2016年06月30日
あり得ないことが、(89)
「やはり制御システムのマイクロチップが焼きついて破損しています。エレベーターのロックが解除出来ないので十階からラッタルを下ろします。それを使ってそこから出てください。箱は完全に固定されていますので危険はありません。」
さっきの点検員はやはり落ち着いた様子で脱出方法を説明した。ラッタルでも何でもここから出られればそれで良い。しばらくすると上の方からがたがたがらがらと言う音が響いて来た。そしてエレベーターの天井に人が降りて来た。
「天井パネルを外すので奥へ下がってください。」
天井から声が聞こえて間もなくプラスチックのパネルが外れて鉄の天井が剥き出しになった。その天井のハッチが開いて男の人が顔を出した。
「これからラッタルを降ろしますからまずここから出てください。」
男の顔が引っ込むとハッチの穴から華奢なアルミ製の梯子が下りて来た。
「さあ、行くわよ。」
僕が営業君に声をかけると営業君は青い顔をして身を振るわせた。
「ここは十階じゃないですか。僕は絶対に嫌です。そんな梯子なんか登れません。ここに残ります。佐山さんだけ行って下さい。」
「十階だって二十階だって同じでしょう。床があるんだから。さあ、早く登りなさい。ここにいたらエレベーターが落ちるかもしれないのよ。」
エレベーターが落ちると言うのは気合をかけるためのはったりだったがこれが逆効果だった。営業君は床に座り込んでさらに泣き叫び出した。
「いやだあ、どうすればいいんだ。ぼくはいやだ、ここから動かない。」
この営業君の姿を見ていて僕は切れてしまった。一体誰のせいでこんな目に遭っていると思っているんだ。僕は営業君に近寄ると胸倉をつかんで引き上げて横面を思い切り張り飛ばしてやった。
「あんたも男でしょう。何時までもうだうだ言っているとここから突き落とすわよ。それがいやだったらとっととこの梯子を上るのよ。」
本当に腹が立つ野郎だ。こんな野郎は半ば本気でここから突き落としてやろうかと思ったが、こいつも急所に蹴りを食らったり横ビンタはられたり大変だったかも知れない。そうして漸く梯子まで引っ張って来てつかまらせたが、上に登らせるのがまた大変だった。箱の上からこの様子を見ていた点検員も半ば呆れ顔だった。
ようやく箱の上まで引っ張り上げたが、エレベータが行き来している穴と言うのはワイヤーやレールなどが走ってまるでトンネルを縦に立てたようでなかなか不気味だった。これを見てまた営業君が愚図り出した。
「あんた、もう一回殴られたいの。」
僕が手を上げると点検員が慌てて止めに入った。
「ロープがありますからそれで体を固定して支えましょう。」
そう言うと上に向かって「ロープを下ろしてくれ。」と叫んだ。投げられたロープは工事等に使うナイロンの黒と黄色の虎ロープだったので僕はすぐに気休めと分かったが、早く営業君に上ってもらわないと困るので端をつかんで営業君の腰に巻きつけさらに保険代わりに肩に袈裟にかけてやった。
「これで大丈夫でしょう。さあ早く登りなさい。」
上から点検員に確保してもらって二、三メートルの段差をやっとのことで引っ張り上げて通常の世界に戻った時にはもう十一時に近かった。女土方に電話するとクレヨンのところにいると言うので営業君など放り出して僕はタクシーを拾ってクレヨン宅に急いだ。
「何度電話しても出ないからどうしたのかと思ったわ。でも無事のようだから良かったわ。」
女土方は僕の顔を見るなり笑顔でそう言った。
「彼と一緒だといっているのに伊藤さんは信じないのよ、そうでしょう。ねえ。」
ろくでもないことしか言わないクレヨンには答える代わりにけつに蹴りをくれてやった。
「ちょっと彼女と込み入った話があるからあんたは自分の部屋に行ってらっしゃい。」
僕はクレヨンにそう言って追い払おうとした。僕としては営業君のことは一応女土方の耳には入れておきたかった。
「乱暴者、一緒にいてもいいでしょう。どうして私がいてはいけないの。」
「これはね、公私の公の話なの。あなたの関与すべきことではないわ。言うことを聞かないなら私は彼女と家に帰るわ。」
「分かったわ、でも終わったら呼んでよ。せっかく皆が揃ったんだから。」
クレヨンは渋々承知して部屋を出て行った。
「どうしたの、今日は。何かよほどのことがあったのね。」
女土方はベッドに腰を下ろして話を聞きましょうと目で合図した。それを合図に僕は今晩の営業君とのことを彼に蹴りを入れたこともエレベーターで泣き叫ぶ彼にビンタをくれて気合を入れたことも含めてすべて話した。
「あなたって本当に攻撃的なのね。よかったわ、あの時更衣室で蹴られなくて。でも蹴られても男の人ほど被害はないかもしれないけど。それにしても困ったものね、彼にも。そんなことをする人にも見えなかったし仕事も真面目と聞いていたけど。あなたにとっては困ったことじゃあ済まないわよね。でも公になると彼にはずい分不利益なことになってしまうだろうし、このまま放っておけばあなたに被害が生じてしまうかもしれないしそうなってからじゃあ手遅れだから、いいわ、私から森田さんに話してみるわ。」
女土方はずい分真顔で考えた末にそんな結論を出した。
「ねえ、少し様子を見ようか。私は大丈夫よ。これからはあの人と二人きりにならないように気をつけるから。今日あれだけ痛めつけたから大丈夫だと思うわ。彼も懲りたでしょう。」
女土方はしばらく考え込んでいたが「いいわ、あなたがそう言うんならしばらく様子を見ましょう。」と言って納得してくれた。しかし敵はそんな玉ではなかった。
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Posted at
2016/06/30 18:20:18
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