2016年09月07日
翼の向こうに(16)
「さあて、小桜を喜ばせてやりに行くか。」
酒と肴を入れた包みを無造作につかむと作業服を着替えもしないで高瀬は立ち上がった。私も作業服のまま高瀬の後を追った。
「武田、四国はいいぞ。気候も人も穏やかで。山下隊長に言っておいたよ。新しい基地を選ぶのなら四国に限るってな。紫電を造っている川西の工場にも近いし、そのうちに敵がくるだろう沖縄にも近い。」
包みを軽く振りながら高瀬は楽しそうに四国のことを話した。何時もしれっとした態度の高瀬には珍しいことだった。
「誰かいい人にでも巡り合ったのか。四国で。随分楽しそうだな。何時もに似合わずに。」
「ああ随分といい人達に沢山出会ったよ。」
高瀬は相変わらず楽しそうに答えながらどんどんと歩いて行った。料亭の玄関先に入ると高瀬は大声で小桜を呼んだ。
「小桜、小桜、お前の会いたがっていた男を連れて来たぞ。小桜、早く出て来い。小桜。」
高瀬はこの非常時に他人に聞かれればまた問題を起こしそうなことを大声で叫び続けた。高瀬の声が止むと入れ代わりに奥の方から廊下を走って来る足音が響いた。「顔を輝かす。」という言葉を何回も耳にはしたが、本当に顔を輝かすということが人に起こるということをこの時初めて実際に自分の目で確かめたように思った。
小桜は先に立って私たちを部屋へと案内した。席に座って改めて見た小桜はもう何時もの落ち着いた表情に戻っていた。
「お酒と、それから武田中尉さんはビールでよろしかったのかしら。今お持ちしますので。」
小桜は一旦言葉を切って間を置いてから少し声を落として付け加えた。
「ただ物があまり入りませんのでお口に合うものが差し上げられるかどうか。」
申し訳なさそうな小桜に向かって高瀬は下げてきた包みを取り出して座卓の上に置くと日頃に似合わぬ穏やかな口調で言った。
「出張の土産です。これで何か造ってください。でも俺達は部隊でたらふく食っていますから、何か有り合わせを出してくれれば充分です。後は皆さんで分ければいい。」
小桜は「ありがとう。」と言って、顔の前で手を合わせると包みを持って出て行った。その小桜と入れ替わりに入ってきたのが小梅だった。
「ようこそお出でなさいませ。」
ひときわ甲高い妙に明るい感じのする声が部屋に響き渡った。
「おうおう、来たか、来たか。待っていたぞ、小梅。」
小梅の声に合わせて高瀬が叫んだ。小梅はその声を待っていたように高瀬の脇に腰を下ろすと高瀬の肩にもたれ掛かるようにして酌をした。私は手を伸ばして小梅が置いたお盆の上のビールを引き寄せて手酌で飲み始めた。そこに料理を持って小桜が入って来た。
「小梅ちゃん、お客様を放り出したらだめじゃないの。」
小桜は手早く卓の上の配膳を済ませるとビールの瓶を取り上げて私に向かって差し出した。
「小桜姉さん、いいわねぇ。本当に幸せそう。」
小梅が高瀬の腕を取りながら小桜に向かって茶化すように囃し立てた。小梅に茶化されて、小桜は燃え上がったように顔を赤くして体を引くと私から離れて俯いた。
「小梅、そういうのを武士の情けを知らない仕打ちと言うんじゃ。馬に蹴られちまうぞ。それよりも面子
がそろったんだから乾杯といくか。互いの再会を祝して。」
高瀬は盃を取り上げると小梅に向かって突き出した。そして自分の盃が満たされると小梅にも盃を渡して自分で酌をしてやっていた。私も高瀬に倣って小桜にコップを渡すとビールを注いでやった。四人の器が満たされたのを見届けると高瀬が盃を持ち上げてあたりに響き渡るような声を張り上げた。
「こんな時代に我々が無事に再会出来たことは真に目出度い。これからも互いに永く壮健でありたい。乾杯。」
乾杯が終わって酒が回り始めると高瀬の口が急に滑らかになった。例によって彼の独壇場だった。フィリピンでは帝国陸海軍ともいやというほどアメリカ軍に撃破されてフィリピンを押さえられてしまったこと、そしてフィリピンを押さえられるということはこれまでも容易でなかった南方からの資源等戦略物資の輸送路がますます締め上げられること。それに伴って今後本土では物資の調達、軍需品、民生品などの生産がほとんど止まってしまい、今後戦争どころか国民の生活も今以上に事欠くようになっていくであろうことなど、それこそその筋の耳に入ったら大目玉くらいでは到底済みそうもないようなことを小桜や小梅相手に平気の様子で喋り捲っていた。
私もさすがに気になって何度かそれとなく控えるように促がしたのだが、本人は平気の体で「何、かまうもんか。」と取り合おうともしなかった。そればかりか高瀬の戦況解説は更に過激になり、今後アメリカは本土爆撃の中継基地として使用するために硫黄島を取って、さらに空襲を強化してくるだろうし、フィリピンの後は沖縄、九州そして関東とこれまでと同様に飛び石作戦で押してくるだろうとか、それは客観的な分析ではあるが、こんなところで芸者相手に話すべきではないようなことまで次から次へと披露していった。
「日本は負けるんですか。この戦争。」
小桜が不安そうな顔で高瀬の顔を見つめながら言った。
「負ける。勝てるはずがない。後は何時どうして負けるか、その負け方が問題だ。」
「何だか日本が負けた方がいいみたいな言い方ですね。高瀬中尉は日本が負けた方がいいと思っているのですか」
