2016年10月03日
翼の向こうに(27)
「敵機だ」
山下大尉が叫んだ。その直後、さらに一機が炎上して編隊から脱落していった。基地は大騒ぎになった。第二次制空隊の発進は中止され、後は高瀬の編隊にこの状況を託す以外には手がなかったが、早朝で敵の来襲はないだろうとの判断から高瀬が率いていたのはほとんど実戦経験のない若い搭乗員ばかりだった。
高瀬の編隊を蹂躙して駆け抜けた敵機は高速で上昇しながら大きく旋回して、もう一度味方の後方に付こうとしていた。その敵機に向かって第二小隊の二機が機首を翻して向かっていった。
「危ない。退避しろ。」
高藤上飛曹が叫んだ。
「奴等だ。昨日の奴等だ。」
第二区隊の二機に向かって再び急降下していく銀色の機体に赤、青、黄、緑の色を見た私は思わず叫んだ。その四機は反撃しようとした第二区隊の二機をいとも簡単に炎上させると、今度は残った高瀬達第一区隊に狙いを定めた。高瀬は相変わらず同じ高度で直線飛行を続けていたが、列機の二機はすでに何処かに退避したようで姿が見えなかった。
八機の制空隊は敵の急襲になすところなく壊滅して基地の上空に残るのは高瀬ただ一機になってしまった。地上にいる者は全員が固唾を飲んで見守ったが、高瀬は敵機には全く気づかないように通常の速度で高瀬自身が絶対にしてはいけないと言っていた戦闘空域内での直線飛行を続けていた。その高瀬をめがけて敵機は後上方から二機づつの二隊に別れて急降下を開始した。
「危ない。」
高藤上飛曹がまた叫んだ。そして最初の二機がまさに射点に着いた時、高瀬の機体はゆっくりと機首を上げて横転しながら上昇した。そのため敵機の火線は高瀬の機体の下側を通り過ぎた。
「うまい。」
高藤飛曹長が手を叩いた。次の瞬間、高瀬は機体を背面のまま急降下させて機体に行き足をつけてから、今度は急激に機体を引き起こした。後の二機は高瀬の機体が急に消えたので面食らったようにそのまま降下していった。その後方に付けた高瀬は機体を背面から百八十度捻って通常の態勢に戻すとそのまま敵機に向かって急降下して行った。
機体を引き起こして旋回しながら高度を取ろうとしていた敵機の後方から高瀬の火線が襲った。二機の敵機はその全身に二十ミリ機関砲弾を浴びて爆発し、空中に飛散した。地上でこの光景を見ていた者は誰もが高瀬の巧みな空戦技術に舌を巻いたが、驚くのはそれからだった。
高瀬はもう一度急降下で行き足をつけてから機体を引き起こして急上昇を始め、援護に戻ってきた敵の残りの二機を追った。そして今度は背面のまま急降下しながら敵機に火線を集中し、さらに一機を撃墜した。残った最後の敵は機体を捻って急降下で逃れていく高瀬の機体を追った。新鋭の紫電とはいえ速度は敵の方が速い。
敵機は徐々に距離を詰めながら高瀬の動きを警戒して様子を見ていたが、高度も下がって急降下で逃れることも不可能と見たのか、速度を上げると高瀬に照準を定めた。今度こそ逃れる手はないかと地上では息を飲んだが、高瀬は機首を上げずにそのまま横転に入った。横転をすると当然高度も速度も落ちるため、高速で降下してきた敵機は目標を失ってのめるように高瀬の前に出た。その瞬間を高瀬は見逃さなかった。そのまま高度を下げていく敵を後下方から追いかけて衝突寸前まで距離を詰めて一撃を加えた。敵機は折れ曲がるように機首を下げ、そのまま地上に突入して爆発した。
戦闘を終えた高瀬はたった一機で飛行場上空を制するように旋回を続けた。その間に退避していた列機は着陸した。そしてそれと入れ替わりに第二次制空隊が離陸して高度を取り終わるのを見届けると高瀬は飛行場に悠然と着陸して来た。
機体の行き足が止まると高瀬が降りて来た。何時もと変わらず飛行機の周りをゆっくりと歩いて一周して点検を済ませてから機体を整備員に委ねると高瀬は指揮所に向かって走って来た。そして司令の前で不動の姿勢で敬礼した。
「高瀬中尉他二名、制空任務から帰還しました。決戦を前にして貴重な搭乗員と機体を失い、申し訳ありません。」
「ご苦労だった。」
短いやり取りが終わると飛行長が口を挟んだ。
「小隊長、撃墜数を報告しろ。」
高瀬は余り気乗りのしない様子で「第一次制空隊、敵戦闘機四機を撃墜。」と付け加えた。
「高瀬中尉、見事だった。」
司令は酒二升と手元に置いてあった赤いマフラーを差し出した。高瀬はそれを受け取ると司令の前を辞して待機所に戻って来た。そこに列機の搭乗員二名が駆け寄った。
「申し訳ありませんでした。」
二人は高瀬に向かって深々と頭を下げた。
「気にするな。戦はこれからだ。命を大事にお互い御国のためにがんばろう。」
高瀬は二人に向かって笑顔を見せた。そして一升瓶を差し出すと「後で飲め。戦死した仲間の弔いだ。」と二人に渡した。そして口々に「見事だった。」と称える搭乗員に会釈をしながら待機所の隅にある椅子に腰を下ろして煙草に火を点けた。私は高瀬に声でもかけようと思ったが、しばらくそっとしておいてやろうと思い止まった。それを高瀬が認めて私に声をかけてきた。
