2016年09月24日
翼の向こうに(24)
鍋の蓋が鳴る音で目が覚めた。随分昔に聞いたことのある懐かしい音だった。目は覚めたがまだ体のどの部分も動き出してはいなかったので自分が何処にいるのかよくは分からなかった。それでもおぼろげに視界に入ってくる景色でようやく昨晩のことを思い出した。ゆっくりと体を起こすと頭を二、三回軽く振ってから一度大きく体を反らせた。
「もう起きたのですか。まだ五時を回ったばかりです。もう少し休まれたら。」
小桜が私を振り返った。
「門限にはまだ間があるけれど、こんな時期だ。あまりのんびりはしていられない。帰隊しなければ。」
「それではすぐに食事の用意をします。とりあえず顔でも洗って待っていてください。お風呂場の手桶に水が汲んであります。」
小桜に言われたとおり風呂場に行って手桶の水で顔を洗った。水の冷たさが全身を覚醒させた。顔を洗い終わって座敷に戻ると蒲団はもう畳んであって、代わりに卓袱台が置かれて食事の支度が出来ていた。粥に梅干、そして温め直した昨日の野菜の煮付けに味噌汁だった。
小桜が横に座って給仕をしてくれた。昨晩と同様豊かな食事ではなかったが、私は相変わらず穏やかな温かみに包まれていた。そして小桜は何も言わずに私が食事をするのを黙って眺めていた。
「小桜、一緒に食べよう。」
私は小桜を促がしたが小桜は黙って首を横に振った。
「あなたが食事をしているところをよく見ていたいのです。いえ、何でもいいからあなたをよく見ていたいんです。」
小桜はほんの少しだけ笑顔を見せたが、すぐに顔を曇らせた。
「いけないことは分かっていますが、あなたを戦争には返したくないんです。」
全く予想もしなかった言葉だった。そして予想しなかった分だけ動揺も大きかった。小桜の言葉で自分の心の中にわだかまっていたものが一度に噴出しそうになるのをかろうじて堪えた。そして噴出してくるものをもう一度中に押し戻すように茶碗の粥を口に流し込んだ。
「馬鹿なことをいいました。許してください。」
小桜は早春の静かな朝の中でさえ、耳に届かないくらい小さい声で言った。私は手に持っていた箸と茶碗を卓袱台の上に置くと小桜の肩をつかんで引き寄せて力いっぱい抱きしめた。私の体に小桜の体が重なり合って、一つになりそうなくらい力をこめて抱きしめてから、そっと元の位置まで小桜を押し戻した。
「部隊に戻る。」
私は立ち上がって軍服に着替えた。これ以上小桜のそばにいると戻れなくなりそうな気がした。土間に降りて靴を履いて外套を羽織ると殺伐とした戦争の臭いが戻ってきた。引き戸を開けて外に出る時、後ろを振り返ると目に涙をためた小桜が立っていた。
「また来る。」
他に言うべき言葉が見つからなかった私は小桜に向かってそう言った。小桜は笑顔を作ろうとしたのか顔を歪めながら大きく二、三回頷いた。小桜の家を出た私は娑婆の未練を振り払うように乱暴な足取りで基地へと急いだ。
基地の門をくぐると真っ直ぐに飛行長のところに行って帰隊申告を済ませてから自分の隊舎に戻った。部屋は食事に行っている者や勤務についている者が多いのかがらんとした感じだったが、あれこれ聞かれずに済む分だけありがたかった。
私は手早く飛行服に着替えて待機所に向かった。待機所の黒板には待機任務の編成表が張り出されていたが、訓練の搭乗割は何も書かれていなかった。私は誰もいない待機所の椅子に腰を下ろして飛行場を見渡した。待機所の脇では即時待機に割り当てられた機体の整備のために整備員が忙しく動き回っていた。そのうちの一人が私に気がついて待機所に向かって走ってきた。
「武田中尉、士官の方は午前八時から会議があるのではないのですか。まもなく時間になりますがよろしいのですか。」
「何も聞いていないが、それで誰も出ては来ないんだな。」
「下士官や兵隊で勤務に当たっていない者には一七○○まで外出許可が出ています。待機勤務者はまもなく集合しますが。」
私は会議があることを教えてくれた整備兵に「ありがとう。」と礼を言ってポケットに入れてあった煙草を渡すと兵舎に向かって駆け出した。士官室に入ると大方の者はもう集っていて、ほとんど全員が遅れて入って来た私を振り返った。
「おお、武田中尉、今朝伝達するのを忘れた。済まなかった。」
飛行長が助け舟を出したつもりだったのか、私に向かって大声で言った。その一言で全員がどっと沸き返った。私は俯き加減で部屋の隅の空いている席に座った。その直後に「気をつけ。」という飛行長の声が響き渡って司令が部屋に入って来た。司令は全員を着席させるよう飛行長に合図をしてから、ゆっくりと部屋の中央まで歩いて行った。そして全員を見渡すと口を開いた。
「諸君には長い間訓練を積んでもらったが、この苛烈な戦況の中、よく周囲の非難に堪えて黙々と訓練に励み、飛行長以下全員が一丸となって精強な戦闘機隊を作り上げてくれたことを本職は心から礼を言わせてもらう。町の者でさえ『逃げ足は海軍一の松山戦闘機隊。』と言っていたそうだから、諸君の悔しさもひとしおだったことだろう。
