2016年09月22日
翼の向こうに(23)
「君は本当にこんなところまで来たんだね。今は何をしているんだ。」
私は小桜の生活が気になって尋ねた。
「今は疎開してきた子供の世話をしています。戦争や空襲で両親を亡くした子供も少なくありません。私の他にもう一人女性がいます。私よりもずっと若い人ですが、とてもしっかりしていて私なんかとても敵いません。それでも毎日一生懸命子供達の面倒を見ています。皆明るくていい子達ですよ。」
「夜はどうするんだ。子供達だけで泊まっているのか。」
「そのもう一人の女の人が、若尾さんと言いますが、子供たちと泊まっています。そしてどうしても都合のある時は私が代わって泊まります。週に一度くらい知人が来るということで代わることがあります。若尾さん、何も言いたがりませんが、海軍の方のようですよ、その知人という方。多分、同じ部隊の。」
同じ部隊と言われても、搭乗員だけでなく、偵察、整備から防空、補給、衛生、主計、司令部、その他全てを含めれば数千人もの隊員がいるので、その時はそれが誰なのか特に気にもとめなかった。
「子供は何人くらいいるんだ。」
「三十七人、一番上は国民学校の高等科一年です。一番下は五歳。まだ親が恋しくて仕方のない年頃の子供達ばかりです。それでも元気に生活しています。」
「生活費はどうしているんだ。随分かかるだろう。」
「子供達の親からの仕送りと、そして町が出してくれています。とても充分とはいえませんが。」
そう言われて私は財布に少しばかりまとまった金を持っていることを思い出した。こちらに来てから外に繰り出す機会も減って金が余っていたので小桜に渡そうと思って持ってきた金だった。
「これを遣ってくれ。ここじゃ遣うところもない。明日の命も分からない者が余分な金を持っていても仕方がない。何かの役に立てば僕もありがたい。」
「そんな言い方は好きではありません。でも子供達のためにありがたくお預かりします。今はお金があってもなかなか必要なものも手に入りませんが、それでも随分と役に立つこともありますので。大切に遣わせていただきます。」
小桜は丁寧に金を財布にしまったが、その表情は硬く暗かった。私は小桜の表情に納得がいかなかった。
「どうしてそんなに寂しそうな顔をするんだ。何か気に触るようなことを言ったか。」
「生きてください。明日も分からないなんて言わないでください。国のため、大切な人のため戦っているんだと言う皆さんの気持ちはよく分かります。ご自分を犠牲になさって国難に赴く皆さんはとても御立派だと思います。でも、女には戦争に勝とうが負けようがそんなこと関係ないんです。好きな人と一緒にいられれば、それが女にとって一番の幸せなんです。鬼畜米英といってもアメリカもイギリスも私たちと同じ人間の暮らしている国です。
あなたや高瀬さんが話していたようにこの戦争はあえてしなくてもいい戦争だったのなら負けてしまって、それで世の中の仕組みが変わっても、権力者が代わっても、普通に生活が出来るのならそれでいいのです。好きな人と暮らせるのなら、そしてその人の子供を産んで育てることが出来るのなら、それで充分なのです。」
私には小桜が言っていることの意味がよく分からなかった。アメリカやイギリスがこの戦に勝てば日本人を皆殺しにするとか、男は全員去勢して奴隷にするとか、さすがにそんなことをするとは思わなかったが、戦いに敗れて国がなくなり、民族の尊厳や独立が保てなくなってしまって、それが何の幸せなのか理解が出来なかった。ただ久しぶりに家庭の雰囲気に浸って穏やかな心地を味わっている時に、今ここで余計な議論はしたくはなかった。
「小桜、君の言うことは分かったが、今、ここで議論はしたくはない。高瀬も生きる努力をしろと言っていた。勿論、僕も理由もなく死ぬつもりはない。生きる努力はする。ただしそれは自分の義務を果たすという前提があってのことだ。そして今の自分の義務は日本に侵攻してくる敵と戦うことだ。さっき、大家の奥さんに言われたよ。うちの戦闘機隊はたくさん戦闘機を持っているのに、空襲警報のたびに逃げ回ってばかりいて戦おうとしないとさ。
敵機をたくさん撃墜してくれると思ったのに、逃げてばかりでがっかりしたと。軍には軍の計画なり方針があって、それに従って戦闘の準備をしているんだが、そんなこととは関係なく、ここの町の人たちは俺達が自分達をしっかりと守ってくれることを期待しているんだ。逃げ回っているという批判は軍の内部にもそこそこあったが、同じ軍人に言われても、これほどは堪えなかった。自分にどれほどのことが出来るかは分からないが、とにかく最善を尽くす。
さあ、せっかく尋ねてきたのだからもうこのくらいにしてのんびりさせてくれ。何だか穏やかないい気分なんだ。久しぶりに軍隊を離れて家庭を味わったせいかな。」