「こっぴどくやられたよ。無線が悪くて退避の指示が届かなかった。死んだ者には気の毒なことをした。」
「貴様の戦いぶりは鮮やかだった。見事だ。」
「最初の二機は明らかに油断していた。狙いを外したら速やかに安全圏に退避すべきだ。それをのんびりと緩降下していた。三機目は俺の方が少しばかり運がよかった。最後の一機は紙一重だった。どっちが落とされても不思議じゃなかった。だがいくら敵を落としても味方に被害を出したんじゃ何もならない。」
高瀬は遠くの空を見つめたまま独り言でも言うように言葉を続けた。
「貴様はあの敵の戦い方を残虐だと思うか。女や子供と分かっていて、それでも圧倒的な威力を持って皆殺しにしようとする、あの戦い方を残虐だと思うか。あれが奴等の戦い方なんだ。自分たちに反抗するものは徹底的に殲滅する。とにかく隷従するようになるまで痛めつける。そんな敵と戦うには、しかもどうしようもない劣勢で戦うにはこっちが被害を出しちゃいけなかったんだが。」
「戦えば被害は付き物だ。」
背中に声が響いた。振り返ると山下大尉が立っていた。
「戦闘に被害は付き物だ。指揮官としてそれを恐れていては戦などできん。高瀬中尉、貴様の空戦技量は見事だ。しかし指揮官としては落第だ。あの場合、第二編隊の四機を捨てても自分の直卒を率いて反撃すべきだ。それを全機無事に退避させようとして一瞬躊躇った。そしてあの被害を出した。」
「以後注意します。」
高瀬は山下大尉に一言無表情で答えた。
「隊長、」
私は堪え切れずに山下大尉を呼び止めた。山下大尉は私の呼びかけに足を止めて振り返った。
「高瀬はあの時編隊を維持して技量未熟な搭乗員を安全に退避させようとして戦闘行動に入らなかったのです。もしも高瀬が機動を起こしていたら他の搭乗員は高瀬の機動についていけずにちりぢりになり、各個撃破されて一機も帰還出来なかったでしょう。敵の襲撃を受けて二機が撃墜された後、高瀬は高度を上げて編隊に被さるようにして列機を庇って飛んでいました。高瀬の乗機の無線が正常ならこんな被害は出なかったはずですし、もっとうまい、」
そこまで言ったところで私は顔面に衝撃を受けて後ろに飛ばされた。顔を上げると鬼のように顔を赤く染めた山下大尉が立っていた。
「貴様等、逃げることばかり考えおって。戦争をしているんだ、戦争を。」
甲高い声が響き渡った。その声に周りにいた者は私たちに注目した。鉄拳制裁が日常茶飯事の軍隊でも士官が士官を衆人看視の中で殴ることはまれだった。辺りは喉を鳴らす音さえ響き渡りそうなくらい静まり返った。そこに椅子から立ち上がった高瀬がゆっくり近づいてきて倒れた私に手を伸ばした。私はその手をそっと押し退けて立ち上がった。
「隊長、私たちが悪かったのです。小隊長や武田中尉を責めないでください。今度は立派に戦って見せます。」
高瀬の列機の搭乗員が間に割って入った。
「我々は今度出撃したら生きて帰ろうとは思いません。」
必死の形相で訴える若い搭乗員を制して高瀬が静かに言った。
「すべて指揮官の責任です。申し訳ありませんでした。」
この高瀬の一言で山下大尉もようやく矛を納めてその場を立ち去った。高瀬はその場に残されてうな垂れる搭乗員に静かに語りかけた。
「死んで見せるなどと馬鹿なことを言うな。簡単に死ぬなどということは尻尾を巻いて逃げ出すのと同じことだ。貴様らが死んでしまったら、一体誰がこの国を守るんだ。力一杯戦え。そして生きて帰って来い。次の世代が育つまでこの国を守っていくんだ。」
高瀬はそれからしばらく兄のように静かに優しく泣きじゃくる若い搭乗員達に語りかけていた。その日は夕方まで即時待機が続いたが、結局敵の大挙来襲はなく策敵に出ていた偵察機も日が傾きかけた空を突き抜けて次々に基地に帰投した。この日の戦闘は早朝高瀬達が戦った小規模なものだけだったが、その余波は静かに部隊に広がりつつあった。
特に若い搭乗員達にとって衝撃的だったのはあれだけの厳しい訓練を重ねて自他ともに海軍切っての精鋭部隊と自負していたのが、奇襲を受けたとはいえ、四機の敵に瞬く間に五機が撃墜されたその事実だった。もしも高瀬のような天才的な搭乗員がいなければなすところなく全機が落とされていても何の不思議もなかった。それを目の当たりに見せつけられた塔乗員達の落胆ぶりは想像に余りあるものだった。
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小説2 | 日記
Posted at
2016/10/03 00:37:55
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