2016年10月26日
あり得ないことが、(115)
「でも私達はお互いに自分の世界に戻らないといけないのかも知れない。」
「お互いに自分の世界というのはここでしょう。それ以外にはあり得ないわ。なぜそんなことを急に言い出したの。もしも私のことを気遣ってくれているのならそれはありがたいけど無用よ。私はここから何処にも行く気はないわ。」
またこのメビウスの輪のような応酬にはまり込んでしまった。どうも僕はこの手の敢えてはっきりとものを言わないやり方が苦手だ。「これこれこうだからこうしたいんだ。」とはっきりと言ってくれればこちらもやり易いんだが、ものをはっきりと言わないとどうにも手が出せなくなる。
「今の私達を見て皆驚いて足を止めているでしょう。あなたはあっちの世界の人なのよ。あなたはあっちに戻らなくてはいけないのよ。」
「私がどっちの世界の住人かなんて大きなお世話よ。どっちの世界に住むかは私が決めるわ。誰の指示も受けない。もしもあなたが私を嫌いになったのならそう言って。私は自分の生き方を探すわ。そうなの。」
「そんなことない。」
女土方は首を振りながら消え入りそうな声でそう言った。そして僕をゆっくりと押し戻すとそのまま振り向いて駅の方に向かって駆け出して行った。僕は周囲の好奇の視線を受けながらその場に立ち尽くしていた。
「女土方、おれは確かにお前が言うようにお前とは違う世界の人間だよ。でもなあ、そうだからこそお前と一緒にいられるんだ。」
僕はわざわざ声に出して呟いた。そしてあのジャズバーに戻ろうとしたがまだ何人かが足を止めて僕を見ていた。
『おらおら、何を見ていやがるんだ。見せ物じゃねえんだ。』
やくざの捨て台詞のようなことを思い浮かべながら僕は来た道をゆっくりと歩き出した。店に戻ると皆が首を長くして僕の帰りを待っていた。
「どうだったの。」
テキストエディターのお姉さんが真っ先に僕に聞いて来た。
「もつれて絡んでしまった糸は切って捨てる他はないのかもねえ、どうなんだろう。」
僕は半ば本気でそう答えた。クレヨンはもうそれだけで目に涙を溜めてうるうるしていた。
「でも尽くすべきことは尽くさないとね。結果はその後よ。さて少し食って飲むかな。」
僕は席についてテーブルの上のステーキを二切れフォークで突き刺すと口に放り込んだ。そしてその後、フレンチフライを指で挟んで頬張ると今度はビールで流し込んだ。
「ねえ、伊藤さんと別れちゃったらどうするの。」
クレヨンが不安そうに聞いた。
「そうね、その時はあんたと一緒に暮らすわ。いいわね。」
クレヨンは「えっ」という顔をしたまま黙っているので「あんた、まさかいやだって言うんじゃないでしょうね。」と言ってやるとテキストエディターの陰に隠れてしまった。
「佐山さんは本当にそちらの世界の方なんですか。」
言葉屋が声をかけてきた。
「あっちの世界、そっちの世界って一体何処の世界。」
あっちだこっちだと言われてちょっと腹が立った僕はやや不機嫌に答えた。
「あ、いや、悪気じゃないんだけど、佐山さんは結婚もされていたと言うし、ついこの間まで恋人もいたと聞いたのでそんな人が一体どうしたんだろうと思いましてね。それにとても素敵な人なので引く手数多だろうし。ただちょっと愛嬌と言う以上に男っぽいところはあるけれど。」
言葉屋は口では悪かったと言いながらあまり悪気もないような口調でそんなことを言った。
「そうね、皆にそう言われるわ。劇的に人が変わったとかまるで男みたいになったとか。おっしゃるとおり過去には結婚もしていたし恋人もいたわ。でもね、誰が何と言っても嫌なものは嫌だし、好きなものは好きなの。他人が何と思おうと私には関係ないわ。私が自分のために生きるんだから。生きるのも責任を取るのも私なんだから。」
「なるほどねえ、そういう考え方も確かにあるなあ。日本の世の中では受けが悪いかも知れないけれど僕にはよく分かる気がするなあ、そういう考え方って。男だろうと女だろうと好きなものは好き、嫌いなものは嫌いか、分かりやすいなあ。」
言葉屋はしきりに感心していたが、何があっても簡単にヘテロジーニアスがいきなりホモジーニアスになんかなるものか。そうして僕が黙って食ったり飲んだりしていると言葉屋がまた話しかけて来た。
「佐山さんは結婚もしていたし男性の恋人もいたということは、また男性を好きになることがあると言うことなのかな。そうだったら僕も候補に入れてもらえるとうれしいね。」
この言葉でテキストエディターとクレヨンはにわかに活気付いた。
「今の言葉、本気なんですか。こんな野獣のような凶暴な女が良いんですか。手に負えませんよ、この女は。」
クレヨンがまたここぞとばかりに吠え出した。
「誰が手に負えないだって。もう一度言ってごらん。まだ当分あんたのところにいることになるんだからね。勿論今夜もね。」
「佐山主任は超強気だからねえ。難しいかもね。うまく御していくのは。以前はこんな人じゃなかったんだけどね、かわいらしい女性で。」
今度はテキストエディターが話を引き継いだ。こんな人じゃなかったとはどういうことだ。強気だろうが、かわいらしくなかろうが僕のことは大きなお世話だ。
「いくら強気と言っても人間そう何でも強くあれるものでもないし、弱いところだっていろいろあるよ。強い女の人もなかなか可愛いものだよ。」
言葉屋はまた変なことを言い出した。でも僕もその気持ちは良く分かった。確かに強い女は手の内に取り込んでしまえば却って可愛いことが多いんだ。
ブログ一覧 |
小説 | 日記
Posted at
2016/10/26 22:47:30
今、あなたにおすすめ