「勝てるのなら勝てるに越したことはないが、ここまで来てしまったら早い方がいい。戦争が長引けばそれだけ日本人の命が失われ、国力も殺がれていく。戦争は必ず終わる。それもそう先の話じゃない。戦争が終わればこの日本を復興させなければならない。その時何の資源もないこの国にとって人間は唯一の宝だ。それに、」
高瀬は言葉を切った。そして盃を取って小梅に突き出すと酒を注がせ、それを一気に飲み干してから盃を静かに卓に戻して顔を上げたが、その顔は俄かに曇った空のように暗かった。
「少し気になるのは奴等の出方なんだ。敵といってもドイツやイタリアは同じ白人の国だ。これまでも何度も争って来たし、ナチさえ打ち倒してしまえば後は身内同士みたいなもんだろうからそんな無茶はしなかろうが、日本の場合は少し事情が違う。
日本は奴等がついこの間まで犬やサルと同様に扱ってきた有色人種の国だ。そのサルのような生き物が自分たちの身内に当たるロシアを破って白人の世界に躍り込んで来た。そして今回、少なくとも一度は白人の勢力を西太平洋からアジアに渡るまで、それこそ一気呵成に駆逐して白人に手酷い痛撃を与えた。有史以来、白人にこんな打撃を与えた有色人種の国家はこの日本だけだからな。
そんな国の存在を奴等白人が今後も認めるかどうか。それこそどんな手段を使っても徹底的にこの国と国民を殲滅するまでこの戦争を止めないかもしれない。事実今の奴等はそれだけの力を持っているからな。
日本はフィリピン戦で特攻戦術を採用して、また奴等の心胆を凍りつくほど寒からしめた。一体何をやりだすか分からない奴等だってな。そんな奴等は抹殺してしまった方がいいと思っているかもしれない。だからこそ日本人は理性も誇りもある民族だということを示せるような方法で戦を終わらせた方がいいんだが。このままじゃ陸海軍とも納得はしないだろうし。
沖縄、ここで最後の戦闘を戦って、その間に戦争を終わらせる方策を考えて終戦に持ち込む。沖縄を捨石にするわけじゃないが、戦闘に際して非武装地帯を設定してそこに住民を避難させて住民が戦闘に巻き込まれないような方法を講じておく。しかし今の総力戦ではそれも難しいかな。サイパン戦でもそうだったらしいが、できるだけ住民は戦闘に巻き込まない方がいい。そうすることが日本はウォーモンキーという奴等の宣伝を覆す方法でもあるんだが。軍は自分たちの利益と歪んだ名誉心を守ることしか考えていないからな。」
高瀬の話に誰も口を挟む者はいなかった。重苦しい静けさが四人を包み込んでいた。
「高瀬中尉も武田中尉も沖縄に敵が来たら戦争に行くんですか。」
小桜が感情を押し殺したような低い声で言った。
「年が明けたら我々も西へ移動することになると思う。何所に行くかは言えないが。」
高瀬が珍しく言葉を濁して答えた。さすがに高瀬も部隊の移動配置に関しては軽軽しく口に出せなかったのかもしれない。
「戦いに行くんですね。」
小桜が切なそうに尋ねた。
「俺達は軍人だから戦えと言われれば戦わないわけにはいかない。」
私が答えるとすかさず高瀬が混ぜっ返した。
「俄か雇いだけどな。ついこの間まで学問の府、理性と知性の殿堂である最高学府に学んだ秀才の言うこととは思えん。良い子ぶらずに本音で話してみろ。本音の議論のないところに進歩はない。」
「本音で言ってみてもどうしようもないこともある。それでは聞くが、おまえの言うように日本はもうどう戦っても勝ち目がないのなら俺達は何のために戦うのか。無駄なことではないのか。」
「難しいな。しかし、何と言っても敵は止めてくれんからな。こっちが頭を下げるまでは。」
何時の間にか、小桜と小梅は我々から身を引いて置物の人形のように畏まっていた。
「本音を言えば貴様が言うようにもうこの戦は止めるべきだと思う。」
「なるほど。」
高瀬がまた混ぜっ返してきた。
「まあ聞け。この戦もう止めるべきだとは思うんだが、一体どうして終戦に持っていくんだ。陸軍は一億玉砕を叫んで止まない。海軍もこれを抑えて表立って終戦を口にすることができない。それよりも一部は陸軍に引きずられて一億玉砕、徹底抗戦を叫び出す始末だ。国家も国民もない。あるのは軍の面子だけだ。その軍の面子のためだけに国家や国民に犠牲を強いるのは理不尽だと思う。
大体この国はどこもかしこも、おらが村、おらが家の世界なんだ。国家や国民という大きな概念よりも、おらが村、おらが家に先に目がいってしまう。結局、軍本来の存在目的なんぞどこかに忘れて、自分が所属する部隊の利益や自分の実績に走ってしまう。
もっともこれは日本人全体にみられる傾向で軍ばかりを責めることはできないかもしれないが、国家存亡を賭けたこの時にまでそんな狭い視野でしかものを見られないとなると、その視野狭窄が本当にこの国を滅亡させてしまうかもしれない。」
「待て待て、そんな大それたことを、一体誰かに聞かれたら傘の台が飛ぶぞ。」
高瀬はわざと真面目ぶった顔をして声を落としてそう言った。私は「何を言うか。自分のことは棚に上げて。」と言い返したが、実際こんなことを聞かれたらどんな処分を受けるか分からなかった。
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小説2 | 日記
Posted at
2016/09/07 22:59:21
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