2016年05月20日
あり得ないことが、(78)
「澤本君のことはあなた達にはきちんと説明しなくてはいけないだろうな。」
社長はそう言ったが一体何を説明するというんだ。あれはさる銀行頭取のばか娘ではないのか。何だかとんでもない事実でも出て来そうで重苦しい上にどきどき動悸がして来た。
「そうだ、ちょっと早いけどどこかで一緒に昼を食べないか。森田さん、例の場所を予約してくれないかな。」
社長が北の政所様に向かって変なことを言い出した。この重苦しい雰囲気を引きずって昼飯なんか食いたくないのに。北の政所様は黙って社長室を出て行ってしばらくして戻って来た。
「予約が取れましたがすぐに出ますか。」
「ああ、そうだな。ちょっとお二人の上司に断っておこう。」
社長は電話を取って総務部長と企画部長に打ち合わせがあるから僕たちの身柄をしばらく預かると電話をした。社長に自分の部下の身柄を預かると言われてだめだと言う奴はいないだろう。こうして僕たちは晴れて勤務時間内に食事に出かけることになったが、僕にしても女土方にしてもこれから起こるであろうことを予測すると心は重かった。
社長に連れて行かれたところは会社から車で十分ほどのホテル内にあるレストランだった。そのレストランの個室に案内されて四人で席を占めた。
「さて何を食べようか。僕はランチで良いけど皆何にするのかな。ここのランチはなかなかいけるよ。」
ランチといっても一人前五千円もするんだからなかなかいけるのは当たり前だろう。もっと安いものをと探したが特に見当たらず決めかねていると社長が「皆ランチで良いかな」と言うので渡りに船とばかりこれに乗ってしまった。食物なんかどうでもいいんだ、本当のことを言えば。基本的に食物に執着はないし、僕にとって心地良い味と言うのは甘い味なんだ。注文したランチにはかなり豪華なデザートがついているから楽しめそうだ。
料理を注文し終わるとまたしばし沈黙が続いた。けっこうおしゃべりの社長だがこの件に関しては口が重い。それがまた僕の想像を掻き立てた。もっともクレヨンがこの二人の子供だったとしてもそれはそれで今更どうにもなることでもないし、関係のない僕が倫理や道徳云々でこの二人を責めようなんてことは欠片も考えてはいなかった。
兄弟なんてものはもっとも近い他人なのだし、姉と弟、兄と妹なんて者同士が好き合ったとしてもそれは起こるべくして起こったことと言えなくもない。ただあまりにも近すぎて相手の粗も見え過ぎることや遺伝学的に奇形や障害児が産まれる可能性が高いことなどから倫理的に悪とされたのだろう。ところが社長と北の政所様の場合はこの距離がちょうど幼なじみ程度だったようなので愛情が生またとしてもおかしくはない。
だっていくら社長と秘書だからと言っても海外に二人で出かけるなんていくらなんでもおかしいじゃないか。社内でもそんな話は耳に入るのだから誰だってそう思うのだろう。それでもそれはそれでいい、個人の問題なんだから。一番問題なのはその結果だ。二人の愛の結晶がクレヨンだったとしたら作品の出来については大いに問題があるかもしれないが。
前菜が運ばれて来ても誰も口を開かずに四人とも黙って食べ始めた。しばらくナイフとフォークが皿に当たって立てるカチャカチャという音だけが響いていた。
「あのね、あの子、私の子供なの。ごめんね、二人にはずい分迷惑をかけて。」
北の政所様が手を休めずにタイのマリネを口に運びながらぽつりと言った。それがあまりにも自然な言い方だったので僕は「ああ、そうかそうか」と言う感じで聞き流してタイを口に運んでいたが、女土方が凍りついたように動きを止めたのでしばらく考えてから、今、北の政所様が口にしたことがかなりとんでもないことだと気がついた。
「あの子の父親が誰かと言うことは言えないわ。いろいろ差障りがあるから。」
僕と女土方はほとんど同時に社長の顔を見てしまったが社長は特に困った顔も見せずにのん気にマリネを口に運んでいた。
「社長を見ても父親のことは知らないわよ。私、誰にも話していないから。」
そう言われてもこの場合どうしても見たくなるものは仕方がない。沖縄では社長は北の政所様とはそういう関係ではないと言ってはいたが、自分からそうだと言う奴もいないだろう。
「さっき佐山さんに言われたが、機構改編はあくまでも今後の会社の発展と生き残りのためで個人的な理由ではない。体制については僕自身も不満があったのでいろいろ検討してもらったが、現時点では諸般の事情もあってあれ以上のことは出来ないようだ。ただし一度体制が出来上がれば今後発展の余地はあるのだし今現在は不満足であってもしばし辛抱をお願いしたいと言うのがぼくの意見だ。」
社長は北の政所様の爆弾発言にも特に困惑も見せずごく普通だった。
「それから澤本君のこと、これについては私情を交えていることは間違いない。それは認める。あなた達にも迷惑をかけていることも十分に承知している。でも彼女もあなた達になついているようだ。きっと物心がついてから初めて心を開けそうな他人に出会ったのかも知れない。だからと言って彼女を君達に何とかしてくれとは言えた義理ではないが。」
「あの子は社長のお子様ですか。」
これは決定的な一言だったが、僕が口にしたこの言葉で衝撃を受けたのは女土方だけで社長も北の政所様も平然と食事を続けて特に動揺は見られなかった。
「僕の子供かもしれない。違うかもしれない。冴子は知っているんだろうけど何も言わないから僕には分からないんだ。」
社長はあっさりと北の政所様と関係があったことを認める発言をした。もっともそれは沖縄のホテルで見せた社長の北の政所様に対する態度でも知れていたことだったが、本人が事実を認めたにはやや驚いた。僕は北の政所様の顔を見たが特に変わった様子もなく料理を口に運んでいた。社長は何かを言おうとしたがそこにウエイターが料理を入れ替えに入って来たので一旦話は中断した。
ターキーなんていう珍しい料理が運ばれて来たので普通なら物珍しさも手伝ってすぐに手をつけるところだが社長発言で緊張していた僕たちは料理に手をつけずに畏まっていた。
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Posted at
2016/05/20 00:33:10
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