2016年05月09日
あり得ないことが、(74)
こんな具合に週末も終わりまた月曜が来た。クレヨンは新たに買い込んだスーツの上にこれまた真新しいコートを来込んで出勤した。クレヨンの出で立ちが全く変わってしまって外見だけを見れば僕の方が不良社員のようになってしまった。テキストエディターのお姉さんはクレヨンを見るなり一瞬固まったがその後小声で「ずい分様変わりしたようですけどどうしたんですか。外見と同様に中身も変わっているんですか。」と僕に囁いた。
「変化の兆しはあるかもね。本当に変わるかどうかはまだ先の話だけれど。」
僕はテキストエディターに向かって片目を瞑って見せた。やっと少しばかり落ち着いて仕事に取り組めるようになった僕は本格的に資料の検索を始めようとしたところにあちこちから電話がかかり始めた。電話の内容は馬の骨氏が退職するらしいと言うものだった。
転職など今時珍しくもない。他に良い仕事があればさっさと変わった方が良いなどと思っているとあの伊豆のホテルでバッティングした時に馬の骨氏と同行していた総務の小娘からも電話がかかって来た。そして驚いたことに僕に折り入って話があると言う。本当は僕ではなくて佐山芳恵に話があるんだろうが、そんなことを言っていると余計にややこしくなるし、当然向こうは理解も出来ないだろうから黙っていた。
「あなたにどうしてもお話したいことがあるんです。今日の昼休みに『LTP』で待っています。必ず来てください。」
小娘はそう言うと電話を切ってしまった。小ざかしい小娘だ。散々騒動を起こしておいて用件も言わずにここに来いなどと電話をしてくるのは不届き千万などと思ってもみたが、馬の骨氏が退職するということと合わせて考えると何か本当に話したいことがあるんだろうと解釈して出かけてやることにした。
僕は昼近くになってテキストエディターに断ってクレヨンを連れて出かけた。テキストエディターのお姉さんは意味ありげな視線を向けて「がんばってね。」と言ったが、その言葉を聞いて何だか嫌な予感が胸を過ぎった。一瞬クレヨンを残していこうかなと思ったが「お昼を食べに行こう」と誘ってしまったので今更残っていろとも言えずに連れて行くことにした。
『LTP』というのはオープンテラス風の洒落た店舗と豊富な昼食メニューを武器にこの界隈では女性に圧倒的な人気を誇っているレストランだ。そんなところだからうちの社員も結構昼飯に行っているんだろう。そこで噂の三人にクレヨンを加えて話し合いなどしているところを目撃されたら火に油を注ぐようなものだと思うが、相手様の指定なので仕方がない。
店に入るとまだ昼休み前なので席はかなり空いていた。僕たちは適当に目立たない端の方に席を取ると飲み物と料理を注文した。僕はアイスコーヒーにオープンサンド、クレヨンはフレッシュフルーツジュースにパスタだった。でも注文した物が出て来ないうちに、来た、奴等が。総務の小娘はしっかりと馬の骨氏に寄り添っていた。奴も僕の凶暴さは沖縄の北の政所様との一件で十分に承知だろうからこの展開はある程度予想していた。
「しばらく」
馬の骨氏は軽い調子で挨拶をすると席に着いた。その後総務の小娘は椅子を引くと馬の骨氏にぴったりと寄り添って腰を下ろした。
「そちらの人は君のことろにいるトレイニーの方かな。いいのかな、込み入った話に同席していただいて。」
馬の骨氏はクレヨンと僕の顔を交互に見た。
「込み入った話なんて今更もうないでしょう。あなたが退職すると聞いたけど本当なの。」
込み入った話と言われても確かにそれなりのことはあったんだろうが、それでは具体的に何があってどのあたりが込み入っているのかと聞かれても僕には全く分からなかった。僕に分かっていることは僕が佐山芳恵に入れ替わった日に馬の骨氏があのままアパートに居座って佐山芳恵に求めたことと同様のことを強引に僕求めた場合は、誠に不本意ではあるが自存自衛のため武力行使も止む無しと決意を固めていたという事実だけだった。
「うん、いろいろあったけれど今回ちょっとお声がかりでファンドの仕事を引き受けることになった。危ない世界だけれどその分面白みもあるところだから。」
経済の動向には興味があるが、金利の計算など真っ平ごめんと言う僕には縁遠い世界だが馬の骨氏もゴタが続いたのでこの辺で今の稼業から身を引いて勝負をかけたくなったのかもしれない。
「よかったわね、ご自分の力を試せる仕事が見つかって。ご成功を祈っているわ。じゃあこれで食事を終えたら帰るわね。」
僕には馬の骨氏が誰と一緒になろうが関係のないことだし、これで本当に縁切りになったつもりでいたのだが、それにしては総務の小娘がついて来ているのが気になった。そしてその予感は見事に的中することになった。
「待ってください。私の方はまだ済んでいないわ。」
間髪を入れずに総務の小娘がしゃべりだした。それを聞いたとたんに理由は分からないが全身に悪寒が走った。
「佐山さん、私はここではっきりとあなたに聞いておきたいことがあるの。」
「何よ。」
僕はちょっと怯んで答えた。それが具体的にどんなことかは分からないが、僕は本能的に総務の小娘の言葉に何か嫌なことが控えていることを感じ取った。
「あなたのことは彼から全部聞いたわ。あなたはご自分のだんなさまを捨ててまでこの人のところに走ったのにある日突然この人から離れようとしたそうね。でも私にはそれがあなたの本心だとはとても思えないの。」
