2016年09月10日
翼の向こうに(17)
その時襖が開いた。ぎくりとして顔を上げると曹長の階級章を付けた陸軍の憲兵が立っていた。「しまった。」とは思ったが、もう間に合わなかった。
「おぬし等、今、軍を誹謗するようなことを言っていなかったか。官姓名を名乗れ。」
憲兵は私達を上から見据えながら、低いが腹に響くような声で言った。私は高瀬や小梅達に迷惑がかかることがないようにと思い、立ち上がって「海軍横須賀航空隊付き、予備中尉武田史朗だ。」と自分の官職姓名を名乗った。
「予備中尉だと。」
憲兵曹長はいかにも間に合わせの俄か軍人といった馬鹿にしきった態度で続けた。
「おぬし、今さっき、何を言っておった。軍を愚弄するような言動があったように聞こえたが。正直に言ってみろ。場合によってはただでは済まんぞ。」
予備士官と見て舐めきった傘にかかった態度だった。怒りがこみ上げてきたが、それを飲み込んで冷静を装って低い声で答えた。
「この戦争をどう戦うか、それを話していた。そのことに何か不都合があるのか。」
「終戦、終戦とふ抜けたことを話すのが貴様等海軍の戦争か。そんなことだからどこでも米軍に負けるんだ。気合いを入れ直してやる。全員、立て。」
憲兵曹長はいきなり座卓を蹴飛ばした。それに驚いて小梅が悲鳴を上げて立ち上がると憲兵曹長の脇をすり抜けて外へ飛び出して行った。
「ちょっと待て。」
それまで黙っていた高瀬が口を開いた。
「貴様、誰にものを言っているのか。俺達は海軍予備中尉だ。陸軍の憲兵曹長は海軍予備中尉には敬礼もできないのか。まさか陸軍の軍規には曹長の方が中尉よりも階級が上だと書かれているわけではあるまいな。」
私達は海軍の作業服を着ていたから袖には中尉の階級章が縫い付けてあった。それは憲兵曹長にも当然見えていたはずだった。憲兵曹長は痛い所を突かれて言葉に詰まった。
「出頭せよというのなら出頭しよう。しかし、下級者である貴官の命令に従うわけにはいかない。陸軍憲兵隊から正式に部隊司令部に出頭命令書を出してもらおう。」
部隊司令部が日頃から忌み嫌っている陸軍の憲兵隊の要請を受け付けることなどあり得ないと踏んだ高瀬の啖呵だった。これで騒ぎが収まりそうになったその時、それまで黙って憲兵を睨み続けていた小桜が口を開いた。
「あなたはこれまで敵と戦ったことがあるんですか。私の弟はフィリピンで戦艦山城に乗り組んでいて戦死しました。この士官の方たちもフィリピンの戦いでたくさんの敵の飛行機を落としたそうです。こちらの方は北関東の航空部隊で東京の空を守っていました。あなた達憲兵の方は威張ってばかりで私達には何の頼りにもなりません。あなたも軍人というのなら私達を守ってください。敵を追い払ってください。」
小桜の言葉に憲兵曹長ばかりでなく我々も息を飲んで静まり返った。あまりに直裁に軍の本質を言い切った小桜の言葉にはどんな反論も入れられる余地はなかったが、それだけにそれを聞かされる者には神経を逆なでされる思いだったに違いない。
憲兵曹長は身じろぎもしないで立ち尽くしていたが、その表情は見る見る青ざめていった。そして突然軍刀の柄をつかむと「貴様、芸妓の分際で憲兵を愚弄するか。」と搾り出すような声を上げると軍刀を抜き放って上段に振りかぶった。それと同時に私は憲兵の懐に飛び込んで軍刀を振り上げている腕を抑えた。
「馬鹿者、やめないか。武器を向ける相手が違うというのが分からんのか。」
渾身の力をこめて刀を振り下ろそうとする憲兵曹長とそれを抑えようとする私との間でしばらく力比べが続いたが、そこに飛び込んできた山下大尉や佐山少佐に刀をもぎ取られ憲兵曹長は床に膝をついた。
「何の騒ぎか。」
佐山少佐が大声で怒鳴った。少佐の階級章を見て、少しばかり逆上した血液が下がったのか、憲兵曹長は立ち上がると大きく方で息をしながら、「横須賀憲兵隊の石岡曹長であります。この者達に反体制的な言動があったことから取り調べようとしたところ、抵抗を受けたのであります。」と半ば真実を、そして半ば自分の手前勝手を織り交ぜた説明をした。
高瀬は手に床の間にあった花瓶を持ったまま、「我々は現在の戦況と今後の戦闘について議論をしていました。そこへこの憲兵が飛び込んできて手続きも踏まずに我々を取り調べるなどと。そして挙句の果ては軍刀を振りかざして芸妓を威嚇するなど危険な行動がありましたので制止したところです。」とこれも手前味噌なことを臆面もなく申し立てた。
そこにまた軍靴が床を踏みつける音が響いて数人の憲兵が飛び込んできた。その中の大尉の階級章をつけた憲兵士官が進み出て不遜な態度で「横須賀憲兵隊の岸本だ。憲兵隊員に狼藉を働く海軍士官があると聞いた。即刻当事者を当方へ引き渡されたい。」と佐山少佐に申し入れた。
「ここにいる者は確かにうちの隊員だが、そのような事実が実際あったかどうかについて当方の調査が済んでいない。当方で調査してそのような事実があれば処分を検討したい。」