しかし諸君に戦ってもらう時が来た。敵機動部隊は泊地を抜錨して北上中との情報が入った。敵が沖縄上陸を前に西日本に展開する我が軍の航空兵力に対する航空撃滅戦を企画していることは間違いない。近日中に敵は必ず大挙して来襲してくるだろう。諸君にはこれまでの訓練の成果を遺憾なく発揮して敢闘してもらいたい。言うまでもないことだが、我々の目的は本土上空の制空権の奪回とその拡大にある。このことを忘れず戦闘に当たっては敵の戦闘機を主目標に、これを徹底的に撃墜してもらいたい。
それから一言付け加えておくが、何があっても生きて帰って来い。安易な自爆は絶対に禁ずる。部下にもこのことは徹底してもらいたい。いいか、生きているうちはプロペラを手で廻しても帰って来て戦ってもらいたい。以上だ。」
部屋に「気をつけ。」の号令が再び響いた。全員が立ち上がって不動の姿勢で司令を見送った。司令が出て行った後、部屋にはざわめきが広がった。誰もが異様に高揚した気分になっていた。重苦しく空を覆っていた曇が切れて明るい日が差してきたような気分だった。戦闘に参加するということは要するに「死に就く。」ということなのに何故こんなに高揚した気分になるのか自分にもよく分からなかった。
司令は「生きろ。」と言う。小桜も「生きてください。」と言った。同じ『生きてくれ。』という言葉でも、その意味するところは全く違っていた。司令は何度でも死地に赴くために生きろと言う。小桜は小さな世界でも平和に生活するために生きろと言う。そしてその全く意味の異なる二つの『生きろ。』に同時に惹かれている自分を訝しく思った。
その後飛行長からいくつかの指示があって集会は解散となり、その日は外出が許可された。士官室を出て寝室に戻る途中高瀬に声をかけられた。高瀬は出かけるところがあるらしかったが、私にも一緒に行って欲しいと言った。特に当てもなかった私は二つ返事で高瀬の頼みを受入れた。そして高瀬に言われたとおりしばらく部屋で待っていると高瀬が呼びに来た。
外に出るとトラックが一台停めてあった。高瀬は運転席に乗り込んで、私に『早く乗れ。』と手招きした。そして私が乗り込むとトラックを発進させた。
「貴様、車を運転できるのか。」
私は高瀬に尋ねた。
「戦闘機乗りがこんなものもくらい転がせんでどうするか。」
高瀬は威張って胸を張ったが、すぐに本当のことを白状した。高瀬は訓練の暇をみては補給隊に行ってトラックを借り出して練習していたのだった。
「免許はどうした。」
「海軍御用だ。こんな時に取締りもなかろう。」
高瀬は鼻歌交じりで車を走らせて行った。私は何処に何をしに行くのかも聞いていなかったが、高瀬が車を乗りつけた場所を見て驚いた。高瀬の目的地は昨晩小桜と話していた疎開所だったのだ。
「この疎開所の先生と交際している海軍士官というのは、高瀬、お前だったのか。」
高瀬は、「なんだ、小桜から聞いていなかったのか。」と言いながらトラックの運転席から飛び降りた。その高瀬をめがけて子供の一団が校舎から走り出してきた。そしてその後に若い女性と小桜の姿が見えた。高瀬は駆け寄ってくる子供達を抱え上げては次々にトラックの荷台に載せていった。
「箱に入っている菓子は自由に食べていいぞ。たいしたものはないが量だけは充分にあるからな。仲良く食べろよ。」
高瀬を手伝って小さな子供を荷台に載せながら子供が手にした菓子というものを見ると何処で員数をつけたのか、乾パンに金平糖を混ぜた野戦携帯口糧だった。子供を乗せ終わると高瀬は荷台の脇に積んであった箱や袋を下ろしにかかった。これも軍需物資の米や缶詰が入っているようだった。こうしてすっかり準備が終わると荷台の仕切り戸を上げて小桜ともう一人の女性を運転席の脇に乗せて車を発進させた。
「ずっと以前から子供達と約束をしていたんだ。車で何所かに連れて行って腹一杯食わせてやるって。いよいよ戦闘になるから命のある今のうちじゃないと約束が果たせなくなるからな。」
高瀬は一人でしゃべり続けた。高瀬によれば以前松山に視察に来た時、料亭で臨時の女中をしていたこの女性と知り合い、事情を聞いて同情したのがきっかけで交際が始まったのだそうだ。今になって思えばこちらへ来てから高瀬はよく一人で出かけていたが、こんな事情があったことは小桜に聞いた時も思いつきもしなかった。トラックは小一時間も走ってから河原に乗り入れて停まった。高瀬はすぐに運転席から飛び降りて子供達を荷台から下ろしに走った。私も高瀬の後に続いた。子供達は歓声を上げて河原を走り出した。
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小説2 | 日記
Posted at
2016/09/24 23:41:49
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