2016年08月15日
あり得ないことが、(101)
株屋の姉御は未だ衝撃から覚めやらぬ室員を尻目に「じゃあ、辞表を出してくるわ。」と言うと部屋から出て行った。するとテキストエディターのお姉さんが大きくため息を漏らした。
「一体どうなってるのよ、この世の中は。」
テキストエディターのお姉さんはため息に続いてそう言った。
「いや、驚いたわね。今回の件には。こんな展開になっているなんて夢にも思わなかったわ。なんだか力が抜けたわ。」
北の政所様が椅子に体を投げ出した。
「予想外でした。」
クレヨンはどこぞの新規参入携帯電話会社のCMのようなことを言った。
「この結末は本当にちょっと予想外だったわね。驚いたわ。」
女土方が僕を見た。
「私はこれでホッとしたわ。」
僕は女土方に微笑んで見せた。二人の辞表は当日受理されて辞職が認められた。これで当部門には二名の欠員が生じてしまったわけだが会社としては補充しない方針を固めたようだった。市場の動向については情報データバンクと契約して必要な情報を購入することになった。また営業関係の業務についてはその都度必要に応じて営業部門から人を派遣することになった。
こうして人が減ってしまったので係を調査と企画に分けることが出来なくなってしまった。そこで今回の人事異動後は女土方を頂点とした調査企画係として再出発することになった。人が減ったことは良いこととは言えないがこの方が小回りも効くし結束も固いので僕にとっては好ましかったがとどのつまりは僕と女土方の負担が大きく増す結果となることは眼に見えていた。
この時期もう一つ大きな変化があった。それはクレヨンの父親が帰国したことだった。たまたま休日に僕たちが遅くまで寝ていたところお手伝いが「旦那様がお帰りになります。」と伝えに来た。幾らなんでも何時までも放って置きやがってとんでもない奴だと思ったが、これで僕たちも豪邸住まいを卒業して庶民の家に帰ることが出来る。それにしてもやはり一家の主が帰って来ると家の中も活気付くのかお手伝いも急に忙しそうに動き回り始めた。
待つことしばし玄関先に馬鹿でかいメルセデスが滑り込んで来た。そしてそこから確かにテレビの経済ニュースなどで何度も見た顔の年寄りが降りて来た。僕たちは使用人でも家族でもないので玄関でお出迎えする必要もないと思い、応接間で待機することにした。
もうすっかり慣れているので勝手にコーヒーなど入れて寛いでいるとさっきの有名じじが入って来た。この年配の男性が日本の金融界を仕切っている人間の一人とは思えない穏やかで平凡な初老の男性だった。
「このたびは娘の不始末で大変ご迷惑をおかけしたそうで。しかも娘と一緒にこんなところに長い間お泊り頂くなどご不便をおかけして。親としても不徳の致すところと大変心苦しく思っております。
しかしお二人のおかげで娘もずい分落ち着いて生活出来るようになった様子で何ともお礼の申し様がありません。」
金融翁は僕達二人に深々と頭を下げた。『全くお前の娘のサルにはずい分迷惑を掛けられた。余計な手数もずい分かかった。それはそれで水に流そう。ついては一つだけ質問に答えていただきたい。あのクレヨンはあなたの本当の娘なのか、それともうちの社長と北の政所様との間に出来た禁断の子供なのか。』
僕がそんな馬鹿なことを言い出さないように女土方は僕の方を一睨みしてとんでもない目論見を制圧してから金融翁に向き合った。
「どの程度お役に立てたのか分かりませんが、お嬢様を無事にお返し出来てよかったと思います。」
無事と言うよりはお互いに満身創痍で痛み分けという気がしないでもないがクレヨンのことで一番被害が大きかったのはもちろん僕だろう。
「本当にお二人にはご迷惑をお掛けしてまた大変お世話になりました。」
金融翁は一旦言葉を切って視線を窓の外にそらせた。しかし何か含みがありそうなその横顔に何とも嫌なものを感じたのは女土方も同じだったようでそっと僕に目配せをした。
