2016年03月31日
織田信長(1)
織田信長さんという人物を一言で言えば、「日本史上、不世出の天才戦略家」だろう。戦略家としては何千年に一人、あるいはこの先誕生することがないかもしれないほどの天才だろう。信長さんを一言で言えば、「超合理主義者」だろう。若い頃は奇行が目立ち、「大うつけ」と呼ばれていたそうだが、一説には母親の関心を引くためとも言われるが、そんなことではなく、守旧的な権威、形式にとらわれた武家の習俗などに対する反発とともに、活動し易さ、自己完結性など野戦における合理性の追求だったのかもしれない。
髷は形にとらわれない茶筅髷、半そで、半袴、帯など使わずにどこでも簡単に手に入る荒縄、腰に水や火打石などの七つ道具をぶら下げて山野を駆け巡るというのは信長さん自身が考えた野戦のスタイルだったのだろう。この人は母親には疎まれ、兄弟には背かれ、家臣にはそっぽを向かれ、天才とは言っても一部の能力だけのことで神ではないのだから辛いものがあっただろう。
そこで自分でスカウトした親衛隊が兵農分離の戦闘専従部隊の原型となった。当時は戦になると農民を徴兵して部隊編成を行なっていたが、そのために戦は農閑期しか出来なかった。これを戦闘専従部隊を編成して常に作戦行動が可能なようにしたのが信長さんだった。
また、銃器や弓と言った長射程火力を重視し、積極的に戦に取り入れたのも信長さんだった。そうした長射程火力の導入は戦闘における合理性の追求だったのかもしれないが、もう一つは味方から犠牲者を出さないと言うこともあったのかもしれない。信長さんは尾張統一戦で親衛隊から犠牲者が出ると非常に悲しんだと言う。
戦闘で犠牲者を出さずに勝利すると言うのは戦闘における合理性の追求だが、信長さんの部下に対する思いやりもあったのかもしれない。銃器と言う長射程火力を効果的に使用して勝利した戦いの例に挙げられるのが「長篠の合戦」だが、最近は火縄銃の三段撃ちはなかったと言うのが定説になりつつある。
銃兵を3列に並べて入れ替わり射撃すると言うのは不可能と言う。当時の銃器の使用方法は突撃してくる敵に向かって一斉射撃を加えると後ろに引いて槍隊が前進し、最後に騎馬兵が突撃すると言うのが常道のようだ。設楽が原には実際に行って見たが、こんな狭い地域によく何万もの軍隊が展開出来たと思うほどだ。信長さんはここに野戦築城で陣地を築いて馬防柵で騎馬兵の突撃を阻んだと言う。
射手が入れ替わる三段撃ちというのは大部隊では難しいと言うが、部隊ごとに射撃の順を決めておけば間断のない濃密な弾幕を構成出来る。徳川軍は柵から出て白兵戦を行なっているが、織田軍が白兵戦を行ったと言う記録はない。それでいて武田軍が全滅に近い打撃を受けたと言うことはやはり銃器の威力なのだろう。
信長さんにとって危機というのはいろいろあったが、やはり何と言っても今川軍の侵攻が最大の危機だっただろう。今川軍の兵力は2万5千人と言うが、非戦闘員を除いた実兵力は1万5千人ほど、織田軍は5千ほど、尾張一国57万石と言うので最大動員数は1万5千ほどもあるだろうが、農民を動員しなかったのかもしれない。
この一部を前線基地である砦に貼り付けていたので本隊は3千人ほどと言う。当時の大兵力の侵攻に対する常道は籠城だが、籠城と言うのは救援があってのことで孤立無援では何時かは力尽きる。信長さんは情報戦で今川軍の本陣の位置を突き止めるとともに今川軍の分断を図って前線に兵力を集中させた。今川軍の本陣は5千と言うが、補給など非戦闘員の部隊もあったことだろうからもっと少なかったかもしれない。
この戦は信長さんにとっても負けるか勝つか、乾坤一擲の戦だっただろう。今川義元が持っていた太刀をその後の戦には必ず持ち歩いていたと言うから本人もよほど感慨深かったんだろう。しかし、乾坤一擲はこの戦くらいで力をつけてからは十分な兵力を用意して勝てる戦しかしていないと言う。
木津川の海戦で村上水軍の小型船による機動力と焙烙による火力でこっぴどく負けると鉄で装甲した大型船を作り、大砲(フランキ砲?)による火力で村上水軍を圧倒している。当時の圧延技術は金てこで叩く程度で大きな鉄板は作れなかっただろうし、トップヘビーになるので船の規模も問題だろうが、燃えない船=鉄船などとは誰も考えなかっただろう。信長さんに前例踏襲はない。常に客観的な状況認識と合理的な発想で時代を超越したことを考え出す。これも天才と言われる所以だろう。ただ、ついて行く者は大変だっただろうが、・・。
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2016/03/31 17:55:43
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