2016年08月22日
翼の向こうに(7)
「軍は戦闘集団だ。軍の目的は戦闘によって敵を撃破して、その戦闘に勝つことにある。その軍の目的が戦わないことというのはどういうことだ。」
佐山少佐が身を乗り出すようにして私に聞き返した。
「たとえどのような崇高な理由を掲げても、戦争に勝っても負けても戦争が生み出すものは破壊と殺戮とそして戦争に巻き込まれ、心を切り刻まれるような悲しみを背負わされた人達の嘆きの叫びだけです。その戦争を抑止するのが軍の任務であるのなら軍は戦ってはならないのだと考えます。
一見矛盾しているようですが、軍が厳しい訓練に耐えて精鋭無比の強力な戦闘集団を作り上げるその目的は、その存在自体によって戦争を防止するためであって自らが戦うためではありません。
戦って勝つために厳しい訓練に耐えながら、それでいて戦うなというのは大きな矛盾であると思いますし、軍人としてはとても辛いことだと思います。しかし軍隊というものは人間が人間であるが故に持っている矛盾の中から生まれてきたものではないでしょうか。
もしも軍が立ち上がって戦わなければならない場合があるとしたら、それは真に国土が他国の武力に蹂躙されて国民の生命が危機に瀕している時のみで、それ以外にはあってはならないと思います。」
次官は相変わらず自分の意見は何もいわずに黙っていたが、高瀬の方を向き直ると「君はどうか。」と促した。
「基本的に国家が和戦の決定するのは政治の問題であって軍自体が決定すべき問題ではありません。戦えという命令が下がれば、どんな状況でも戦わなければなりません。その点で軍に選択の余地はありません。いえ、軍に和戦についての決定権を与えてはいけないのだと思います。軍が和戦の決定権を握った結果がこの戦争です。陸軍の恫喝に行政府と立法府が屈した時、これを押し止めることができるのは同じ武力を備えた海軍のみでした。しかし、海軍は周囲に対して負の和を求めて、陸軍を押し止めることもなく、かえって陸軍に引き摺られて、この戦争に突入してしまいました。
私は兵学校や士官学校出の職業軍人ではありません。ですから職業軍人のような覚悟も潔さも持ち合わせてはいません。それでも自分の置かれた立場を理解することは出来ますし、その立場に応じた義務を果たさなければならないことを弁えるくらいの責任感は持ち合わせています。
ただ『戦え。死ね。』というのなら、行政府はそれなりの納得のいく理由を我々に示してから戦争を始めて欲しいのです。そして軍も合理的な根拠のある命令を下して欲しいのです。始めから勝てる見込みのない戦を始めておいて当然の帰結として合理的な戦闘などしたくともできなくなるほどに追い詰められて、そのうえ、ただ『死ね、死ね。』とヒステリックに叫ぶような命令を下し続けることだけはやめて欲しいのです。
これだけのことを次官に聞いていただけた私達はまだ幸せです。大勢の若者が何故自分が死ななければならないのか、その理由も示されないまま死んでいるのです。
死が何よりも恐ろしいものであることは誰にとっても同じです。皆、自分が死ななければならない理由を求め、あるいは死を納得し得るものとして受け入れるために心の中で呻吟しながら、それでもそんな苦悩は顔には出さずに笑って死んでいくのです。
軍はこれからも人間の社会の中に存在し続けるでしょう。それをどのように統制して機能させていくかは、人間に与えられた重い課題になると思います。それは軍を制御するということではなく人間が自分自身をどう制御していくかということなのかも知れません。」
高瀬の言葉が途切れるとまた沈黙が続き、しばらくは言葉を発するものはなかった。沈んだ静かさが部屋の中に充満していた。その静かさを引き裂くような悲痛な声で言葉を発したのは佐山少佐だった。
「次官、一体どうすればいいのでしょうか。私達は出来得る限りのことをして、この戦争を戦ってきました。その間大勢の若者を死なせてきました。それは他でもありません。陛下とそして日本のためだと信じていたからです。しかし戦局は好転するどころか、敵の物量に押しまくられて悪化するばかりです。海軍はもう敵に決戦を挑む艦隊さえなくしてしまいました。
このままでは陛下にも、死んでいった戦友達にも申し訳が立ちません。何とか敵に大打撃を与えて、せめて有利な条件で講和に持ち込まなくては。しかしそう思っても彼等の言うとおりで、自分にはどうしたらよいのか見当さえ付きません。
敵の本土への空襲も徐々に激化してきており、交通手段も生産手段も破壊され、軍事物資、民生物資の生産、移動は思うに任せず、何よりも物を作るための資源を運んで来る輸送船は日本までの途中で皆撃沈されてしまいます。
