ相応の教育を受けるだけの資力が十分に備わった家庭に生まれ育っているのだから。
「食事の支度が出来ました。どうぞダイニングの方にお出でください。」
丁度良いタイミングでお手伝いが食事を告げに来た。これ以上サルと話しているとまた実力行使に至らないとも言えない。特に空腹で血糖値が下がって気が立っているんだから。僕は真っ先にダイニングに入った。テーブルの上にはそれはそれは豪華な食事が並んでいるかと思ったらトンカツとポテトサラダに味噌汁という極めてオーソドックスな洋食だった。
これじゃあセレブのディナーどころか独身寮の賄いのようなものじゃないか。それでも食事中はお手伝いが給仕をしてくれたし器はなかなか上品だった。それに空腹のためもあって味もなかなか良かった。そんなこんなで僕は何時もよりも大分食べ過ぎてしまった。
食事が終わるとコーヒーとデザートが出された。このあたりはさすがに上流階級の夕食らしい気配りだった。これは物を食うという習慣ではなくきっと談話の時間を作ろうという配慮なのだろうが、クレヨンとでは一体何を話すのだろうか、むしろどちらかと言えば問答無用という感が強かった。実際話は全く盛り上がらずクレヨンは早々に部屋に引っ込んでしまった。
お手伝いは食事が終わると僕たちを来客用のベッドルームに案内してくれた。そこは二階の角にある高級ホテル並みのツインのベッドルームだった。
「ねえこの家のホームセキュリティの制御盤はどこにあるの。」
僕はお手伝いに聞いた。
「はい一階の玄関脇にございますが。」
お手伝いは怪訝そうな表情で答えた。
「もう誰も帰って来ないわよね、今日は。」
「ええもう誰もお戻りにはなりません。」
やっぱりこのくらいの家になればそれなりの防犯設備はあるものだ。
「外は赤外線暗視ビデオカメラと赤外線センサー、家の中は火災センサーくらいかな。」
「はい、窓は全て防弾ガラスになっていて簡単には侵入出来ないそうです。ドアはデジタルオートロックでこれも簡単には破れないようになっているそうです。窓の開閉はすべて自動で一階の集中制御盤とそれぞれの部屋のスイッチで開閉が出来るようになっています。窓は二つの鍵が外されると自動的に三つ目の鍵がかかるようになっております。勿論警備会社へ通報されますから安心です。」
防犯装備はほとんど完璧と言ってもいいくらいだが、僕が心配しているのは外からの侵入よりもむしろ中から外に出て行くことだった。
「彼女は防犯設備の操作を知っているの。」
「いえ、お嬢様は制御盤には手を触れたことはありませんのでご存じないと思います。それに設定には暗証番号を使いますから。」
それだ。暗証番号を変えればクレヨンが操作を知っていても解除することが出来なくなる。僕はちょっと制御盤をいじって暗証番号を変えてしまった。これで万全だ。外から入れないのなら中からも出ることは出来ないに決まっている。僕はしてやったりと言う気持ちで防犯設備を全て稼動させた。
「解除の時は私に言ってね。何時でもかまわないから。」
お手伝いは黙って頷いた。ぼくたちはあてがわれた部屋に戻った。広い部屋に品の良い家具、洒落たベッド、こういうところに住んでそれが当たり前と思っている人たちがこの世の中にはたくさんいるんだろう。僕はリクライニングチェアに腰を下ろすとそのまま大きく伸びをした。何とも言えない良い気分だった。でも女土方はベッドの端に腰を下ろして何となく落ち着かない様子だった。
「ねえ、ホテルにでも泊まっていると思えばいいじゃない。のんびりしようよ。」
僕は女土方に声をかけたが女土方の方はなかなかそうも行かないようだった。
「ホテルならホテルでいいんだけど何となくホテルとは違うのよ、個人の家は。私だめなのよね、こういう雰囲気が。ねえお風呂やトイレはどうするの。部屋の外なの。」
女土方は部屋の中を見回した。
「あのドアの向こうにトイレとシャワーがついてるわ。この家は寝室にはそれぞれトイレと洗面台それにシャワーがついているの。お金持ちって違うわよね、考えることが。大きなお風呂がよければ外の風呂を使ってってお手伝いが言っていたわ。それに冷蔵庫の中のものは自由に飲み食いしてもいいって。そのほかに要るものがあれば電話すれば持ってくるって。キッチンの冷蔵庫の中のものもご自由にと言っていたわ。思い切り飲み食いしちゃおうか。」
女土方はそんな僕に苦笑いを禁じえなかったようだ。
「あなたは本当に大胆というか何処に行ってもめげない人ねえ。」
「住めば都って言うじゃない。ここだって慣れればきっと居心地がいいと思うわ。」
僕は立ち上がって女土方のそばに寄るとふざけ半分に抱きついた。ふざけるのはやめろと押し返されるかと思ったのにけっこう真面目に受け止められてしまって僕の方がちょっと戸惑ったが、まあいいかとそのままもつれてしばらくじゃれあっているとアラームが鳴り響いた。
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Posted at
2016/03/22 23:09:35
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