2016年08月29日
翼の向こうに(9)
「後知恵だろうがなんだろうが構うもんか。『日本が米国と太平洋を挾んで敵対して戦争に突入したのは止むを得ないことだった。誰が政権を担当しようと、それは避けられない日本の運命だった。』そう言いたいのか。運命で何十万、何百万の人間が死んでいくのか。そんな無責任なことが罷り通るのなら国家も政府もいらない。その方が戦争も起こらないで済むだろう。
武田、貴様は戦争なんかどんな崇高な理由をつけても、そこから生まれるものは悲劇と苦しみだけだと言っていたな。戦争がそんなに悲惨なものだと誰も分かっているなら何かが間違っていなければ戦争なんかが起こるはずはないだろう。それを起こしてしまって何百万人もの人間が死の苦痛にのたうっているのにそれが運命の一言で片付けられていいのか。どうしてこんなことになったのか、何が間違っていたのか、その原因を明らかにして後世に伝えるのがこの戦争を始めた者達の義務だろう。そのためには本音で議論を尽くさなければいけないんだ。そうしなければ物事の本質を捉えることは出来ないんだ。
たった数か月ばかり戦線に出ただけで、数えきれないくらい理不尽な理由で死んでいかなければならなかった者の呻き声を聞いてきた。この戦争がなければそれぞれの分野で後世に名が残るほどの業績を残しただろうと思えるような才能溢れる者も大勢いた。穏やかな家庭を作って静かに社会を支えただろう人達もたくさんいた。そんな大勢の人間の死が、ただ避けられない運命だった、そう言うのか。それだけで世界を苦痛の中に突き落とした人間達の責任を帳消しにしようと言うのか。まあいい。個人の責任云々は。それよりも、もう二度と同じ過ちを繰り返さないためにも議論を尽くすことが必要なんだ。そうしなければこの戦争で死んでいった、そしてこれからも死んでいくだろう大勢の人間達は、一体何のために命を捨てるんだ。
誰が死んで誰が残るのか、それは分からん。だが残った者は何故この戦争が始まったのか、この戦争は一体何のための戦争だったのか、そしてこれから同じ間違いを繰り返さないために日本人はどうして生きていけばいいのか、少なくとも問題提起だけでもしておかなければいけないんだ。仏教的な諦念観でこの戦争の本質をうやむやにしてしまってはいけないんだ。
運命とは神だけが使うことを許された言葉なんだ。この時代にこの国に生を受けたこと、それだけが人の運命なんだ。この戦争は人が始めたことだ。人が手をかけたことに運命なんてことはあり得ないんだ。どこかに判断の間違いがあるから間違った結果が生まれるんだ。それを出来るだけ早く突き止めて二度と間違いが起こらないように修正することが大事なことなんだ。そしてもしも今修正出来なかったら、その原因を追及して次の機会までには何が何でも改めることが絶対に必要なんだ。」
高瀬の杯を持つ手が小刻みに震えていた。紅を差したように紅潮していた顔は蒼白に変わって目だけが異様に充血していた。国内での政治家や軍人の地位、軍の権力、名誉、国際社会での日本の権益、そんなもののために一体何故こんな戦争を引き起こさなければならなかったのか。結局明治維新以来日本は軍を国家の柱の一つに据えて国政を運営して来た。欧米のように政治を執り行なうための道具として軍を政治の下に位置付けるのではなく、軍は間違いなく国家運営の中枢にあった。そして軍がその武力を背景に国家運営に独自の意思を示した時、それを押し止める者は誰もいなくなってしまった。
「なあ高瀬、日本のような国家体制では軍の意思は国策の決定に重大な影響がある。その国策を巡って陸軍と海軍が相撃つことになっても、それでもこの戦争を防止すべきだったと思うか。」
高瀬はやや落ち着きを取り戻した様子で杯の中の酒を見詰めながら私の話を聞いていた。
「海軍が陸軍との戦闘も辞さないというほどそこまで本気で立ちはだかったなら、陸軍も考え直さざるを得なかったかもしれない。それにしても、その後に軍自体が血を流す覚悟をしないとどうにもならないだろう。それも相当な出血を。そうでないと国内情勢は好転しないだろうし、そうすれば今度は海軍に非難が集中するだろう。軍事費を削って経済支援や技術研究開発を推進して各種の産業を育成するとか、私企業への貸付制度を充実させるとか、俺は経済の方は専門じゃないから詳しいことは分からないが、国家が中心になって資本の整備をしなければこの国の工業化と貿易による立国のための産業転換は進まないだろう。そうした産業転換に要する資金は当面軍縮を推進することによって浮いた予算を流用する以外にはないだろう。
そして最も重要なことは政治が軍に優先するような国家体制を早期に構築することが出来るかどうかにかかっていると思う。そうでなければまた同じことの繰り返しになってしまうんじゃないか。戦争がなければ変われないのなら、日本人はあまりに無能な悲しい民族になりさがってしまう。だからこそ戦争を思い止どまって国家や社会の仕組みをもう一度見直すべきだった。それに必要な人材は充分に揃っていたのだから狭義の偏向した精神主義に陥らずに大らかな自由な立場で実利を追求するべきだった。」
高瀬はいかにも残念だと言うように言い終わると唇を噛み締めた。
「この戦争は間違っているんですか。この戦争は大東亜共栄圏と欧米帝国主義からのアジアの解放を目指した神国日本の聖戦ではないんですか。」
私の横に座って話を聞いていた芸者が突然叫んだ。私はそれを聞いて慌ててしまった。俄か雇いとは言っても、仮にも軍人の我々が、民間人の前でこの戦争を否定するような言動を口にしたことに自責の念を感じた。そのことについて何らかの言い訳めいたことを言おうと思ったところ高瀬が先に口を開いた。
「何の理由もなく敵が武力で日本を攻めて来たのならやむを得ないかもしれないが、中国や東南アジアの利権のことで戦争なんかする必要はなかったんだ。朝鮮にしても中国にしても勿論満州も元々他民族の国なんだから何時までも力で押さえていることなんか出来やしないし、それよりもその国に住んでいる人々が作った政権を支援してやってその国と上手に付き合っていく方がずっと利口だよ。
どうしても戦争をしなければいけないのなら、もっとはっきりと分かり易い理由を国民に説明すればいい。八紘一宇だの大東亜共栄圏だの、そんな抽象的なことを言っても分かるもんか。もっとも具体的に説明するような理由もないだろうけど。軍とそれを取り巻く連中が自分の功利心や権益のために国を戦争に引きずり込んだんだからな。物がなければ金を払って買えばいい。武器を持って他人の国に押し入って略奪するのは犯罪そのものだ。欧米のそんな馬鹿げたやり方まで真似ることはなかったんだ。良い所だけを選んで上手に取り入れればいいんだ。日本は東洋の盟主を名乗るのなら東洋のやり方で東洋を主導するべきだったんだ。」
高瀬は呆気にとられている芸者達に杯を突き出して酒を注がせると口に運んで一気に飲み干した。空になった杯にもう一度酒を注がせて今度は少し考えるような様子で何度も杯を口に運んだ。そして杯を静かに置くと私達三人の顔を交互に見回しながら静かに言った。
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小説2 | 日記
Posted at
2016/08/29 19:20:35
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