2016年08月23日
翼の向こうに(8)
私は自分の職務と良心の葛藤に悩む佐山少佐の真実の姿を垣間見て、この軍人に好意を感じ始めていた。
「次官、何とかおっしゃってください。どうか私を前線へ。死に場所を与えてください。」
腕を組んで黙っている次官に佐山少佐はなお食い下がった。
「次官、お願いします。」
「副官、そんなに『死ぬ、死ぬ。』と言うな。大体僕にそんな人事権はないよ。そんなに皆が死んでしまったら、これからの日本はどうなってしまうんだ。戦争はまだ続くだろうが、何時か必ず終わるんだ。みんながそんなに死に急いで誰もいなくなったらその後の日本の再建を一体誰がやるんだ。
今日は色々な意見を聞かせてもらって久し振りに楽しかった。この頃日本の行く末が案ぜられたが、真剣にこの国のことを考えている若者が大勢いることを知って安心した。僕達の力が至らなかったために、この国を亡国の危機にまで追い込んでしまったことは誠に申し訳ないと思う。武田中尉、高瀬中尉、君達の意見は大いに参考になった。ただどのように優秀な兵器でも、どんなに巧妙に考えられた制度にしても、それを使うのは人間であり、その人間の意識が変わらなければ結果は同じことになってしまうことを忘れないで欲しい。
また真実を見極めると言っても、その真実も見る範囲を変えれば、真実はその範囲によって変わってしまうことを肝に銘じておかなければいけない。軍という組織に限って言えば、軍の目的は戦闘に勝利することだが、国家というさらに大きな組織の中での軍の役割ということになると、その目的は国家と国民の安全を確保することで、戦闘に勝つことはそのための手段というように、当然のことだが見方を変えれば結論は変化してくる。
大きく目を開けて世の中を見て、その中での自己の位置付けを考えながら自分が何をしなければならないかを考えるべきだろう。日本は国際社会での協調か、国内勢力相互の調和か、いずれか一つを選択しなければならない二律背反する命題を背負った時、大きく目を開いて内外の情勢を客観的に分析することなく安易に内に和を求めてしまった。それを止める立場にありながら止められなかった我々こそ罪万死に値するのかもしれない。
君達にはまだまだこれからも苦労をかけるが、どうか生きられる命を粗末にせずに御国のために力を尽くして欲しい。今日は久し振りに楽しかった。いい意見を聞かせてもらった。ここのことは女将に話しておくから遠慮しないでゆっくりやってくれ。」
次官が腰を上げようとするのを見て、私達はまた弾かれたように立ち上がって不動の姿勢を取った。
「命を大切にしろ。君達を必要とする時代がまた必ずやって来る。無駄に命を捨てるな。」
出口で立ち止まって私達の方を振り向いた次官はもう一度まるで子供に噛んで含めるようにそう言った。
次官と佐山少佐が部屋を出て行くと私達は肺の中の空気をすべて絞り出してしまうくらい深い溜め息をついた。そしてそのまま畳の上に仰向けに転がった。
「よくあれだけ物を言ったものだな、お互いに。へたをすれば軍法会議、良くても真っ先に特攻指名だぜ。」
高瀬は寝転んだままゆっくりと深く息をしながら「まあ大丈夫だろう。」と一言呟いてから突然起き上がって廊下に向かって大声で叫んだ。
「おーい、酒を持ってきてくれ。それと何か旨いものを。」
そして今度は私の方に向き直った。
「軍法会議でも特攻でも何でも構うもんか。おい、武田、どっちにしても遅かれ早かれ死ぬことに変わりはないんだ。さあ飲むぞ。今日は思い切り飲むぞ。言いたいことも言えず、酒も飲めずに死んでいった奴等のためにも思い切り飲んでやるぞ。」
真摯な態度でこの戦争と日本の指導部の非を訴えていた高瀬は打って変わったように酒を煽り始めた。
「女将、女将、女を呼んでくれ。」
高瀬は酒を注いだコップを揺すりながら廊下に向かって大声で叫んだ。
「そんなに飲んで大丈夫か。」
私は高瀬に向かってたしなめるつもりで言った。
「突然、『貴様は死んで来い。』と命令されて、それでも一言の恨みつらみも言わず、我々に気を使って笑顔を絶やさずに死んでいった奴等を毎日見続けていてみろ。いい加減、酒でも飲みたくなるさ。」
高瀬は酒を煽った後のコップを叩き付けるようにテーブルに置いた。
「失礼します。」
外で女の声が響いた。
「おお、入れ、入れ。」
高瀬は手を延ばして襖を開けると女を招き入れた。形通り三指をついて挨拶をした二人の女は、すぐにそれぞれ別れて私達の側に座ると、これもまた形式通り首を少し傾げて科を作って見せて酒を勧めた。
「お前達、今夜は泊まっていけるんだろうな。金なら幾らでもあるぞ。」
高瀬は自分の横に座った女の肩に手をかけると自分の方へ抱き寄せた。
「お客さん、海軍さん?そんなに慌てないでゆっくり飲みましょうよ。」
女は慣れ切った仕種で高瀬の手を擦り抜けると、銚子を手に取って高瀬に酒を勧めた。そして高瀬もそれ以上口説くでもなく、ただ勧められるままに杯を重ねていた。
「武田、」
思い出したように高瀬が私を呼んだ。
「本当に実戦はまだなのか。」
「ああ。」
少し気の抜けたビールで喉を湿らせてから高瀬に答えた。
「偵察に来たB公を追いかけたことはあるが、ずっと高いところを白い飛行機雲を引きながら飛んで行くのを一度見ただけだ。八千位まで上がったが、とても追いつかなかった。発動機が息をついてしまって。」
「先に高度を取って奴等が来るのを待っていないと、とても追いつけないよ。それでも一撃かけるのが精一杯だ。悲しいけどそれが今の帝国海軍の限界さ。」
高瀬は杯を煽った。
「どこか別の部屋はあるか。」
杯を置くと高瀬は女を振り返った。女は応える代わりに微笑みかえした。
「ここを使えばいい。俺は宿舎に帰る。」
「堅いこというな、貴様の彼女だってその気になってるぜ。こんな時代に軍人が金を使わなければ、一体誰が金を使えるんだ。人助けみたいなもんだよ、これも。さあ、堅い顔していないで飲み直しだ、飲み直し。」
私は高瀬に押し止められて、渋々上げかけた腰をもう一度下ろした。やや年配の女は私が腰を下ろしたのを見て体を寄せて私に微笑みかけた。きらいなタイプの女ではなかったが、今この時も太平洋の各地で味方がその体を盾に戦闘を繰り広げているかと思うと女を抱く気には容易にならなかった。
「高瀬、俺達は海軍次官にあれだけ言いたいことを言ったが、結局どれもこれも後知恵じゃなかったのかな。後知恵でものを言うのなら、そこそこの教育を受けた者なら誰でも言えるんじゃないのか。」
女に持たれかかってふやけた顔をして笑っていた高瀬の目が急に険しくなった。
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小説2 | 日記
Posted at
2016/08/23 22:19:30
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