初めて聞く馬の骨氏との衝撃的な馴れ初めはあまりと言えばあまりのことで僕は眼が点になってしまった。当然僕にはこの件に関しては全く責任はなく、しかも馬の骨氏との馴れ初めを知らなかったことも当然過ぎるくらいに当然のこととは言え、隠された事実はそういうことだったのか。
僕が、いや佐山芳恵が夫を捨てて馬の骨氏に走ったとは。そこまで自分を愛していると信じていた女がある日突然掌を返したように反旗を翻したのでは馬の骨氏もさぞかし面食らったことだろう。そしてその僕よりももっと呆気に取られていたのはクレヨンだった。しかし総務の小娘は無慈悲にもさらに二の手を繰り出して来た。
「あなたは伊豆のホテルで私達を待ち伏せしていたわね。私はあなたがこの人を諦めたなんてそんなこと絶対にウソだと思っているわ。」
『いいえ、決してうそではありません。諦めたも何も僕個人としてはあなたが愛している馬の骨氏に特別な感情を抱いたことはこれまで一度もありません。伊豆の件も本当に偶然なんです。ちょっといたずら心を起こしたことは事実ですからその点についてご迷惑をおかけしたのであればこの場をお借りして深くお詫びいたします。なお、これ以上僕の方からはお話することはありませんし、話したくてもこの件について事情が分からない僕には話しようもありません。』
佐山芳恵が夫を振り捨てて馬の骨氏に走ったと言う事実に驚愕狼狽してしまった僕は出来ることならこんな具合に下手に出ても、もうこの件については不問に付していただきたかった。
「とにかく自分の中ではもう終わったことよ。終わったことで今更何も話すことはないわ。どうぞお二人でお幸せに。」
僕は動揺を悟られないよう出来るだけ言葉を少なくそして感情を交えないように注意して答えた。しかし敵は納得しなかった。
「あなたはその前にも彼にもう交際は止めると言っておきながらあの時どうして伊豆のホテルで私達を待っていたの。あなたの言うことなんか私は信用出来ないわ。私はね、もう誰にも私たちのことを邪魔されたくないの。」
総務の小娘はなおも追撃の手を緩めなかったが、言葉を信用出来ないと言われても心の中を一体どうしてお前に見せてやれるんだ。見せられるものなら馬の骨氏なんか水引に熨斗でもつけてお前にくれてやりたいと思っているこの心の奥までお前に見せてやりたい。
「ねえ、佐山さん、そんなに好きだった人を本当にそんなに簡単に諦めてもいいの。」
突然クレヨンの声が響いた。そしてそれと同時にその場にいた全員がクレヨンに注目した。この馬鹿はどうしてこんな時に宣戦布告のようなことを口に出すんだ。馬鹿にもほどがある。そういうことを火に油を注ぐというんだ。これでまた総務の小娘が勢いづいた。
「私だってそう思うわ。夫を捨ててまで選んだ人をそんなに簡単に諦められるはずがないと思うの。だからあなたの言うことが信じられないのよ。」
夫を捨てたのは僕ではなくて佐山芳恵だろう。本当に諦めたかどうか知りたかったら佐山芳恵を探して本人に聞いて来い。
「何度でも言うけどもう私には終わったことよ。それ以上は何も言うことはないわ。もうあまり時間がないからこれでお昼を食べさせてね。」
僕は努めて冷静を装いながらそして本当に言いたいことはぐっと飲み込んでそう答えた。
「だってそんなこと、」
クレヨンが何か言おうとしたのでテーブルの下で思い切り足を蹴ってやった。ばかめ、お前なんぞは爆薬でも背負って桜島の噴火口に飛び込んでしまえ。
「それじゃあ私が聞いたことの答えにはなっていないわ。」
総務の小娘がさらに食い下がってきた。クレヨン、お前がこいつに自爆テロでも仕掛けろ。
「私が言うことをどう解釈するかは私の問題じゃないわ。あなたが信じられないというのならそれはあなたの問題で私にはこれ以上どうしようもないわ。」
僕は馬の骨氏に向き直った。
「もうこれ以上何もないわ。だからもう彼女を連れてこれで帰って。」
馬の骨氏は黙って頷いた。そしてまだまだ追及したそうな顔をしている総務の小娘を促して席を立った。
「全く本気で蹴るんだから。でも本当にそんなに好きだった人を簡単に手放してしまっていいの。」
またクレヨンが余計なことを言った。
「うるさいわね、あんたは黙ってなさいよ。」
僕はクレヨンを叱り飛ばしで黙らせた。クレヨンは馬の骨氏と総務の小娘との三角関係で僕が苛立っていると思ったんだろうが、本当は総務の小娘にぐちゃぐちゃ言われたことなんかどうでも良かった。女なんてものはあんな時に何を言っても納得しないで食いついてくることは経験から痛いほど承知していた。彼らとはこれでお終いで後腐れのない関係なのだから何を言われてもかまうものか。
それよりも衝撃的だったのは佐山芳恵が夫を振り捨てて馬の骨氏に走ったという事実を突きつけられたことだった。芳恵、お前な、次のことを考えて物事を決めろよ。お前の言動すべてを引き継がなければいけない僕の人格と尊厳は一体どうなるんだ。
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Posted at
2016/05/09 20:55:41
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