「分かりました。どんな目的にしろ、あなたが生きていてくれれば私はそれで充分です。さあどうぞ。たいしたことは出来ませんが、せめてのんびりと心と体を休めてください。」
小桜は銚子を取って差し出した。私もそれを黙って盃で受けて口に運んだ。そうして銚子を三本ほど飲んだところで勤務の疲れもあったのか、眠気がさして来た。二、三回欠伸をすると小桜が私の脇によって来て、私の肩をそっと引き寄せると、私の頭を自分の膝の上に載せた。私が首を廻して小桜の顔を見ると、小桜は穏やかに微笑み返した。その小桜の首に手を廻して引き寄せた。小桜は特に抗う様子もなく、それよりも自分から顔を寄せて唇を合わせた。しばらくそのままお互いに動かずにいたが、やがて小桜がそっと体を起こした。
「ここを片付けてしまいますから、少しだけ待っていてください。すぐに済みますから。」
小桜は私の頭の下に二つに折った座布団を差し込むと静かに立ち上がった。私は小桜が敷いてくれた座布団に頭を載せて目を瞑っていた。
「待っていてください。」
小桜が何故そう言ったのか、その意味は無粋な私にもよく分かった。
『この先に小桜に何をしてやれる保障もないのに、ただ荒れた自分の心を手当てするだけのために、小桜を利用しようとしているのではないのか。ここに来れば、小桜は言いなりになることを期待していたのではなかったのか。自分は本当に小桜をどう思っているのか。』
洗い物の茶碗の触れ合う音を聞きながら、私は自問自答を繰り返した。そうしているうちに私は何時の間にか眠ってしまっていた。
「このままじゃ風邪を引きますよ。床をとりましたからそちらでお休みになってください。」
小桜に起こされて、私は驚いて起き上がった。そして深刻ぶって考え込んでいたつもりで、自分がすっかり眠り込んでいたことに気がついて、その無責任さを恥じた。
「お茶が入りました。どうぞ。」
寝ぼけ眼で差し出された湯飲みのお茶を見つめた。今時のお茶には珍しいほど鮮やかな緑色だった。湯飲みを取って一口口に含むと、上品な苦味が広がった。
「今時珍しいほどいいお茶だ。よく手に入ったな、こんなお茶が。」
「大家の奥さんが作っているものを少しばかり分けてもらったものです。普通ならとても手に入りません。」
小桜の話を聞きながら、お茶を二口、三口とすすっているうちにようやく頭がはっきりとしてきた。お茶のお代わりをもらって、今度はゆっくりと味わって飲んでみた。食事も酒も風呂も、そしてお茶も、今日ここで味わったものはどれもこれも穏やかな平和の味がした。何よりこの小さな離れの中のほとんど物音一つしない静かな空間と優しい小桜の立ち居振舞いが尖った私の神経を静めてくれた。
「床を延べますので。」
小桜は飲み終わった湯飲みを下げると卓袱台を端に寄せた。
「俺がやろう。」
私は立ち上がって押入れを開けた。そこには蒲団が一組しかなかった。
「急だったので間に合いませんでした。どうぞお使いください。」
小桜は申し訳なさそうに言った。
「君はどうするんだ。」
「座布団でも敷いて何か羽織って休みますから。」
「君さえ構わないのなら、その、一緒に使わないか。いや、僕はそうしたいのだけれど、その、君さえよければ。」
私が言い出さなければ、どうにもなりそうもなかったので思い切って口に出してみた。小桜もそのつもりだったのだろうが、芸者をしていたとはいえ我々と同じように俄か雇いの臨時芸者の小桜にとって男に自分から「一緒に寝てくれ。」と言わせるのは酷に思えた。
「あなたがそれで構わないのなら、」
小桜は小さいがしっかりした声で言った。
「お風呂を使ってきます。済みませんが少し待っていてください。」
小桜は立ち上がると土間の方へ降りていった。私は蒲団の上に仰向けに転がった。時々小桜が風呂を使う水の音が響いてくる他は物音一つ聞こえない静か過ぎる晩だった。しばらくして水の流れる音が途絶えるとまもなく髪を束ねた小桜が上がってきた。そして簡単な身繕いを済ませると戸締りを確認して火鉢の火を始末してから蒲団の脇に座った。私は立ち上がって明かりを消すと手早く蒲団をめくって中に滑り込んだ。
横になって見上げると小桜はまだ蒲団の脇に座ったままだった。私は掛け布団を少し持ち上げて小桜を促がした。
「失礼します。」
小さな声で言うと小桜はその隙間に体を滑り込ませた。そうしてようやく私達はお互いに望んでいたようにお互いの温もりを感じながら、ほんの一時の穏やかな眠りについた。
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小説2 | 日記
Posted at
2016/09/22 22:14:14
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