2016年09月01日
翼の向こうに(12)
横須賀基地に着陸すると礼のつもりで操縦の下士官に煙草数箱を渡した。そして指定された隊舎に出頭すると佐山少佐が笑顔で迎えてくれた。
「こんなに早くまた顔を合わせるとは思わなかったな。まあ取り敢えず宿舎に行って身の回りの整理でもしていてくれ。後で呼びに行かせるから。」
高瀬のように実績のある戦闘機乗りならいざ知らず、私のように予備士官のひよこが何故ベテラン揃いの横須賀航空隊などに転属して来たのかその理由を聞きたかったが、あまりよけいなことを言わずに「よろしくお願いします。」とだけ挨拶して宿舎に向かった。
従兵に案内された宿舎は基地の片隅にある粗末な平屋だった。広間の奥にはベッドが並んでいたが、どこを使えばいいのか分からなかったので荷物を広間の隅に置くと椅子に腰を下ろして一体ここで何をやらされるのかを考えた。特攻隊にでも編成されて何処かに送られるのだろうか。どうせ遅かれ早かれ死ななければならないのだろうから死ぬことは仕方がないが、何時、何処で、どんな死に方をするのか、そんなことが気掛かりで仕方がなかった。それは取りも直さず死を恐怖し、生に執着しようとする思いがあるからと思うと自分の未練がましさが恥ずかしくなった。
しばらく何もすることもなく独りで薄暗い宿舎の中で悶々の思いで過ごしていると入口の開く音がした。私はその音に驚いて立ち上がった。
「従兵、入ります。」
部屋の外で威勢のいい声が響いた直後に先ほど私をここへ案内してくれた従兵が入って来た。
「飛行長から食事をお持ちするように言われました。『一五〇〇には戻るのでしばらくゆっくりしていてくれ。』との伝言がありましたのでお伝えします。食事がお済みになりましたら呼んでください。」
私はテーブルの上に食事を置いて出ていこうとする従兵を呼び止めた。
「飛行長?佐山少佐のことか。あの人は飛行長なのか。するとここは何かの飛行隊なのか。」
従兵は怪訝な顔をして私を見詰めた。何故そんなことを聞くのかと訝っている様子だった。
「自分には詳しいことは分かりませんが、新しい戦闘機隊を編成すると聞いています。飛行長は機材の調達のことで出掛けられています。」
「戦闘機隊?搭乗員は何処にいるんだ。それに機体や整備は。」
「搭乗員の方はまだ十数名しか集まっておられません。皆さん、訓練や要務で外出されています。機体も紫電が数機あるだけで、まだほとんど集まっておりません。でも海軍随一の精鋭戦闘機隊になると言っていました。」
「誰が、誰がそう言っていたのか。」
「飛行隊長の山下大尉です。それから山下大尉から『ベッドは空いているところを好きに使うように。』と伝言がありました。」
従兵は敬礼をすると部屋を出て行った。私は自分が来た部隊が戦闘機隊に編成されることを聞いて胸が高鳴るのを感じた。ひよこの予備士官でも戦闘機に乗って戦うのは夢ではあったが、まさか正規の戦闘機隊に配属になるとは思っていなかったからだった。
戦争は悲劇と破壊をもたらすだけの不毛な行為だという考え方には大いに矛盾することかもしれないが、私は戦闘機搭乗員として戦えることに本心興奮を禁じ得なかった。闘争心、敵愾心、そうした争いごとに向かおうとする心、誰もが心の中に持ち合わせているもので、それが人間の繁栄の一翼を担っていることは間違いのないことなのかも知れないと自分の現金な変遷を理由付けていた。
午後になると午前中の作業を終えた者がぽつりぽつりと戻り始めた。そのたびに立ち上がって挨拶をしたが、誰も特に関心を示してくれた者はいなかった。午前中に言われたとおり、午後三時過ぎに佐山少佐に呼び出された。そして司令の部屋に挨拶に行った。申告を済ませると、司令から「君のことは予備士官の中でも特に技量抜群ということで推薦を受けている。当隊は現在編成途上にあるが、編成を完了した後は海軍随一の精鋭戦闘機隊として日本上空の制空権を奪回し、それを突破口にしてこの困難な戦局の打開を図ることを任務とするつもりだ。そのためには装備も勿論だが、君達のような若い力を必要としている。どうか期待に背かぬ活躍を望む。」と訓示を受けた。
これまで特攻隊として遅かれ早かれ爆弾の部品として命を捨てることになるという半ば捨鉢な気持ちが、この訓示で吹き飛んで日本の防空の一翼を担えるという誇らしい気持ちが改めて沸き上がって来た。
「帝国海軍の伝統を受け継ぎ、これを汚すことのないよう誠心誠意努力いたします。よろしくお願いします。」
これまで口から出たことのない言葉が自然に出たのもこの思いがけない光栄に浴したからだったのかもしれない。佐山少佐の部屋に戻った時も司令の時と同じ挨拶をしようとして少佐の苦笑で押し止められた。
「知らない仲ではないのだし、張り切る気持ちは分かるが、そう畏まるな。まあそこにかけろよ。」
勧められるままに椅子に腰を下ろすと佐山少佐は数枚の写真を差し出した。その写真にはここに来る時、空中で出会ったあの試作機が写っていた。
「紫電二一型。紫電一一型の改良型だ。そう言っても零戦しか知らないだろうが、今度うちで使う戦闘機だよ。乗ってみるとなかなかいい戦闘機だ。あの時、君達が言っていたように発動機など色々問題はあるのだが、他にこれといった機体がない。零戦ではもうどうにも敵の新鋭機に対抗できなくなってしまっているからな。グラマンよりはずっとましな機体だが、これから出てくるP五一やサンダーボルドという敵の新型機にどの程度対抗できるかは分からない。
しかし、次期艦上戦闘機の烈風の開発がもたついている今、海軍は当面こいつに頼る以外にないからな。しかし、よく言ったもんだよ。君達も。本当にこの誉という発動機ももう少し余裕を持った設計をしていてくれたら使い易かったろうに。
いずれにしても近いうちに乗ってもらうことになるけれど、正直なところどうなんだ、君の腕は。」
聞かれた私も実際に戦闘を経験してはいないので何とも言い難かったが、一通りの高等飛行や空戦機動はこなして待機要員にも加わっていたことを話すと、佐山少佐は大きく頷いた。
「あの晩、君達に言われたように、この戦争は何もかもが間違っていたのかも知れない。その責めを負うのは当然我々であるべきなのだが、今となってはただこの日本の国土と国民を守るために君達の命が必要になるかもしれない。どうかそれを察して欲しい。」
大きく開かれた佐山少佐の目が涙で光っていた。私はその目に佐山少佐の誠実な人柄と苦悩を見たように思った。
「よろしくお願いします。」
私は不動の姿勢を取って佐山少佐に答えるとそのまま部屋を出た。戦闘機搭乗員として選抜された晴れがましさの上に逼迫して追い詰められた現実の戦局が覆い被さって返って息苦しささえ感じた。世の中のどこを向いても死ぬことばかりが強調されていた。この時代に死ぬことはごく当たり前の何所にもありふれた出来事だった。そうして誰もが死に対して何の感情も持たなくなったこんな時代を異常と感じている自分の方が異常なのか、良く分からなくなった。
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小説2 | 日記
Posted at
2016/09/01 20:49:37
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