南方資源地帯を確保して長期不敗体制を築くなどということが何の裏付けもない絵空事で、国家の安全について何の準備もしていなかったことが今更のように悔やまれます。陸軍は外の世界を見ることをしないで身内だけを見て誇大妄想に陥り、それを覚ます唯一の機会であったノモンハン事変の後でさえ、何等自らが内包している欠陥を見直して検討を加えることもありませんでした。そして我々海軍はその陸軍の引き摺られて戦争にのめり込み、ただいたずらに艦隊決戦を夢見るばかりで、南方資源地帯の確保と長期不敗などと言っても、その資源を安全に日本に運ぶための海上護衛など考えることもしませんでした。
我々は陸軍を馬鹿にしては毛嫌いしてきましたが、海軍にしても陸軍のことなど言えないかも知れません。ミッドウェイで負けた時も、その敗戦を覆い隠して目をそむけるだけで、あの大敗北に何の検討を加えることもしなければ何の反省も示しませんでした。その後は敵に先手を取られて引き摺り回され、いたずらに戦力を消耗し、気が付いた時には手も足も出ないところまで追い詰められていました。
元々この戦争計画からして、相手を見ずにこちらの都合だけで作ったようなもので、相手がこちらの都合どおりに動いてくれれば妙案だったのかも知れませんが、当たり前のごとくに相手はこちらの都合通りには動いてはくれませんでした。いえ、米英の国力を本当に認識してしまったら、支那との戦争で国力の底が見えてしまうような日本では、自分に都合のいいところだけを取り出して計画を立てなければ米英を相手に戦争をしようなどとは考えることも出来なかったので、ことさら相手を見ようとはしなかったのかも知れません。海軍は、米英が日本に侵攻してきた時に、侵攻してくる敵艦隊に痛撃を与えてその侵攻意図を挫くことを目的に整備建造されてきました。米英を向こうに回して、今回のような長期的な総力戦に耐え得るようには整備されていません。そんなことは誰にも明らかだったことです。
それが都合のいいところだけをことさら強調した景気のいい話に乗せられて、何時の間にか誰もが現実を見ようとしなくなって、その景気のいい勇ましい架空の世界が現実と入れ代わってしまいました。そして一度そうなってしまうと架空の世界が先へ先へと勝手に拡がっていってしまって誰にも止められなくなってしまいました。そんな時に現実の話などしようものなら、非国民、国賊、いえ、狂人扱いです。
彼等の言うとおり、そんな中で『海軍は、日本を武力で侵略しようとする国に対しては、たとえその国がいかに強大であっても全滅を賭して死力を尽くして戦うが、米英を同時に相手にして総力戦を戦い抜くようには整備されていない。しかも米英は日本に直接侵略を企てているわけではない。外交交渉の余地は未だ残っている。海軍は国家と国民を危うくするような戦を戦うことは出来ない。』とはっきり言うことが出来る者は一人もいませんでした。和戦の決定は内閣に一任したとしても、海軍としては少なくとも事実は事実としてそのことをはっきり言明しておくべきでした。
もっと本当のことを言えば、海軍だけではなく、陸軍にしても政財界にしても、そんな戦争を戦い抜く力は元々日本にはありはしなかったことは承知の上だったのです。
次官、真実をしっかりと見極めることは本当に難しいことです。しかし、周囲の事情にかかわらず言わなければいけない時にその真実をはっきりと口に出して言うことは更に難しいことだとつくづく分かりました。
私達は戦えば負けると分かっていながら、事実を事実としてはっきりと口に出して言う勇気がなかったばかりに先行きの恐ろしさを紛らわすために勇ましい言葉を口にして自身を叱咤して、日本をこんな戦火の中に巻き込んでしまい、大勢の人達に舐炭の苦しみを味わせてしまいました。その罪は万死に値します。
次官、どうか今の職を解いて私を前線に出してください。立派に戦って死んで見せます。このままでは陛下や国民に申し訳が立ちません。次官、お願いします。」
佐山少佐は我々が話に夢中になっている間にかなり杯を重ねていたらしく大分酔っている様子だった。しかし酒に飲まれている様子は微塵もなく、どちらかと言えば理性で押さえ付けていた本心が顔を覗かせたと言う感じだった。
『この人は偏った軍国思想を持った狂信的な主戦論者ではなく、ただ出来る限り職務に忠実であろうとしているために主戦論を唱えているだけで、本当はそれが間違っていることに気付いているのかもしれない。』
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小説2 | 日記
Posted at
2016/08/22 19:53:24
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