2016年10月29日
翼の向こうに(32)
気がつくと私は医務室のベッドに寝かされていた。頭の左側が随分と痛んだ。
「気がつかれましたか。中尉。」
衛生兵が振り向いた。
「傷は縫合がすんでいます。出血がひどかったようですが、骨には異常がないと軍医も言っておられましたので、数日で回復すると思います。」
衛生兵は視線を手元に戻して包帯を巻きながら言った。
「戦さはどうなった。」
私は頭に手をやりながら尋ねた。
「詳しいことは分かりません。伝え聞いた話では敵機六十機以上を撃墜して味方の大勝利のようです。未帰還機も僅かとか。」
もっと何でもいいから情報を得ようと口を開こうとしたところに医務室の扉が開いて飛行服のままの高瀬が入ってきた。
「いかれたらしいな。大丈夫か。」
立ち上がって敬礼をしようとした衛生兵を制して高瀬はベッドの脇に歩み寄ってきた。
「貴様の乗り物見てきたよ。散々撃たれたな。F六Fか。」
「いや、TBFだ。四機編隊の。低空だったんで浅い角度で後方から近づいたら散々撃たれた。一機撃墜しはしたが。」
高瀬は呆れた顔をした。
「あれほど注意したのに。命があっただけありがたいと思え。そういう時はな、一度前に出て正面から行くんだ、正面から。それで貴様のスコアは二機か。」
私は黙って頷いた。何だか少し決まりが悪かった。
「貴様はどうだった、あれから。」
照れ隠しに私は高瀬にその後の戦況を尋ねた。
「編隊が崩れてからはこっちの単機が複数の敵機に追い回されて苦労したよ。結局、佐々木が帰らなかった。戦えば被害はつきものと言うが、それにしても辛いもんだよな。自分の隊から未帰還を出すのは。」
佐山は十八歳の三等飛行兵曹で私と同じく今回が初陣だった。冗談が好きで何時もふざけてはしゃいでいた明るい子だった。
「気の毒なことをした。しかし今日は大勝利だったらしいな。」
「ああ、撃墜総数は六十機を超えているらしい。今、本部で集計をしている。撃墜した敵機はほとんどが戦闘機だ。無線を聞いていると、敵の母艦は大慌てのようだ。戦闘機隊が帰って来ないって、そう言ってな。だがうちの方も被弾や発動機の不調などで部隊の稼動機数は三十機を割ってしまったそうだ。当分組織的な戦闘行動は出来ないだろう。味方は百機のうちの二十機、敵は千数百機のうちの六十機、数を頼みに力押に押してくれば明日か明後日までには味方は全滅だ。それではたして勝ったと言えるんだろうか。」
「貴様は何機墜とした。」
「三機だ。あれから敵に食い下がられてかわすのが精一杯だった。」
「敵の後方銃手がな。」
私は頭の包帯を手で数回なでてみた。
「血だらけの顔で天を仰いでいた。パイロットは機体が分解するまで大きく目を見開いて俺の方を見ていた。奴等にはきっと俺が地獄から来た悪魔に見えていただろう。」
高瀬は私の言うことを聞いて大きく口を開けて笑った。
「貴様も立派な人殺しか。」
大笑いしている高瀬の本心をつかみかねて怪訝な顔をしている私に高瀬はいとも簡単に言い放った。
「あの派手な出で立ちの四機の陸軍機、あれも我々から見れば立派過ぎるくらい立派な悪魔だった。あの時奴等のしたことを誰もが悪魔の所業と憤った。同じことだよ、奴等も俺達も。どちらも同じ立派な人殺しだ。貴様にしても撃墜された敵機の搭乗員から見れば、立派過ぎるくらい立派な悪魔に見えたことだろうよ。ところで貴様、どうだった、敵を撃墜したときの感触は。」
「背筋に電流が走ったように体が震えたよ。あんな快感は生まれて初めてだった。TBFの時もあの状況では危険だとは分かっていたんだが、目の前にあんな快感がぶら下がっていると思うと大丈夫だろうと自分に言い聞かせて、つい手を出してしまった。だがな、編隊の後方を抜ける時に搭乗員の顔を見た瞬間、何とも言えないいやな思いが湧きあがってきた。『戦争だ、戦争をしているんだ。』そう言って自分に言い聞かせようとしたんだが、そんなことじゃあとても消えないほど何かが重苦しく垂れ込めていた。体が震えるほどの快感とやり切れない重苦しさ、お前の言うとおり人間とは一体何と言う生き物なんだろう。お前の言うとおり俺達の何処かにやはり悪魔が住んでいるんだろうか。俺は敵と戦うことは正義と思ってきたが、どうも正義だけでは割り切れんな。」
「人の心は、想像の及びもつかないほど広いからな。自分の心と言っても意識できる部分などほんの片隅だけなのかもしれない。そんな心の中に何が棲んでいても不思議じゃないのかもしれないな。」
高瀬はしみじみと噛み締めるように、一言一言言葉を区切って話した。しかしそこには何時もの高瀬らしい歯切れの良さはなかった。夕暮れの草原で道を求める子供のように不安に追い立てられた危うさが感じられた。
「まあ傷も大事無いようだし、乗り物も大きな損傷はないのですぐに復活するだろう。無理をしないで養生しろよ。」