「実は、お二人にはこれまでも散々ご迷惑をお掛けしていてこんなお願いを申し上げられるような立場ではないのですが、娘がお二人にずい分なついておるようで、今お二人にいなくなられるのは辛いと申します。何とかもうしばらく娘を見てやってはいただけないでしょうか。」
銀行など日本の金融界は十年以上の長きにわたってほとんど無利子同然で預金者の金を運用しまくり、それに公金まで加えてバブルに踊ったつけを帳消しにするなど商売の倫理に反する非道な行為を逞しくしていて、事自分の娘かどうかは知らないが、身内のことになるとこの甘さは一体どうだ。このような非道の行為にはこの僕が正義の鉄槌を振り下ろして完膚なきまでに破砕してくれよう。
「もちろんそんなことかまいません。私たちに出来ることは何でもして差し上げますからどうぞご心配なく。」
僕の正義貫徹の志をあざ笑うかのごとく女土方は金融翁の身勝手な申し出をあっさり受け入れてしまった。僕は唖然とした面持ちで女土方の顔を見つめたが、女土方は到って平然と僕を見返した。女土方よ、お前は権力と金力の前に志を捨ててひれ伏すのか。
「まことにお優しいお心遣い恐れ入ります。老いた愚かな父親と思し召して何とぞ良しなにお取り計らいをお願いします。」
金融翁が言い終わるが早いかクレヨンが部屋に飛び込んで来た。
「良かった、まだこれからも三人で暮らせるのね。じゃあパパに頼んで二人の部屋を作ってもらおうかな。」
一体どういう風に育てるとこういう極楽とんぼが出来るのだろう。ここにいるじいさんに聞いてみたいもんだ。金融翁は本当にお世話になりっぱなしでもうしわけありませんなどと平身低頭の態で部屋を出て行った。
「ねえ、一体どういうことよ。これからもずっとここでサルの飼育係を続けるって言うの。」
僕は女土方に噛み付いた。第一クレヨンの面倒なんてほとんど僕が見ていたようなものじゃないか。
「まさかあなたのことだからそんなことはないでしょうけど何かしらの見返りを期待しているんじゃないでしょうね。」
「そうよ、当たり前でしょう。金融界の大御所なのよ、なんてね。今のままで生活していけるんだから見返りも何もいらないけど別に悪い子じゃないじゃないじゃない、彼女って。それはあなただってよく分かっているんでしょう。口じゃあずいぶん悪様に言うけど本当は言うほどでもなく思っているんでしょう。それにせっかく良い方に向き始めたのにここで見放したらまたとんでもない方に飛んで行ってしまうわよ。それじゃあかわいそうでしょう。」
やはり誰にも優しい女土方だったがぼくはちょっと悪戯心を起こしてからかってやった。
「ずい分お優しいことだけど本当はあなたの方が彼女に気があるんじゃないの。」
僕がえへらえへら笑いながらからかうと女土方は顔を赤くした。感情を表に表すことが少ない女土方には珍しいことだった。
「あ、赤くなった。図星だ、図星。」
「またそんなこと言って人をからかって。あのね、あなたも聞いたでしょう。日本の金融界を牛耳っているあの大物があの子のためには私達のような小娘に深々と頭を下げて。何だか意地らしいじゃない。義を見てせざるは勇なきなりって言うじゃない。こうなったら見てあげればいいわ。」
なるほど女土方、どこまでもお優しいことで。僕にしてもここでクレヨンを放り出すわけにも行かないだろうとは思っていた。さすがの僕も今になれば口で言うほどにはクレヨンが嫌いなわけでもなかったし面倒を見てやるのはいいのだがそうは言っても中心になってあのサルの面倒を見るのは一体誰なんだ。
「確かに一番負担になるのはあなたなんでしょうけど。私も協力するからもう少し面倒見てあげようよ。彼女がもう少し落ち着いて一人で歩いて行けるようになるまで。」
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Posted at
2016/08/15 15:08:48
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