2016年09月01日
翼の向こうに(11)
「起床、起床、待機所に集合。」
部屋の中に高瀬の大声が響いた。驚かそうと思ったのかもしれないが、とっくに起きて支度を整えていた私はゆっくりと襖を開けて高瀬の前へ出て行った。
「なんだ、もうすっかり支度は済んでいたのか。」
私を慌てさせようという当てが外れた高瀬はつまらなそうにつぶやいた。私達は二人の芸者に支払いを済ませると航空隊に向かって急いだ。
「どうだった。楽しんだか、昨夜は。」
高瀬が大きく吸い込んだ空気を吐き出しながら言った。
「お前はどうだった。」
「ああ、やった、やった。随分命の洗濯をさせてもらったよ。小梅、あれはいい女だ。自分の仕事をよく心得ている。」
高瀬は大きく伸びをしながら自分が買った女を褒めた。
「そういう言い方をすれば俺の小桜は落第だな。個人と戦争という話で一晩終わってしまったよ。彼女の弟な、海兵を出て山城に乗り組んでいたらしい。」
山城という名前を言った時、高瀬の肩が小さく動いたように見えた。
「山城か、スリガオで見たよ。扶桑と並んでレイテ目指して進んで行ったよ。その晩、二隻とも撃沈されたってな。艦隊上空は通過禁止なんで翼を振りながら近づいて行ったら大勢甲板で手を振っていた。今時の戦争に飛行機の援護もなく敵艦載機の大群に蹂躙されるのはさぞ悔しかったろうに。何だか立ち去り難くて、しばらく上空を旋回していたよ。あんな旧式艦まで駆り出して、しかも何の意味もなく犬死にさせて。小桜って言ったよな、お前の女。苦労して弟を海兵に入れたんだろう、気の毒にな。」
酔いと睡眠不足ではっきりしない頭の中を世界、国家、民族、社会、個人、色々なものが複雑に絡み合って頭の中をぐるぐる回っていた。いきなり「誰か!」という門衛の誰何で我に返った。何時の間にか私達は基地の正門まで来ていた。気が付いて考えてみれば我々は門限破りの脱柵だった。「まずい。」と思っていると高瀬は銃を構えた門衛に向かって「横須賀航空隊の高瀬中尉だ。御苦労。」と一言答えて胸を張って門を通った。
高瀬の気迫に押されたのか、門衛はそれ以上問い質すこともなく「ご苦労さまです。」と我々に敬礼するとそのまま門を通した。
「貫禄だな。」
私が言うと、高瀬は「何、何度も弾の下を潜ってきたからな。こんなこと朝飯前だ。」と言って胸を張った。
基地に入ってから高瀬とはすぐに別れてそれぞれの宿舎に戻った。もう生きて会うことはないかもしれない別れにしては、お互い『元気でな。』といった程度の軽い別れだった。そして私はその日の午前中に新しい機体を受領して自分の所属する基地に戻った。
自分の所属する部隊に戻って訓練と待機任務の繰り返しで追われるように時間を過ごしていたある日、従兵が私を呼びに来た。
「武田中尉、司令が呼んでおられます。」
従兵に言われて私は背筋が強張った。真っ先に横須賀のあの晩のことが頭に浮かんだからだった。
「分かった。ありがとう。」
従兵に答えて立ち上がったが、子供の頃職員室に呼ばれた時のように足は重かった。
「武田中尉、入ります。」
司令室のドアをノックすると中に入った。司令の表情は特に普段と変わらなかった。私の呼び掛けに司令は顔を上げた。
「おう、武田中尉、入れ。」
言われたとおり司令の前に進み出ると私は型通りの挨拶をした。私を見ても特に難しい顔をするでもなく、司令は「まあ、そこに掛けろよ。」と言って私に椅子を勧めた。私が勧められるままに椅子にかけると司令は相変わらず穏やかな表情で言った。
「武田中尉、君と顔を会わせるのも今日が最後になってしまった。技量抜群の君を手放すのは本職としても誠に残念なのだが、君に転勤命令が来ている。発令は明日付けだ。急なことでご苦労だが、すぐに支度をしてもらいたい。」
司令が差し出した辞令を開いてみると『横須賀航空隊付きを命ずる。』という文字が目に入った。
「先方に佐山という少佐がいるそうだ。明日からの君の直属の上官になる。横須賀航空隊に着任したら佐山少佐の指示を受けるように。」
私はその場で立ち上がると命令を復唱した。そしてこれまでの礼を言ってから部屋を出ようとすると司令に呼び止められた。
「武田中尉、貴様次官を知っているのか。」
「先日、機体の受領に横須賀に行った時に偶然料亭でお会いして一献いただきました。特にそれ以外に次官と面識はありません。」
私は簡単に答えたが司令は含み笑いを浮かべて私を見返した。
「次官とは海軍省で御一緒した仲でな。もう一人の仲間と大分気勢を上げたらしいな。次官もたじたじだったらしいぞ。あの剃刀と言われた次官が。」
すべては筒抜けだったと知って私は恐縮しきって司令室を後にした。
急な転勤命令とはいっても持ち物もほとんどなく、まして家財道具や家族があるわけでもなかった。飛行隊長に申告した後はそのまま送別の宴会となってしまった。翌朝は午前6時に部隊の見送りを受けて複座の連絡機に同乗して横須賀へ向かった。
「分隊士、約二時間で横須賀に到着します。到着予定は〇八〇〇の予定です。」
伝声管を通して操縦を担当している下士官の声が聞こえた。
「分かった。」
一言答えて地上を振り返った。半年を過ごした基地が遠く後に小さく見えた。小一時間後席で転た寝をしていると、また伝声管を通して耳に弾けるように響いてきた操縦の下士官の声に起こされた。
「一一時の方向に試験飛行中の新型機。迂回します。」
言われるままに左上方を見上げると試作機や練習機に使われる赤味がかった黄色に塗装した単座の戦闘機らしい機体が目に入った。
「新型の戦闘機か。」
下士官に尋ねると「紫電を改良した戦闘機です。通称『紫電改』と呼ばれています。」という返事が返ってきた。
「少し近付けないか。」
初めて見る新鋭戦闘機は零戦と違ってスマートさはないが、力こぶが盛り上がったように逞しいその機体に魅力を感じた。
「飛行中の試作機に接近することは禁止されています。」
下士官は素っ気無く答えると機体を右に旋回させてその試作機から離れていった。
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小説2 | 日記
Posted at
2016/09/01 00:09:42
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