高瀬はそんな言葉を残して部屋を出て行った。高瀬が出て行ってからしばらくして若い軍医中尉が重傷者の処置を終えて医務室に戻ってきた。軍医は私の方を見ると「やあ、気がつかれましたね。」と微笑んだ。
「患者に死なれるほど医者として辛いことはありません。逆に回復した時ほどうれしいことはありません。戦闘機乗りなら敵機を撃墜した時のようなものですかね。」
特に深い意味もなく言ったのであろう軍医の言葉が心の奥底にある琴線に触れたように心に響いた。軍医から二、三の注意を受けた後部屋に帰された。そこはもうすでに戦捷気分の兵士達で沸き返っていた。自分の寝台に横になると間もなく、山下大尉がどこで手に入れたのか大福や団子を下げて現れた。
「武田中尉、初陣で大活躍だったそうだな。学徒出身で娑婆っ気が抜けんのかと思っていたが、予備士官にも骨のある奴が多いと見直したぞ。しかし無理はいかん。次からは敵の後方機銃を侮るなよ。今日は酒を飲むわけにはいかんだろうからせめて甘いものでも食ってくれ。」
山下大尉は早口で言うと寝台の脇へ包みを置いて部屋から出て行った。その後も入れ替わりに何人も見舞いに来たが、まるで今日の勝利をこの戦争に勝ったかのように晴れがましい顔を輝かせていた。
しかし私には高瀬が言っていたようにこれが単に戦闘の一局面での戦術的な勝利に過ぎず、それよりも『味方は百機のうちの二十機、敵は千数百機のうちの六十機、敵が力押しに押してくれば明後日には味方は全滅だ。』という言葉が生々しく思い出され、容易ならない現実に手放しで喜ぶ気にはなれなかった。
その晩は浅い眠りの中で苦しい夢を見続けた。土砂降りの雨のように降り注ぐ曳光弾、血まみれの自分の顔、炎に包まれて落ちて行く自分の乗機、何度も寝返りを打っては目を覚まして額の汗を拭った。そんなことを繰り返しながら明け方になってやっとしばらくの静かな眠りに落ちて行った。
窓から差し込む日差しにせき立てられるように目覚めると、もう朝の7時を回っていた。ゆっくりと体を起こすと頭の傷に手を当てた。包帯が分厚く巻かれて直接の感覚はなかったが傷は相変わらず疼いていた。枕元においてある水差しに手を伸ばして水を一口飲み込んだ。意識がはっきりとしてくると改めて昨日のことが思い出された。機銃弾に砕かれて落ちていった敵機、かろうじて生き残った自分、まさに紙一重、どちらが死んでも不思議ではなかった。自分の機銃弾が彼らをかすめて彼らの機銃弾が自分とそして乗機を砕いたら。そんなことを考えるとまた体が震え出した。
「失礼します。」
入り口で大きな声が響いた。
「おう。」
慌てて返事をすると司令部付の若い従兵が入って来てベッドの横で勢いよく敬礼した。
「飛行長が呼んでおられます。起きて来られるかと尋ねておいでですが。」
「大丈夫だと伝えてくれ。すぐに伺うと。」
私は従兵に答えるとすぐに起き上がった。体がふらついたが、こんなかすり傷で寝込んでいては戦死者や重傷者に合わせる顔がないと自分を叱咤してベッド脇に置いてあった作業服に着替えた。医務室からは一歩一歩床を踏みしめるようにして司令部に向かった。ドアをノックすると「入れ。」という飛行長の声が聞こえた。
「武田中尉、入ります。」
出来るだけ大きな声を張り上げるとドアを開けて中に入っていった。そして飛行長の前に立つと礼式どおり頭を下げて敬礼をしたが、勢いよく元に戻したとたんに眩暈がしてふらついた。
「無理せんでいい。」
飛行長は心配そうに私の方を見た。
「無理をさせて悪かった。実は司令が貴様に感状を出すと言われてな。悪いとは思ったが来てもらった。軍医に聞いたが『傷は差し障りない。』と言うのでな。」
飛行長は相変わらず心配そうに私を見つめていた。
「かすり傷です。何ともありません。」
私は強がりを言った。実際傷はかすり傷かもしれないが、それが私の心に与えた影響は大きかった。
「そうか、それでは○八三○から司令室で伝達を行う。服装は飛行服でかまわん。それから、・・」
飛行長は机の引き出しを開けると何かの書類を取り出してしばらく眺めていたが、顔を上げるとにやりと笑った。
「貴様、ここに許嫁が来ているそうだな。三日間休暇をやろう。どうせここにいても作業には参加できまい。ゆっくりして来い。山下隊長も『是非に休暇を与えてくれ。』ということだった。間もなく敵が沖縄に侵攻してくる。そうなるとこれが最後の機会かも知れん。司令部の側車で送らせよう。」
突然のことで何と言っていいのか分からなかったが、取りあえず「お心遣いありがとうございます。」と礼を言ってから飛行長の前を辞した。
ブログ一覧 |
小説2 | 日記
Posted at
2016/10/29 21:40:41
今、あなたにおすすめ