2016年10月08日
あり得ないことが、(112)
目的地まではタクシーでほんの十分もかからずに着いた。五人で乗るのはちょっと気が引けたので二台停めて分かれて行こうとしたら、先の車に言葉屋、クレヨン、テキストエディターが乗り込んでしまって僕と女土方は二人でタクシーに乗る羽目になった。
これまでならタクシーの中でも適当にじゃれ合っていたかも知れないが、今回ばかりは左右にきっちりと別れて座り言葉も交わさなかったのでほんの短い時間でも何だか居心地が悪かった。
言葉屋お勧めのジャズバーと言うのは、良くぞこの時代まで生き残ったというくらい一九六〇年代の雰囲気を漂わせたレトロな感覚の店で実際僕などにとっても歴史の一コマを強く感じさせる店だった。僕はこの店が何処かで見たような気がしたが考えてみれば何処となくあのビアンバーに似ているのかも知れない。
店に入ると何組かの客が席を占めていたが、当たり前なんだろうが、皆相応の年配者だった。そしてこれもまた大時代なオーディオから流れるジャズの曲に聞き入っていた。このオーディオセットにしても今は馬鹿でかいウーハーのついたスピーカーボックス、アンプにイコライザー、ミキサー、ターンテーブルにテープデッキなんてよほどの店でも行かない限り手に入らないだろうが、ざっと見ただけでも一千万くらいかかっているのかも知れない。
お客は店の一角を占めている巨大なレコード棚を丁寧に見て回り、そこから一枚のレコードを引っ張り出すと悦に入った表情でジャケットなどを眺めながらカウンターに持って行き、それを演奏してもらっている様子だった。
だから店の中はほとんど話し声はしない代わりにトランペットやトロンボーンあるいはサックスなどの金管楽器やピアノの旋律などが鳴り響いていた。ちなみに僕は一時期ジャズに興味を持ったことがあったが、すぐに飽きてしまったからジャズのことはほとんど何も分からない。でもこのしっとりとした情感溢れる旋律は決して悪くないと思う。
言葉屋は慣れた様子で店主に軽く挨拶をすると店内中央の円卓についた。他のテーブルはすべて少人数用にセットされているので選択肢はここしかなかったが、八人から十人くらい座れそうなこの円卓も普段は一人客やカップルがぽつりぽつりと座っているそうだ。貸切とかそういう場合は別にしてこんなところに大人数で来る客もあまりいないだろう。
「ここは見てのとおりこんな時代がかった店でとっくにつぶれても良さそうなものですが、ここが良いという根強い顧客がいるようで未だにつぶれもしないで続いています。かく言う僕も根強い顧客の一人なんですが。」
言葉屋がそんなことを言っていると店主がメニューを持って現れた。
「そんなことを言ってもこっちが店を近代的に改装すると言い出すと強硬に反対するのは富岡さん達じゃないですか。お陰で私は近代的な飲食店チェーン経営者になり損ねて何時までたっても時代遅れのジャズバーの親父ですよ。」
「こんなこと言ってね、このマスターはバブル期にここが地上げにかかった時なんか嫌がらせに来たヤクザと張り合って一歩も引かずに渡り合ったんだ。何だかんだ言ってもご本人がこの今の店が一番好きなんだから。」
「ほらほら、つまらないことばかり言っていないで注文はどうするんですか。」
店主に促されてメニューを覗き込んだがどうも今時の店の三分の一くらいしか品数がない。酒類はバーボンとビールが中心でその他はほんの申し訳程度だった。
「これでもずい分増えたよ、ついこの間までは酒と言えばビールとバーボン、料理はステーキ、ハンバーガーにフレンチフライとグリーンサラダくらいだったんだから。」
「じゃあ、ステーキにフレンチフライをお願いします。それからビールも。」
テキストエディターが元気な声をあげた。
「あんた、そんなものバクバク食っていると太るわよ。」
こいつのケツはすでにチェック済みでやや手遅れの感があるが一応警告してやった。
「いいの、食べる時は思い切り食べるの。」
テキストエディターのお姉さんは太るなどと言うことは少しも意に介してはいないようだった。もっともあれを食べたら体に悪い、これを食べなきゃ体に悪いなんてことを考えながら生活しているより度を過ごさなければ好きなものを好きなように食べて生活している方が体に良いということを聞いたことがある。
食い物よりも何よりも体に一番悪いのはストレスだそうだ。ストレスの緩和と言う点では覚せい剤と同列程度に悪役扱いされているタバコもその効能を認める医者もいるようだ。でもテキストエディターのお姉さんやクレヨンにはそもそもストレスなんて無縁かもしれないが。そうして注文が終わるとテキストエディターのお姉さんは僕と女土方に向き直った。
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Posted at
2016/10/08 18:04:31
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