2016年08月02日
あり得ないことが、(99)
翌日出社するとさっそく人事課に呼ばれた。予想はしていたがやはり営業君の仕業だった。
『夜、仕事を終えて部屋に戻ると何もしないのに僕に部屋から出て行けと言われ、仕事の始末があるのでと部屋に入ろうとするといきなり僕に催涙スプレーを吹きかけられて顔や目に怪我をした。』
それが営業君の言い分のようだった。これまでの経過からそんなこともあるかとは思っていたが、よくもすぐにばれるようなことを言うものだ。人事の担当者から真偽を尋ねられたので「催涙スプレーをかけたのは事実だけど。」と答えた。「え?」という顔をした人事の担当者に僕はさらに続けた。
「ただし彼は夜の九時過ぎに部屋に戻って来て帰ろうとする私をさえぎって部屋から出さなかっただけでなく私の腕をつかんで乱暴をしようとしたのよ。
私は何度もばかなことはやめるようにも頼んだけれど彼の方が力が強いし、乱暴をやめようとしないので仕方なく催涙スプレーを彼の顔にかけたわ。
その後水を汲んでやって顔を洗わせているところに株屋の姉御、じゃなくて橋田さんが突然部屋に入って来たわ。元々護身用で相手に大きなダメージを与えるようなものじゃないし洗い流せば炎症も治まると思ったので私はそれで部屋を出て自宅に戻ったわ。帰りに医者によって診察だけはしてもらったけどこれが腕に出来た皮下出血の写真でこれが診断書よ。」
僕は人事の担当者の前に突きつけてやった。担当者は慌てて写真や診断書をつかむとどこかに走って行った。どうも昨晩の僕と営業君のことが大分問題になっているようだったが僕が悪いわけじゃないから関係ない。どんな大騒ぎになろうと知ったことか。そのうちに人事課長がやって来た。誰が来ようと僕だって課長代理級だ、負けるものか。
「佐山さん、実は高山君があなたを傷害で警察に告訴すると言って来ている。それで人事としても事実を確認したい。彼はあなたがいきなり催涙スプレーを吹きかけたと言っているが、実際のところはそうでもないようだ。うちの方としては高山君を説得して思い止まらせるつもりだが佐山さんとしてはその辺の気持ちはどうなんだろう。」
僕としてどうもこうもない。告訴したければ告訴すればいい。僕も告訴するだけだ。どっちが痛い目を見るかよく考えた方が良いとしか言いようがない。
「彼が告訴するというのなら私にも当然それなりの考えがあります。不正な侵害を受けていてさらになお黙って不正を甘受するほどお人好しじゃありません。ところで彼は出勤しているんですか。いるのなら会わせてください。一言言ってやりたいことがあるんです。」
一言の前に『あの馬鹿に』と付け加えそうになってあわてて言葉を飲み込んだが、僕はこの会社では超超タカ派でその名が轟き渡っているのであの馬鹿くらい言っても誰も何とも思わなかったかもしれない。
「今日は通院ということで休んでいます。うちには電話とメールで連絡がありました。」
「じゃあ、私が電話するわ。」
僕は携帯を手にとって営業君に電話した。「はい」という営業君の声が聞こえたので僕は一気に捲くし立てようとして「あんたね、」と言うとそこで電話が切れてしまった。この野郎、相手が分かったとたんに電話を切るなんて人をなめやがって。ところがその後すぐに人事に電話がかかってきて僕とは直接話したくないなどと盗人猛々しいことを言ったらしい。話したくないなら最初から僕の周りをうろちょろするんじゃない。
次に人事課長が出て来たが誰が出て来ても話すことは同じだった。僕は人事の担当者に話したことと同じことを話して最後に自分の意見を付け加えた。
「おっしゃることは分かりました。この件については当課としてもさらに調査をしますのでその際はご協力をお願いします。」
人事課長は特にらの感情を示すこともなく淡々と話を締め括った。それで僕も放免されて自室に戻ることが出来た。何時ものことで話はもう社内に広まっているらしく僕を見て声を潜めて話をする姿があちこちで見られた。どうせ僕が強姦されたとかあるいは僕が営業くんを襲ったなんて話しているのかも知れない。こうなったら何でも勝手に言うがいい。
部屋に戻るとこれまた一人を除いて全員が僕のほうを見た。僕を見ないで淡々と仕事をしていたのは株屋の姉御だけだった。この女は感情というものをほとんど表情に出さないという特技を持っているようでその顔つきから内心を読もうとしても何とも掴み所どころか手がかりさえほとんどなかった。
女土方には昨夜大方の話はしておいたが北の政所様には何も話していなかったので話さなくてはいけないだろうと真っ先に彼女のところに行った。北の政所様は僕を見ると「社長が呼んでるわ。」と言って立ち上がった。それで僕はそのまま北の政所様と一緒に社長室に入った。
「佐山さん、仕事以外にもいろいろ負担をかけて申し訳ない。今回のことは社として新部門に傷をつけたくないなどという時代錯誤的な防衛意識が働いて対応が後手に回ってしまいあなたにとんでもない迷惑をかけてしまった。今更あなたに直接の深刻な被害がなければ良いという訳じゃないが、とにかくあなたが無事でよかった。
事実については確認されたわけではないがあなたがこんなことでうそをつくような人でないことは僕がよく承知している。二度とあなたにこんなことで負担をかけることのないよう人事措置をするつもりだから今回のことは勘弁して欲しい。
いや、ここで勘弁と言っているのはすべてを水に流すという意味じゃなくて社として措置が後手に回ったことを許して欲しいということだ。会社としての落ち度については出来るだけのことはさせてもらうつもりだ。
ところでこれはまじめに聞きたいのだけど今回のことでPTSDなどの精神的な障害は大丈夫だろうか。あなただから間違ってもそんなことはないだろうという者もいるが精神的なことは場合によっては肉体的な傷よりも深刻な打撃を人間に与える場合が多いので確認しておきたい。」
『あなただから間違ってもそんなことはないだろう云々』というところで北の政所様は口を押さえて横を向いた。失礼な女だ、人の不幸を笑うなんて。でもこんなことを言ってはそういう症状に苦しんでいる人に申し訳がないがPTSDなんてなってみたくても僕にはなれそうもない。
これが本当の女性が受けた被害ならいざ知らず、大体ついこの間まで間違いなく襲われる方ではなくて襲う方の側にいた人間としてこれくらいのことで精神的障害など負っては男としての趣旨が立たない。そういう精神的な打撃を受けるということの大前提には予想外という条件があるのだろう。ところが営業君の場合は明らかに予想の範囲内だったのだから精神的な打撃を受けようもない。
それよりももしも彼がさらに強行に目的とする行為に及んできた時の方が重大な事態を招いていたかも知れない。僕は最後の最後まで抵抗を止めなかっただろうし、その抵抗も半端な手段ではなかっただろうからそれこそお互いに流血の惨事になっていたかもしれない。考えようによってはそれを避けるための護身用スプレーだったのかも知れない。そうだとすればあのスプレーは極めて効果的だったと言うことが出来る。口には出せないが僕は社長の質問にこんなことを頭に浮かべていた。
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Posted at
2016/08/02 18:02:35
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