佐山少佐は涼しい顔で言い切った。
「貴公は何者か。官姓名を名乗られよ。」
憲兵士官は軍刀の鞘で床を力いっぱい突いて威嚇した。
「海軍横須賀航空隊付き、海軍少佐佐山武雄だ。ところで君は大尉だろう。陸軍海軍と所属は違っても上級者には敬礼をしてからものを尋ねるのが礼儀ではないのか。とにかくうちの隊の者に非があれば、当方で調査をした後に貴隊の責任者に連絡する。この場はお引取り願おう。」
佐山少佐は高藤飛曹長から軍刀を受け取ると憲兵曹長に手渡した。ともかくこの場でこれ以上言い争うつもりはないという佐山少佐の意思表示だった。
「そうはいきません。陸軍であろうが、海軍であろうが、軍規違反を取り締まるのが我々の仕事ですからな。尻尾を巻いて子供の使いのように引き下がるわけにはいきませんな。」
岸本大尉の言葉を合図に後ろに控えた憲兵隊員は腰の拳銃に手をかけた。それを見た山下大尉は「おい」と大声を上げると、今度は隊の若い者がそれぞれ小銃を手に飛び込んで来て憲兵隊員に向かって銃を構えた。事はすでに我々の手を離れてお定まりの陸海軍の確執に発展し、しかも一触即発の状態だった。
そこに割って入ったのが小桜だった。小桜は必死の形相で銃を構えてにらみ合っている陸海軍の兵士に訴えた。
「皆さん、止めてください。皆さんが銃を向ける相手は敵の兵隊じゃないですか。なぜ、日本の兵隊同士で争うのですか。銃を下ろして下さい。止めてください。」
涙を流して訴える小桜の姿を見て山下大尉が「撃ち方待て。」の号令をかけて銃を下ろさせた。一方憲兵隊員は相変わらず銃を構えたままだったが、さすがに動揺は隠せなかった。岸本大尉もその動揺を見て取ったのか、短く「おい。」と顎をしゃくって銃を収めさせた。
「この件については改めて部隊を通じて申し入れることにする。」
頭の上から叩きつけるような言い方で告げると岸本大尉は引き上げていった。
「お前たち、少しは弁えろよ。」
佐山少佐はあきれ返ったとでも言いたそうな顔で私達二人を交互に見据えたが、この騒動については何も言わなかった。
「いくら奴等でも今日はこれ以上何もしてはこんだろうが、足を運びついでに今日はここで警戒と行くか。高藤兵曹長、ご苦労だが武器を持った者を連れて基地へ納めに行ってくれんか。納め終わったらここに戻って来い。今日はここで不寝番だ。陸助の憲兵なんぞに好き勝手させたら海軍航空隊の名折れだぞ。」
山下大尉は部下に矢継ぎ早に指示を与えて彼らの様子を見守っていた。その誰もが闘争心を煽られて顔を上気させ機敏に動いていた。このところの敗戦続きと暗い先行きで誰もが沈みがちだった。唯一の味方であるはずの陸軍を利用して敵愾心を煽ることの是非はとにかく山下大尉にはこれが狙いだったのかもしれない。
「いいか、お前等、隊長の言うとおり今日はここを死守するぞ。」
「よーし、決戦だ。」
若い隊員たちは口々に気勢を上げた。佐山少佐にしても満更でもなさそうな様子で気勢を上げる隊員たちを眺めていた。そんな様子に一番冷ややかな視線を向けていたのは高瀬だった。
「ところで誰が隊に連絡したのですか。」
私は山下大尉に聞いた。
「小梅という芸妓から隊に電話があった。貴様達が憲兵隊に暴行を受けているとな。」
「我々がですか。一番ひどい目にあったのは、あの憲兵曹長じゃないですか。」
高瀬がしたり顔でそう言うと場が沸き返った。
「この男は我々と憲兵隊のいざこざを聞いて、初めからこれを狙って隊員に小銃まで持たせて出動させたのか。」
当然といえば至極当然に敗戦を重ねて来たフィリピン戦線で、ただ一人勝ち続けてきた伝説の指揮官がこの男だった。この男のやり口は奇襲で相手の弱点を突くことだった。その点では高瀬のやり方とよく似ていた。高瀬の戦法も相手の隙を突くことだった。
しかしその突き方が全く違っていた。高瀬は敵を冷静にそして客観的に分析することで相手の隙を見つけ出した。そしてそこを的確に狙った。ところが山下大尉は相手の思いもよらない奇策をもって敵を撹乱して、それに慌てた敵が見せる隙を突いた。
憲兵との小競合いで武器まで持ち出し、威嚇するなどとは誰も思いつかないことだった。それを見て憲兵は怯んだ。いくら飛ぶ鳥落とす勢いの憲兵でも、この程度のことで皇軍相撃の事態に至っては到底無事では済まない。そこに隙が生まれた。そして山下大尉はその隙を突いて見事に事態を有利に収めた。まさに紙一重の勝利だった。最初からこれを読んでいたのなら恐ろしい男だと思ったが、単に敵にとって恐ろしいだけでなく味方にとっても恐ろしい男に思えた。
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小説2 | 日記
Posted at
2016/09/10 18:25:00
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